第二章 二周目勇者はかく語りき
第9話 奇跡の価値は
後に勇者として旅立つ日を迎えるイクサ・イシュノルアの故郷は、
集落の名は
牧畜や栽培、山菜の採取や、動物の狩猟など、集落に住まう人々はお互いに役割を持って、
イクサはそんな辺境の地にて、日が昇れば山へ潜り、夕暮れを背に集落へ帰る。という生活を幼少時より繰り返してきた。
勇者の末裔としてイシュノルアの姓を継ぐイクサだが、彼は今の慎ましい暮らしに満足していた。
魔王が封印され、魔物が南へ後退した時代に勇者は必要とされていない。彼が生まれた時点で、既に揺るぎようのない平和が築かれていたのだ。再び世が混沌に包まれてしまえば、などと悪魔に囁かれた試しもない。
無論、イクサには血統としてか、はたまた天性の才能ゆえか、卓越した身のこなしと、深みある魔術の叡智とが、同時に備わっていた。しかし、それらも『勇者の末裔』という肩書きと、扱いは然程変わらない。狩猟に役立つだけ、やや天秤が傾く程度の問題である。生前の父もまた、彼と同様だったらしい。
では、南に退いた魔物を討伐すればどうだろうか? その疑問に対する解答も「いいえ」だ。
光差せば、必ず影が生まれる。必然の理である。魔物の討伐、ひいては一掃しようともなれば、魔王の封印よりも遙かに困難な道のりとなるだろう。
なにより、人は北へ、魔は南へ。と自然に住み分かれた円環大陸にて、今更、魔物を討つ意義も薄い。知能指数の高い魔族の一部なんかは、人間との共存を求めて『ラッセンブルグ』に住み着いているという噂さえあるのだ。
それに、イクサは「争いの原因は人が先か、魔が先だったのか」などと真剣に悩むほど、暴力を嫌う温厚な人格の持ち主でもあった。村娘には、お堅い、融通がきかないなどと、なじられた記憶もあるが、現時点で、彼は人格を見直す必要性をまったく感じていなかった。
100年前。イクサの祖先であるイクフェス・イシュノルアが、二人の仲間━━シスとシューサを連れて魔王封印を成し遂げたのは、今もなお大陸隅々にて語られる伝承だ。
かつて、イクフェス・イシュノルアは聖剣━━今では聖遺剣と伝承されるラムスプリンガにて『神の光』なる極大魔術を発動させ、その光輝に魔王を閉じ込めたとされている。
魔王封印の悲願を果たしたイクフェスは、故郷であるコレンツィヒに戻ると、静かなる余生を過ごし、安らかな眠りを迎えた。その後、彼の遺骨と一部の遺品は、北のイエナバッハに埋葬される事となった。
二人の仲間。シスとシューサについては、出生から死去までの大部分が謎に包まれている。今となっては実在すら疑わしいとする説もある。イクサは死者に対する愚弄だと憤りを感じたが、平和が長続きすれば、感謝や崇敬の念が薄れていくのも、また避けられぬ弊害なのだろうと自らを宥めた。
何より……死者を愚弄するという部分において、もうすぐ、イクサは、誰かを非難する立場を失おうとしているのだ。
生誕の女神が二番目に産み落としたと歌われる日の輪が、天辺に差し掛かっていた。
雲一つない蒼穹から、力強い息吹が降り注ぎ、豊かな緑の草地に波を立てている。
イクサ・イシュノルアは、若くして病に倒れた父親の形見である両刃剣を腰に携え、普段は着用することのない軽鎧に身を包んでいた。
鮮やかな金色の頭髪は、日光に反射して金銀糸のようなきめ細かな光沢を纏っている。
色白で端整な容貌に、ほどよく鍛え上げられた体躯。澄みきった碧眼は、彼の人柄の良さを象徴しているようだった。
村の外れにぽつんと突出した小岩へ腰掛け、すぐ傍で眠る子牛を眺めながら、イクサはその時をじっと待っている。
日が昇っても狩猟に出ず、なにやら思い詰めた表情で沈黙を通す青年。そして、そんな我が子を静かに見守る母親。彼女は、愛する息子を悩ませる原因が、先日の風の噂にあるのだと確信していた。
イエナバッハにて、ある神託が告げられていた。それは世間を震撼させ、人々を畏怖させ、勇者の末裔を奮い立たせた。
――近く魔王が目覚める。
