第6話 大舞台に臨む

あれから女将さんの小料理屋に毎日のように足繁あししげく通っている。

女将さんにはホラー話を話してもらい料理に舌鼓したつづみを打つ。

酒吞さんやタマさん、ヤギカガチさんたちと取り留めのない話をしていると学生時代に出来なかった青春を取り戻しているようだった。

今の俺は楽しい日々を過ごしている。

少し前までの俺を苦しめていた不満も退屈も心配も何一つない。

そんな日がずっと続いていくと思っていた。


「今すぐ帰りたい。吐きそう」

「だめですよ先生」


俺はたった今、ものすごく苦しめられている。

椅子に座ってあからさまに顔色の悪い俺に間髪かんぱつ入れず容赦ようしゃない一言をびせているのは俺の担当編集者だ。

彼とは長い付き合いだ。

小説家になり立ての時からずっと俺の担当をしてくれている。

感謝もしているが、頭が上がらない相手でもある。

彼は酒呑さんやヤギカガチさん程ではないが整った顔立ちをしている。

今日、着ているフォーマルな格好だとよりかっこよく、そしていつも以上に厳しく見える。

「俺には無理なんだよ。場違いだし居心地悪いし」

「先生、いい大人がわがまま言わない」

俺の抗議の声を彼はこちらに目を向けることなくぴしゃりとはねつけた。

ここは都心にある大きな書店。

にぎわう店内で、周囲の楽しそうな雰囲気に反して俺は居心地悪く項垂うなだれている。

ちらりと横目で壁に存在感を主張するように貼られたポスターを見やり俺は一人頭を抱えていた。


『コーナーリバー出版70周年記念イベント!イラスト原画・マンガ原画展示会&日替わり人気作家サイン会!絶賛開催中!!』


俺はコーナーリバーという出版社で小説を書かせてもらっている。

今日はこの出版社の創業70周年を祝う記念すべき大事なイベントのサイン会に出席させてもらうことになった。

俺にはもったないほどの大役をおおせつかってしまったと思っている。

もっと適した作家の方々もいると思うのだがそれを差し置いて出席するのは正直心苦しい。

最近やっと小説家として軌道きどうに乗り始めたぐらいの俺がサイン会なんてやっても人が来てくれるとは到底とうてい思えない。

このイベントのサイン会は毎日日替わりで5人の作家がやってくるのだが皆人気者ばかりだ。

今日は特に有名で人気者な作家ばかりだというのだから周りは長蛇ちょうだの列ができるだろう。

そんな中でおそらく俺のスペースだけガラガラになってしまう。

嫌な目立ち方はしたくない。

帰りたいと訴えても担当が許してくれない。

そもそも俺はサイン会に出るつもりはなかったと頭を抱える。

今日のサイン会に出席している人気作家が同期だから手伝ってくれって言う要望に応えただけなのに。今日は準備を手伝いにきただけだったのに。

あれよあれよと話が変わっていきいつの間にか俺までサインを書くことになってしまった。

同期の作家と担当が俺に気遣って厚遇こうぐうしてくれてしまったのだ。

なんの下準備も心の準備もなくこの大舞台にのぞむ俺は間違いなく無鉄砲な男だろう。

「なぁ、プレッシャーで吐きそう」

「吐いても片付けてあげますからとりあえず座っててください」

優しいのか鬼なのか、いや両方か。

俺は彼に反論する気もなくなって椅子の背もたれに体を預けた。

このままうつむいて下を向いたら本当に吐き出してしまいそうで無意味な抵抗だとわかりつつ顔を上げて天井を見つめた。

「先生、元気を出して。しっかりしてくださいよ。サイン会が始まるまであと1時間ないですよ」

わかっている。

けれど出てくるのはため息ばかりだ。

面倒くさいから出るため息ではない。

緊張からくるものだ。

緊張で鼓動が鳴り止まなくて胃まで刺激して吐きそうになる。

落ち着きのない感情を呼吸で必死で抑えている。

ため息というより深く息を吐いている。

深呼吸しているといったほうがいいかもしれない。

「堂々としていてくださいよ。なんでそんなテンションなんですか?」

「いや、いきなりこんな大きなイベントに出るなんて思ってもいなかったから。たまたま同期の作家がいたからなのに申し訳ない気がして」

心底申し訳なさそうな顔をしている俺に担当は深いため息をつきながら困ったように笑った。

「運も実力のうちってやつですよ。なんの心配も申し訳なく思う必要もありません。それに運だけではないです。大丈夫です」

担当がこちらに近づきながら言葉を続ける。

「あなたは年数ばかり長いんですから知り合いが多くても当然です。でもその知り合いがあなたに関わりたいと思うかは別でしょう?ただの顔見知りだけなら引き上げたいとは思わないでしょう?これはね、運だけではありません。あなたがつちかってきた人徳じんとくです。その人たちの顔を立てると思って甘んじて受けておきなさい」

