第5話 また明日!!

「今もほら」

女将さんがそうささやくように言葉をはっした。

俺はこの話の幕切まくぎれの言葉にゾッとした。

今、脳内で聞こえているこの風鈴ふうりんの音は本当に想像した音だろうか。

本当に音が鳴っているような気さえして俺は首を小さく振った。

いまだ耳の奥でしつこく鳴り響く風鈴の音を掻き消すかのように。


「ねぇ、それちょうだい?」


声がすぐ後ろから聞こえた。

ころがした鈴のように美しい女の声が。

反射的はんしゃてきいきおいよく振り返る。

そこに立っていたのはにこやかな笑みで手を振るタマさんの姿だった。

「女将さん、それちょうだい?」

そう言いながら指をさされてそれって俺のこと?と安堵混あんどまじりに肩を落とした。

いや、胸をで下ろしたと言った方が的確かもしれない。

「タマさん?いつからそこにいたんですか?」

俺がそう聞くとタマさんは酔っているのか座る俺の肩に腕を回し、しなだれこむようにして言う。

「物書きくん、遅いよー!待ってても全然帰ってこないからさー。女将さんに……されちゃってんのかと心配してたんだよー?」

女将さんに何!?あれ?おかしいよね?こんな近くにいるのにその部分だけ聞こえないなんて絶対おかしいよね!?

「迎えに来てみたらぁ、女将さんと楽しそうにおしゃべりしてるしさぁ?私もまーぜーてぇ?」

女将さんにホラ?ホラー?の話をしてもらってたわけだからお喋り……ではないような気がした。

けれど、酔っていそうな彼女に対して反論はんろんする気は起きなかった。

「はいはい、タマさん。タマさんはちょっとお水飲みましょう?ね?」

「お水よりお酒がいいよー!」

「体のためにもお水を飲んだほうがいいですよ」

「水で酔えるかぁ!」

「酔ってるのを緩和かんわするために水飲んでって言ってるんです!俺、タマさんのおひやとってきますね」

俺はそう言って女将さんの方をちらりと見た。

女将さんの表情はこちらからは読めなかった。

目の前にいるはずなのに。

俺は少しばかり小首をかしげた。

そんな俺の様子に気づいたのか女将さんはすぐに明るい声をあげて微笑わらった。

まるで取りつくろうかのように。

「物書きさん、もうすぐ料理ができあがりますから席で待っていてください。タマさんにはこちらでお冷を渡しますから」

女将さんの微笑みはいつもと変わらないはずなのにどこか仄暗ほのぐらく見えた。

気のせいかもしれないけれど俺はそんな女将さんの言葉にうなずくことしかできなかった。


「タマさん?盗み聞きなら窃盗扱せっとうあつかいにしますからね?」

「聞いてないよ?物書きくんが遅いから迎えに来ただけだってば」

「……全然、酔っている様子がないですけど。お冷いりますか?」

「いらないよ。それよりも私は物書きくんがほしいな。ねぇ、物書きくんちょうだい?」

「……」

「怖い顔しないでよ。物書きくんのことずいぶんお気に入りなんだ?珍しいよね。もしかして、まさかだけどれてなんて……」

「……」

「……はぁ、わかった。大人しく戻るよ。今女将さんにお冷なんてもらったら思いっきり頭からぶっかけられそうじゃない?それに……そもそもこの私が酔うわけもないしね」

「……それはどうでしょうね?有名な小説の最後では確か酔っておぼれて死んでしまうんじゃなかったですか?」

「…………」

太平たいへい、あげましょうか?」

「……席に戻るよ。きょうめたから。もう一度呑み直そうっと。女将さん、お酒追加でよろしくー」

「……おちて溺れないようにね。泥棒猫さん」



「おかえり物書き!女将さんに怒られたり……ったりしなかったか?」

やっぱりそこだけ聞こえない!?俺の耳が聞こえないようにふたでもしてるのか!?

