ツキモノガタリ

これはある月の美しい夜のことでした。

男が道を歩いているとふいに揺れる影をみつけてそちらに目を向けました。

そこにはとても美しい女がいました。

月に照らされたその美しい女の影はひらり、ひらりとまるでまいでも舞っているかのように揺れていました。

ほんの少しの間、その姿に見入みいっていた男でしたがすぐにこのような夜に女一人では危ないだろうと思い女に声をかけることにしました。

男が美しい女に近づいていくと、女は男に向かって微笑みかけました。

そしてあかく形の良いくちびるをゆっくりと男の耳元に近づけます。

そしてそのわずかに開かれた唇から美しい声音こわねを聞かせます。


「にぃぃぁぁ……」


短い猫の鳴き声を聞いた男はそのまま意識を手放し倒れてしまったのです。


男が目覚めると次の日になっていました。

美しい女に近づいたら女の口から猫の鳴き声がしてその声を聞いた瞬間、卒倒そっとうしてしまった。

男は昨夜の出来事を思い出し大慌てで昨夜のことを周囲の人間に話したが、誰一人まともには取り合ってはくれませんでした。

またどうせ夢でもみてたんだろう、寝ぼけていたんだろうと嘲笑わらわれるのがオチでありました。

男がどれほど本当の事なのだと騒いでも皆は信じてはくれません。

男自身も昨夜さくやの出来事が本当に起こったことだったのか、はたまた夢だったのかわからなくなっていました。

そして夢だったのならその方が良いとも思っていました。


その日、また夜になり男が昨夜と同じように道を歩いていました。

昨夜、女を見た場所にさしかかると男は身を固くしました。

しかしその場所はいつもと変わらない暗い夜道が広がっているだけでした。

辺りを注意深く見渡してもそこには男しかおらず男の影さえもあつい雲間からのぞく月影では映し出されることはありません。

男は薄い月明かりに少々心もとなく思っていましたがその日は何事もなく家にたどり着くことができました。

次の日もそのまた次の日も女は現れません。

男はやはり疲れていたせいで寝ぼけてしまったのだとその出来事をそう片付けることにしました。

そんな何気ない日常を男が過ごしていたある夜、友人と酒をみに飲み屋に立ち寄りました。

酒の力もあり調子に乗った男は、その時のことを笑い話として話しました。

その場に居合いあわせた客は聞こえてくるその話に驚いたり嘘だと嘲笑ったり怖がったりと皆、興味津々でした。

あまりにも皆がその話に食いついたので、気分を良くした男は寝ぼけていたかもしれないとは言いません。

まるで武勇伝ぶゆうでんのように話をしました。

その時、男の話を隣の席から聞いていた一人の老いた女がふと男にたずねました。

「どうして鳴き声だけで気を失ったんだい?」

そのあざけりとも好奇心ともとれない声音の問いに男は戸惑いながらも必死に答えました。

「ただの猫の鳴き声じゃないぞ。美しいと思っていた女の口から猫の鳴き声が聞こえてきたんだ!」

男の答えに近くにいた客たちが次々に問います。

「近くの野良猫か何かが鳴いたわけじゃなくて?」

「鳴き声は耳元からした!耳元にわざわざあの女は口を寄せてきたんだ!あの女の口からだった!」

「本当に見たのかよ?暗い夜道じゃ美しい女なんて見えないだろうし、木か何かと勘違いしたんじゃないか?」

「あの日は月が綺麗に出てて明るかったから見間違えるなんてあり得ない!」

「でも逃げるとかじゃなくて鳴き声聞いただけで卒倒しちまうなんて少々情けなすぎやしないか?」

「あんたたちはあの女の声を聞いてないからそんなことが言えるんだっ!!」

男は腹を立ててそれ以上話すことはありませんでした。


一人になり家路いえじについている男は歯噛はがみをしていました。

「馬鹿にしやがって!!くそっ!!」

辺りには誰もおらず彼は大きなひとごとをこらえることなくぶちけていました。

美しい月だけがその姿を見ていました。


その日もとても月の美しい夜でした。

不愉快で不機嫌な顔を隠すことなく男が道を歩いているとふいに揺れる影をみつけてそちらに目を向けました。

そこにはとても美しい女がいました。

月に照らされたその美しい女の影はひらり、ひらりとまるで舞でも舞っているかのように揺れていました。

男は女を見て瞠目どうもくし、そして沸々ふつふつがる怒りをそのままに女に近づきました。

先日まで身を固くして怯えて歩いていた男とは思えません。

この化け物をつかまえ馬鹿にした奴らに目に物見せてやる!

