第762話 あの日の指切り

 朱音はふと立ち止まる。

 俺もそれに倣った。


「……欲張りな人」


 その呟きには、責めているというより、笑いを堪えているような響きがあった。


「当時のあなたには、傍に誰もいなかった。世界の壁を越えて会いに行けるのは私だけ。だから、あなたが全てを思い出すまで隣にいたの。この世界にはあなたが必要だったから」


「世界のために?」


 黒い後頭部に、俺は尋ねた。


「うん」


 朱音は振り返らず続ける。


「それがあなたの望みだったでしょ?」


「……たしかにそうだ」


「今、あなたの傍にはたくさんの人がいる。支えてくれる人には事欠かない。これ以上何を求めるつもり?」


 朱音の言葉に、否定や拒絶の色はない。それどころか、どこか期待しているような節さえある。

 彼女は質問の裏にどんな想いを隠しているのか。


「なぁ朱音。前から気になっていたんだけどさ」


「うん」


「お前って、もしかして同郷なのか?」


「あはは。やっと気付いたの?」


 振り返った朱音は、いたずらが成功した少女のような笑みを浮かべていた。


「私も日本生まれ。あなたと同じね」


 俺は溜息を吐く。


「どうりで馴染んでると思った。朱音にとっては、生まれた世界に戻ってきただけだもんな」


「でも、最初は驚いたよ。私がいた時代とは全然違うんだもん。異世界って言ってもおかしくないくらい」


「時代? 朱音は何年生まれだったんだ?」


「昭和九年生まれ」


「昭和……九年?」


 いまいちピンとこない。俺が生まれた時、昭和はすでに終わっていた。


「今でもはっきりと思い出せるよ。アメリカの飛行機が飛んできて、爆弾を落としていった。家族とはぐれた私は、たった一人で燃え上がる街を駆け抜けて……気付いた時には異世界にいた」


 俺は息を呑んだ。東京大空襲。

 話でしか聞いたことのない戦争を、朱音は経験していたんだ。


「あなたと違うのは、その身のままで異世界に飛んだってところかな。私は転移。あなたは転生でしょ?」


「ああ……そうだな」


 青信号が点滅する。


「それから私は一生懸命に生きた。生きる為に戦って、強くなって、歳をとらなくなって、いつの間にか数百年も経っていたの。だから、あなたが日本生まれだって気付いた時は嬉しかった。そんなことは初めてだったから」


「朱音」


 今になってやっとわかる。

 俺にとってアカネはひたすら強くてなんでも知ってる、神出鬼没のスーパーヒーローのような存在だった。

 だがそれは表面上の姿であって本当は違う。朱音はただ、孤独な少女に過ぎなかった。


「クィンスィンの民として戦場を渡り歩いたり、貴族の家で働いたり、ヘッケラー機関を作ったり、転移した世界のために行動しては、成功したり失敗したりを繰り返してきたの。そんな中で、世界の真実に辿り着いた。女神の存在や、人の運命についてのこと。それでも私には限界があった。問題の原因がわかっても、解決はできなかった」


「俺になら、それができると?」


「うん」


 朱音は頷く。


「だから日本に戻ってまで、あなたを見守っていたんだよ」


「そいつはありがてぇ。でもな」


 朱音の黒い瞳をじっと見つめる。


「お前が一緒にいてくれなきゃ、俺だってなんもできやしねーんだ」


 俺は朱音を強く抱きしめた。

 信号が、赤に変わる。


 横断歩道の真ん中で抱き合う俺達に、凄まじい速度の大型トラックが突っ込んできた。

 そのトラックは、俺が展開したバリアに激突し、轟音を伴ってひしゃげながら、軌道を変えて宙に舞った。


「指切りしたろ。ずっと一緒にいるって」


「嘘ついたら、針千本のます?」


「ったりめーだ」


 俺達は強く抱きしめ合う。

 世界が、崩壊を始めていた。

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