赤いもの

これは私の友人から聞いたお話です。

彼女は旅行が趣味で休みがあれば各地かくちいろんなところに行っていました。

その日もある地方に旅行に行きました。

旅行先に着いてみると自然がたっぷりで晴れ渡る青空に浮かぶ入道雲が絵になる景色だったそうです。

彼女は宿泊するホテルを目指して両側を山に囲まれた道をゆっくりと歩いていました。

人通りは少なくごくたまに車が通り過ぎるくらいで、誰かにかされることもない。

うだるような暑さも遠くに聞こえる蝉時雨せみしぐれも普段とはどこか違うものに感じられて心地よい。

日頃感じている喧騒けんそうやストレスから解放される瞬間が旅行の醍醐味だいごみだと、彼女は嬉しそうに言います。


長く続いている道を進んでいくとバス停が見えてきました。

彼女はその停留所ていりゅうじょの時刻表に近づいてから少し考えます。

この先はまだ道は長く続いていそうだ。

歩いているのは心地よいけれど、山の天気は変わりやすいとも聞く。

ホテルのチェックインの時間も心配だ。

彼女は時計で今の時間を確認すると時刻表でこれから来るバスを探しました。

人通りが多い場所ではないのでバスの本数も限られていそうでしたが、幸いなことにバスはあと10分程度でやってくる。

彼女はバスを利用することにしました。

彼女は停留所にそなえられた椅子いすに荷物と腰を下ろすとほっと息をつきます。

誰もいない静かで空気のよい場所で穏やかに流れていく時間が心地よく、座っていると少々疲れ始めた足もゆっくりとえていきました。

ほんの少し目をつむり山から聞こえてくる鳥や虫の鳴き声や木々の葉擦はずれの音に耳をかたむけてみました。


「ついていってもいい?」


彼女は慌てて目を開きました。

そして急いで辺りを見回します。

けれどたった今確かに聞こえた声の主の姿は見当たらなかったそうです。

若い女性の声だったそうです。

その声は彼女のすぐ耳元で聞こえたはずでした。

彼女が目を開くまでほんの一瞬だったというのに若い女性はおろか辺りは車も通っておらず人は誰一人見えませんでした。

目の前には道をはさんで山が広がっているばかりで彼女は不思議に思いましたが聞き間違いだと思うことにしました。

腕時計を確認するとあと数分でバスが来る時間だとわかり彼女は荷物を持って立ち上がりました。

バスが来るであろう方向に顔を向けて腕時計と道の先をちらちらと何度も交互こうごに見ながら体を揺すり落ち着きのない様子でバスを待っていました。

誰もいない空間が急激に恐ろしくなったのです。


「ねぇ、ついていってもいいかなぁ?」


その声はまた聞こえました。

すぐ前から。

彼女の目はバスが来る方向の道を見ているので、しっかりとは見えてはいませんでした。

しかし目のはしでは何か赤いものをとらえていました。

何かいる……。

彼女はそう思っても視線を向けることはできませんでした。

一体どのくらいの間そうしていたのでしょう。

彼女は恐ろしくて動くことも逃げ出すこともできずただひたすらに道の先を見ていたそうです。

もう来てもいいはずのバスは一向いっこうに姿を現さない。

そんな時間がいつまで続くのかとおびえていると目の端の赤いものはゆらりと動いた。

そしてその赤いものはだんだん広がっていく。

私の視線の先に来ようとしているっ!!と彼女は息を呑みました。

恐ろしくて恐ろしくてたまらない。

けれど目を瞑ることも恐ろしくてできない。

彼女はもう腹をくくるしかないと思ったそうです。

けれどその赤いものはゆらゆらと彼女の視界のぎりぎり見えるところで揺れ動くばかり。

ゆらりゆらりと何か布が風で揺れているみたいに。

そのうち少しずつ赤いものは目の端に戻っていき完全に視界から消えたそうです。

彼女は自分が見たものは一体何だったのか、わからないままバスは予定よりわずかに遅れてやってきました。

長いと思っていた時間はほんのわずかしか経過けいかしていなかったそうです。

彼女は安堵あんどの息をらし、バスに乗りこみました。山道のため大きく体は揺らされていました。

ゆらりゆらりと。

まもなくその日、宿泊するホテルに到着しました。

彼女は受付のためフロントにいた男性に声をかけました。

