第761話 過去の記憶

「アカネ。霧の奥まで行くって言うけど、どうすればいい? ここは方向もわからないぞ」


「どうもせん。待っていればいいのじゃ。この霧はファルトゥールが創り出す世界の素。性質としては根源粒子に近い。というより、ほぼ根源粒子そのものと言ってもいいかもしれんの」


「根源粒子そのもの?」


「マーテリアの瘴気、エストのスキル、エンディオーネの加護。それらは根源粒子に神性を付与し、特定の効果をもたらす物質に変換したものなのじゃ。じゃが、この霧は、ファルトゥールの司る法理を神性を帯びてなお、まだ何物でもない。変化の余地を残しておる」


 アカネの言葉の聞いている途中で、周囲の風景が変わっていく。


「これは……」


「ほう。なかなかどうして、いい趣味をしておる」


 溶けるように、あるいは積み上がるように、世界が構築されている。

 都会のど真ん中。高層ビルが立ち並ぶ交差点。

 鳴り響くクラクション。エンジン音。街の喧騒。


「まじかよ」


 現代日本。俺がいた世界の風景だ。


「ファルトゥールの奴は、俺の記憶でも読んでやがるのか?」


 まさしく俺の記憶にある場所だ。

 この交差点は、俺が最初に死んだ場所であり、エンディオーネに出会ったところ。

 それは前世のエレノアを助けようとした場所でもあった。

 そして、全てを忘れてこの世界に戻ってきた俺が、再びトラックに轢かれて死んだ場所でもある。


「ファルトゥールが記憶を読んでるんじゃなくて、あなたの記憶が霧に作用しているの」


 俺の隣には、ミニスカートを履いた美人の女子大生がいた。艶やかな黒髪は肩のあたりで切りそろえられており、色白な肌とあいまってとてつもない透明感と清潔感を纏っている。幼さと妖艶さを兼ね備えた顔立ちは、すれ違う男どもがこぞって振り返るほどだ。


「朱音」


 彼女は、俺が記憶を失っていた頃に永遠の愛を誓った、かつての恋人だった。


「その姿……」


「この空間じゃ、私達の肉体も霧の影響を受けるみたい。あなただってそうなってる」


 信号待ちをしている車の窓ガラスを見る。そこに映っているのはロートス・アルバレスじゃなく、冴えない日本人男子の御厨蓮だった。


「行こう、蓮」


 朱音の柔らかな手が俺の手を取って、青信号になった交差点を進む。

 周囲の環境の何から何まで、俺がいた現代日本と相違ない。


 こうしていると、思い出す。

 元の世界に戻っていた二年間を。その出来事と感情を。

 朱音の手をぎゅっと握り返す。それに応えるように、朱音の手にも力が込められた。


「なぁ、朱音」


「なに?」


「お前が現代日本に来てたのって、俺を連れ戻すだけが理由だったのか?」


 それは言外に、あの二年間の恋愛は真実か、あるいは偽りであったのかを質した問いでもあった。

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