年数ばかり長いという言葉は少々引っかかったが彼の優しさはわかる。

彼は顔を上げている俺のひたいに冷えたペットボトルをあてて笑った。

「まだまだ名の売れない小説家でありながらこんな大きなイベントでサイン会できるんです。笑いが止まらないくらいが普通でしょう?」

「そうなの!?俺ずっーと嘔吐えずいてるけど!?」

思わず俺から頓狂とんきょうな声が飛び出し、彼から受け取ったペットボトルを手から取り落としそうになる。

彼は少々緊張がやわらいだ俺の様子を見て少し安心したように微笑んだ。

「俺は楽しみですよ。先生、初のサイン会ですからね。自信もってください」

「自信なんてないよ。めちゃめちゃ売れてる作家さんならともかくさぁ。俺なんてつい最近やっと大きな仕事がもらえて名前が売れ始めたくらいだよ?」

「……この間の威勢いせいはどこ行っちゃったんですか?別人みたいになっちゃってるじゃないですか」

「だってあの時は脱稿だっこうハイみたいなところあったしさ。なんていうかアドレナリン出まくってたから」

「じゃあ、アドレナリン出し続けてください」

「ムリだよ!!」

とんでもないこと言い始めたよ、この担当。

無茶苦茶にも程がある。

抗議の声を上げる俺をよそ目に彼は嬉しそうな声を上げる。

「その調子ですよ、先生」

俺のことを勇気づけてくれようとしているのはわかったが少々荒っぽすぎやしないか?

俺がわざとらしく彼を軽く睨むと彼は清々すがすがしいほどの爽やかな笑みを浮かべていた。

俺は先ほどまでとは違う意味でため息をついた。

彼のアメとムチは少々激しすぎる。

けれど、長い付き合いだからわかる。

「……うん、でも……そうだな。本当にいつもありがとう」

彼がここまで言ってくれているのだ。

そして俺が何を言っても、結果どうなってもサイン会の時間は刻々と近づいてくる。

俺は静かに腹をくくることにした。


「そういえば、いつまでもここにいて大丈夫?彼女の方は一人にしてて平気?」

俺が彼にそうたずねると彼はあからさまに嫌な顔をした。

「あぁ、大丈夫でしょう。一人にしておいても他人様ひとさまにご迷惑かけることはないでしょうから」

彼はこちらを見向きもせずに言い放つ。

「いや、彼女が一人で不安じゃないかってことなんだけど。彼女も初めてでしょ?こういう大舞台は」

俺が言いつのると彼は心底面倒くさそうにため息をつく。

「はぁ、正直面倒くさいんですよね。俺は先生だけで手一杯だというのにいらん新人まで押し付けられて」

面倒くさいって言っちゃったよこの人。

手一杯の仕事をさせて申し訳ないと思いつつ彼に更に声をかける。

「彼女の担当さんが家庭の事情かなにかで今休んでるから、その代役だっけ。仕事が多いのは大変だろうけど、すぐに戻って来るらしいからそれまでの辛抱しんぼうだよ」

じっと彼の形の良い瞳に鋭く見つめられて俺は少したじろいだ。

「えっと、俺が迷惑をかけて仕事を増やしてるのかな?……ごめんな。とりあえず俺の方はなんとか自分で出来るから彼女についててあげな」

先ほどまで嘔吐いているだ帰りたいだと言っていたことを棚に上げて彼の背中を押す。

「……俺はあなたの担当なんですけどね」

そのことを忘れないでくださいよ、と付け加えられた小さな呟きを残し俺に背を向けて歩き出す。

彼の言葉に俺は少々の驚きと思ってもみない言葉への嬉しさに動きを止めた。

彼は不貞腐ふてくされたように言ったけれど、その言葉のなかにはやや素直ではない彼から俺への強い想いがみえたようで嬉しくなった。

そして彼に悟られないように真面目な顔をしてみせたがたまらず笑顔が溢れ出してしまった。


「まもなくサイン会が始まります」


会場にアナウンスが流れる。

ほおゆるんで口角こうかくが上がりっぱなしだ。

やってくるお客さんや周りにいる人たちに気持ち悪いと思われないようにしたいのに、にやけた顔が隠せない。

どんな顔をしてればいいかわからなくなったじゃないか。

俺の担当に、心のなかで少しだけぼやく。

結局どんな顔でサイン会に臨めばいいかわからないまま、イベントの幕は上がった。





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