まだつとめ始めてまもないようで度々たびたび手帳を見て手順を確認しては受付をするのにかなり時間がかかったようでした。

それでも彼女はつたないながら一生懸命なフロントスタッフの姿に新人時代の自分を重ねて少々温かい気持ちになっていました。

本日予約を入れていたむねと名前を伝えると名前を確認しながらフロントスタッフが少しいぶかしげな顔を一瞬しました。

けれどフロントスタッフはすぐに顔をやわらげてからおずおずと彼女にたずねました。


「本日はお一人様のご予約をいただいているのですがおれ様の分はいかがなさいますか?」


彼女は一人旅です。

ここまでも一人でやってきました。

お連れ様などいるはずもありません。

脳裏のうりに先ほどの事がよぎったそうです。

あの女性の声と赤いもののことが。


「……私、今、一人なんですけれど」


震える声でそう一言だけ声にするとフロントスタッフは一度大きく驚いた表情を見せてから静かにうなずきました。

もう何も聞きませんとでも言うみたいに。

「かしこまりました。それではすぐにお部屋までご案内致しますので少々お待ち下さいませ」

彼女は背筋が冷たくなりながらもフロントスタッフの案内を待っていました。

フロントスタッフはどこかに連絡しているようで少しの間、彼女は待たされました。

すると少々年配の男性スタッフがフロントに足早に近づいてきました。

フロントスタッフが何かを必死に男性スタッフに伝えると男性スタッフはちらりとこちらを一瞥いちべつしました。

そしてそのまま体がこおりついたかのように顔面蒼白がんめんそうはくになり直立不動ちょくりつふどうのまま立ちくしてしまったそうです。

様子がおかしくなったことに気づいたフロントスタッフは男性スタッフに声をかけました。

「支配人?どうしました?」

その言葉にも支配人と呼ばれた男性スタッフは応答することなく目をこぼれ落ちそうなほど見開き驚愕きょうがくした顔のまま彼女の後ろを見つめていました。

彼女はその支配人の姿にもしかしたらこれまでの不可思議な出来事の原因はこの男にあるのではないかと思ったそうです。

そしてその予感は的中していました。


「ただいま」


本当に嬉しそうな声がして可笑おかしそうな高らかな女の笑い声が耳元から響きそしてゆっくりと遠ざかっていく。

そして私の友人はその時、気づいたそうです。

あの時、目的地は同じ場所だったのだと。

あの声は此処ここに帰ってきたくて何度もついていってもいいかと言っていたのだと。

そして女はついてきたのです。

女は帰ってきたのです。

目の前の男のもとまで。

女と男の関係までは知るよしもなかったが目の前の男の姿を見ればそれが望まれたことではなかったことは想像はできたそうです。

私の友人はそれを追求するすべもなければ必要もないとフロントスタッフに声をかけてその場を後にしたそうです。

フロントスタッフが彼女を見送るためにホテルの前まで出ようとすると支配人の情けなく引き止める声がしていて彼女は後ろを振り返ることなくホテルに背を向けて歩き出しました。

数歩進んでからバスの時間がわからないことを思い出しました。

フロントスタッフにでも聞こうと思い振り返るとそこには赤いものが広がっていました。

私の友人は息を呑み、ホテルに駆け込むとフロントスタッフに叫びました。


「きゅ……救急車をっ!!人がっ!!」

彼女が振り返った先では支配人が血を流して倒れていたのです。

血は背中からあふれ出し彼の服や地面を赤くめながら広がっていました。

その時はじめて彼女は女の姿を見たそうです。

赤いロングコートは所々ところどころ白くて元々は白いロングコートだったことがわかりました。

男にうようにしゃがみ込むとらされた長い髪は地面に触れてしまっていました。

裸足のままなことも気にもせず男の顔に手をわせます。

そして本当に嬉しそうに可笑しそうに恍惚こうこつに満ちた表情で男のほおに頬をせていたそうです。

その時、女は何かを言ったがその声はもう私の友人には聞こえませんでした。

けれどその姿を見れば声など聞こえなくても女の言った事がわかったそうです。


「もうずっといっしょだよ」





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