「タマもおかえり。どうした?顔が悪いぜ?」

酒呑さけのみさんの言葉になかば反射的に振り返るとタマさんがなんとも言えない表情で立っていた。

「酒吞さん、それを言うなら顔色かおいろでしょう?それよりもタマさん、やっぱり酔っぱらって具合悪くなったんでしょう?ほら、お水飲んでください」

俺がタマさんのお冷を差し出すとのろのろとしたかんまんな動きでタマさんが受け取る。

その時、あれ?女将さんからお冷もらわなかったのかな?とほんの一瞬だけ頭をかすめた。

けれどふいにとなりに座っていたまだ名前を聞いていない美しい男性に声をかけられてその疑問も忘れてしまった。

彼はタマさんたちの友人とだけ先ほど酒吞さんに聞いた。

にこやかに微笑ほほえみ優しそうな声とととのった顔立ちを持つ男性だった。

「おかえりなさい、物書きさん。遅かったけれど大丈夫でしたか?」

俺が少し男性の方へ目線を向けた隙にタマさんは酒呑さんの近くに歩いて行った。

気ままというか気まぐれというか。

「はい、心配かけてすみません。つい……追加で注文してしまして」

何を注文したかはあえて言わなかった。

彼は切れ長の美しい目を細めて微笑んだ。

「ふふ、わかります。ついってことありますよね?私もよく、つい我慢がまんできずにやらかしてしまいますよ」

やらかすという言葉に対してこんなに美しくおだやかそうな人が何を?と思った。

けれど単刀直入たんとうちょくにゅうに聞いていいかもわからず俺は小さく頷く。

「そうなんですよね」

「あ、そうだ。私はヤギカガチと呼ばれてます。よろしくお願いしますね。物書きさん」

「あ……はい!よろしくお願いします」

ヤギカガチさんは美しい目であわてて返事をした俺をみつめる。

そして、手を前に出されて握手あくしゅを求められた。

美しい人に握手を求められる経験などない俺は突然のことに混乱しながらあせってその手を取った。

その手はひんやりと冷たくて。

少々の緊張きんちょうのせいで熱を持った体と混乱していた頭を冷やしてくれるようだった。

その後もゆっくりと続いていくヤギカガチさんとの会話は心地よかった。

けれど彼と話している間もタマさんの体調のことは気がかりで何度かちらりと横目で見やる。

まだ少し表情はくもっているように見えた。

ただ酒呑さんと話す彼女の顔色は先ほどよりはずいぶん良くなっていそうで安心もした。

そんな俺の視線に気づいたのか酒呑さんが手を振ってくれた。

つられて思わず俺も手を振る。

タマさんもひらひらと手を振り返してくれたからきっと少しは酔いもおちついたのだろう。


「は?女将さんを怒らせたのか?なんでまた……」

「怒らせるつもりはなかったんだよー!ただいつもの感じで声かけただけだったの!ちょっと私の悪いくせみたいなのはあったかもだけど……」

「あーぁ、思えばおまえとも長い付き合いだったよな。いろいろと思い出すなー」

「もう終わりみたいに言わないでー!」

「皆さん。おまたせしました」

「!!」


女将さんが皆が注文した料理を次々と運んできてくれて、料理が所狭ところせましと並べられていく。

女将さんがにこやかに微笑みながら温かいおわんを皆の前に置く。

「物書きさんはほとんどお酒を飲んでらっしゃらないけど、みなさんはそろそろだと思いまして。物書きさんもこちらもどうぞ」

あら汁だ。

魚のあらからほのかに香るいその香りと味噌みその匂いを湯気ゆげととも顔にびながらゆっくりとすする。

温かさと絶妙ぜつみょうな塩味が口の中でほどけて胃のに落ちていく。

「タマこれ好きじゃねーか」

酒呑さんが横にいたタマさんに声をかけた。

「……イカじゃなければね」

苦々にがにがしい表情で目の前のあら汁をにらみつけながらタマさんははしでごそごそとお椀の中をさぐる。

そんなタマさんの様子にあきれたようなため息を大仰おおぎょうにつきながら女将さんはタマさんに言う。

「タマさん、お行儀ぎょうぎが悪いですよ?全く、私がイカのあら汁なんて作ったことないでしょう?ブリとたいのあら汁ですよ」

お椀の中を確認し終えたタマさんがぽつりとつぶやく。

「イカ、入ってない……」

「ですから入ってないと言ったでしょう。あなたも飲むのにイカの入ったあら汁なんてわざわざ作るわけないでしょう?あなたがイカが苦手だって知ってるのに」

女将さんはまるで幼子おさなごに言い聞かせるように言う。

「……ありがとうー!女将さん!だーいすき!」

「調子のいい人ですよ全く」

タマさんが女将さんに抱きつく。

女将さんは呆れた顔を作ってそれを受け止めた。

タマさんの表情がやっと笑顔に戻って俺はほっとした。

そんな二人の姿を見ながら酒呑さんはゆっくりとあら汁のお椀に口をつける。

周りを見れば皆もほっとしたように困り顔で優しく微笑んでいた。

その後も料理に舌鼓したづつみをうつタマさんも元気そうだった。

俺も酒呑さんにすすめられてつい食べ過ぎてしまった気がする。


楽しい時間が過ぎるのはあっという間だ。

まだ話したいことはきなかったがそろそろえんもたけなわといった雰囲気がただよう。

夜も早々そうそうけて、翌日の足音がすぐそばまで近づいてくる頃合い。

「ごちそうさまでした。どれもすごく美味しかったです」

俺がお礼を言うと酒呑さんは笑って片手を軽く振ってみせた。

気にするなというように。

そんな仕草しぐさをかっこいいと思い、見習いたいとも思った。

けれど俺がやってもあのかっこよさは出せないだろうな。

そんなことを思いながらタマさんにも声をかけてから席を立つ。

「誘ってくれてありがとうございました。とっても楽しかったです」

タマさんはにこにこと俺をみつめていた。

俺は忘れ物をしないように自分のいた場所を軽く見てから皆の後を追うように店の出口へ向かう。

後ろ髪を引かれる思いとこの楽しい時間が終わるという物寂ものさびしさを感じながら。

女将さんが皆を見送るために店の前まで出てきてくれた。

外の空気はひんやりとしていて心地よい。

店前たなさきの赤い提灯ちょうちんはいつの間にか消えていて、辺りは寝静まり遠くに見える電灯がほのかに見えるだけ。

月と星だけがキラキラと俺たちを照らしていた。

皆がにこにことしながら帰り道のことや明日のことを話している。

俺は少し歩き始めてからすぐ立ち止まった。

帰り道に向かう前に、どうしても伝えたかった。

もしかしたらもう会えないかもしれない人たちに。

もっとたくさん話していたかったとか、今日初めてあったけれどもっと一緒にいたいと思ったとか。

女将さんとはまたこの店に来れば会えるだろう。

けれど酒吞さんやタマさんやヤギカガチさん、その他の人たちとはもうなかなか会うことはないかもしれない。

連絡先を聞いたわけでもない。

タイミングがそうそう合うわけでもないだろう。

このにぎやかで、騒がしくて、とても楽しい時間はきっと簡単には手に入らない。


「ごちそうさまでした。えっと、本当に美味おいしかったです!あ、それから帰り道は暗いですから皆さんも気をつけて帰ってくださいね!それから、夜は寒いですから風邪ひかないようにして……えっーと、それから……おやすみなさい……」

俺が頭に溢れる言葉をまとめることなく出てきたまま口にする。

ちょっとでも引き止めたいのか言葉が溢れて止まらない。

皆とはなれがたいなんて子供のようで口に出すことはできない。

ほんの少し学生の頃を思い出す。

話足はなしりなくてわかