第763話 天に座する

「過去の未練を、断ち切ったのね」


 俺の胸の中で、朱音がぽつりと呟く。

 現代日本の風景は、ところどころ罅割れ、急速に綻んでいく。


「未練か。自分でも気付かないうちに、元の世界に未練を持ってたのか。俺は」


「……そうかも」


 朱音は俺の胸に顔をうずめる。

 思えば、この世界でも、もとの世界でも、朱音はずっと俺を助けてくれていた。

 マーテリアに記憶を奪われてからの二年間。朱音がいなかったら腑抜けていただろうし、この世界に戻ってくることもなかっただろう。

 俺に、生きる理由を取り戻させてくれた張本人なんだ。


「もう。俺の傍から離れるなよ」


「いっちょ前なこと、言うようになったね」


「俺は日々成長してるんだ」


「私からすれば、まだまだお子ちゃまだよ」


「かもな」


 罅だらけになった世界は、ついに崩れ落ちた。

 ガラスが割れるような音と共に、光と色がバラバラに散っていく。

 その隙間から霧が吹き出し、また別の世界の形成していった。


「ここは……」


 石造りの大伽藍。

 高い天井。規則的に並んだ窓からは、青い空と白い雲が見える。

 天空に浮かぶ大地の上に建つ、巨大城。


「コッホ城塞。戻ってきたようじゃな」


 すでに俺はロートス・アルバレスの姿に、アカネはのじゃロリモードに戻っていた。


「ここもファルトゥールの創った世界か」


「そうじゃ。本来のコッホ城塞は、今や閉ざされた時間の中にある。ここはおぬしとわらわの記憶から創り出された。かつてあった臨天の間じゃ」


 臨天の間。

 二年前、俺がマシなんとか五世と戦った場所であり、この世界に戻ってきた時にのっぺら少女と修行をした場所でもある。

 俺にとって思い出深い場所だが、アカネにとってもそうなのだろうか。

 アカネはヘッケラー機関の創設者だから、間違いなく縁はあるんだろうな。


 抱き合っていた俺達は、どちらからともなく体を離し、大伽藍の奥に向く。

 臨天の間の最奥の壁には、一面を埋める巨大な絵画がかけてあった。まるで高層ビルのような一枚絵であり、そこには一人の美女が描かれていた。鎧を着込んだ銀髪の白人美女だ。見覚えはない。

 そして、巨大な絵画の前には、それを見上げる一人の少女の後姿があった。白いレオタードに身を包み、背丈より大きな鎌を担いでいる。


「ファルトゥール」


 アカネがその名を口にした。


「ようやっと、見つけたのじゃ」


 小柄な死神幼女が、ゆっくりと振り返る。


〈迷い人。それに、アルバレスの御子か〉


 創世の女神。

 法理の光ファルトゥール。


〈我が新世界に土足で踏み入るとは……礼儀を知らぬ痴れ者め〉


 俺達は、正真正銘の女神と対峙していた。

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