男はそう意気込いきごんで美しい女につかみかかる勢いで向かっていきます。

男が美しい女に近づいていくと女は男にむかって微笑みかけました。

そして紅く形の良い唇をゆっくりと男の耳元に近づけます。

そしてその僅かに開かれた唇からしゃがれた声音を聞かせます。


「にぃぃぁぁ……」


この声には聞き覚えがあるっ!!

一気に酔いがめた男は、目を見張みはり女を見つめます。

女は、口がけるほど引き上げてにたりと嘲笑っていました。

女は、目が三日月よりも細められてきらりと光っていました。

まるで獲物を前にした獣のように。

男の心臓は張り裂けてしまいそうなほど強く胸を打ち鳴らし、男のからだは震えが止まりません。

男は怯えながら吠えるように女に向かって言い放ちます。

まるで小さく弱く愚かな、そう、負け犬の遠吠えのように。

「お……おまえっ!さっき隣りの席にいた婆さんだなっ!!俺のことを馬鹿にしやがってっ!この化け物めっ!!」

女はくつくつと嘲笑いながら、じりじり男との距離を詰めていきます。

「あ"ぁぁぁ」

女が口を開いたまま近づいてきます。

猫の鳴き声か絶命する人間の嘆きかわからない声をあげなから。

男はその女の姿を見て腰を抜かしガタガタと震えながらうように逃げようとしますがそれはまるで夢の中のように体が上手く動きません。

これは夢だっ!!また寝ぼけているんだっ!!酒のせいで酔ってまぼろしを見ているんだっ……そうに決まっているっ……そうでなくてはっ……!

男は目の前の現実から必死に逃げ出そうと自分に言い聞かせますがその影はゆらゆらとまるで尾を揺らす猫のようにひたりひたりと近づきます。


「に"ぃぃあ"ぁぁ……」


猫の鳴き声か赤子の泣き声か。

その声を聞いた時、男はその女のことを全て思い出したそうです。

そう、あの日も猫の鳴き声のせいじゃない。

あの夜のことを思い出したから気を失ったのだと。

恐ろしくて逃れようのないうらみ。

男はそう、あの夜のこともそれより前のおかした罪も全てを思い出したのです。

美しい女の姿、絶命する人間の嘆き、赤子の泣き声そして老いた女の言葉。

あぁ、あの日もこんなに月が美しい夜であった。

男は意識を手放す寸前すんぜんにそんなことを思っていたそうです。

短い猫の鳴き声を聞いた男はそのまま意識を手放し倒れてしまったのです。

女は月を見上げ、その女の影は月明かりにゆらりゆらりと揺らめいていました。


男が目覚めると次の日になっていました。

美しい女に近づいたら女の口から猫の鳴き声がしてその声を聞いた瞬間、卒倒してしまった。

男は昨夜の出来事を思い出し大慌てで昨夜のことを周囲の人間に話したが、誰一人まともには取り合ってはくれませんでした。

またどうせ夢でもみてたんだろう、寝ぼけていたんだろうと嘲笑われるのがオチでありました。

男がどれほど本当の事なのだと騒いでも皆は信じてはくれません。

男自身も昨夜の出来事が本当に起こったことだったのか、はたまた夢だったのかわからなくなっていました。

そして夢だったのならその方が良いとも思っていました。


また月の美しい夜がくる。

また憑き物が語る朝がくる。

くるくる、くるくる繰り返し。


これはある月の美しい夜のことでした。

そこにはとても美しい女がいました。

月に照らされたその美しい女の影はひらり、ひらりとまるで舞でも舞っているかのように揺れていました。

女は微笑みそして紅く形の良い唇をゆっくりとその僅かに開かれた唇から美しい声音を


「にぃぃぁぁ……」


これは美しい月の憑き物の語るツキモノガタリ。





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