イクサは、深く追求もせず黙然と見送ってくれた母親に感謝していた。“二度目”の旅立ちは、前回よりも感慨深く、あまり長く会話していると、感情の奔流に押し流されてしまう不安があったからだ。
それは母親だけに限らない。彼はこれから、多くの人々と再会していく。その度に、本音を胸中に押し止めねばならないのだ。
改めて、使命の重さと辛さを噛み締めた。
唐突に子牛が起き上がる。生存本能だろうか。
子牛が見据える先には、見慣れない馬車が一台。長閑な平地を荒々しく駆けていた。
放し飼いとなっている牛達が低い唸り声を轟かせて、馬車の進む方向から逸れていく。
「大丈夫だ」
イクサは石のように硬直している子牛の背を撫でてやった。その間にも、馬車は見る見るうちにイクサ達との距離を詰めていく。
初めこそ、脇を通り過ぎる勢いだったが、イクサの気丈な立ち振る舞いにある種の感が働いたのか、騎乗者は慌てて手綱を引いて馬車を止めた。
そして、馬が懸命に引っ張ってきたであろう箱の中へそそくさと姿を消していく。
イクサは、彼等からの接触を待つ間に、全体的に白塗りされた馬車を観察した。
車輪と軸とを結ぶ真っ白な輻の部分は、所々に泥土がこびりついて薄汚れている。
半円型にも近い箱の上部には、イエナバッハに総本山を構える『ルーテン教団』のシンボル『十字架と花』の描かれた三角旗が、鉄軸で突き立てられていた。シンボルは、はたはたと横風に煽られて歪んで見える。
先程の騎乗者とは別に、一人の男性が箱から姿を現わす。前と同じだ。イクサは彼がとても苦手だった。
「我々はルーテン教団のものだ。二つ、答えて貰いたいのだが……まず先日の神託については、このような辺境の地にも既に届いているものかね?」
やや高圧的な態度は相も変わらず、ルーテン教団の男は角張った顔立ちに険のある眼光を秘めて、イクサを見下していた。
「あぁ」
イクサは不必要な反感を買わないようにと、ごく短く答えた。彼もかつての失敗に学んでいる。
「では、この辺境の地。コレンツィヒに住まう勇者の末裔に会いに来たのだが……」
辺境の地。を強調していた為か、相手の語勢は尻すぼみになる形で途切れた。内心、薄々勘付いているのだろう。
「俺がその勇者の末裔……イクサ・イシュノルアだ」
「そうか、名乗るのが遅れたな。私はシャロル・ケンプフェルト。君をイエナバッハまでお連れするようにと教団から言伝を預かっている。悪いが、猶予はあまりないのでな、今直ぐ出発させて貰うぞ」
一方的に告げるなり、シャロルは踵を返した。成り行きを静観していた騎乗者も、無言で鞍に跨っている。
「わかってるさ」
誰に言うでもなく独り呟くと、イクサは馬車に向かって、故郷との別離となる一歩を踏み出した。その直後――
「イクサっ!!」
背後から、聞き親しみのある母親の声が聞こえた。イクサは振り返らずに、足を止める。
「必ず、帰ってくるのですよ」
「……あぁ、必ず帰るよ」自分でも驚くほど、今にも消えてしまいそうな声だった。
「イクサ、貴方が世界を救っても、その先に貴方がいないのであれば、私は、そんな世界を見たくはありません」
とても優しい。愛しい人の行末をひたむきに案じる声音。その優しさが楔となりて、深く心に突き刺さる。
「……」
咄嗟に返すべき言葉が見つからなかった。かつての自分は、どんな言葉を掛けていただろうか。
イクサは溢れ出る感情の津波を内に抑えるのが精一杯で、何も思い出せなかった。
「ごめんなさい。イクサ……どうかお気をつけて」
なぜ母は謝ったのか。どうして自分は、そんな彼女に対して、たとえ嘘でもいいから、安心させるような一言を返せないのか。
結局、イクサは一度も振り返ることなく、馬車へと乗り込んだ。
シャロルの訝しげな視線が、彼の全身を舐め回していたが、そんなものに取り合う気分ではなかった。
彼は二度目となる旅路に、全てを賭けようとしている。
――俺は、今度こそ、魔王を救ってみせる。
勇者イクサ・イシュノルアの二度目の旅立ちは、決して、誰にも共感されないであろう孤独と共に始まった。
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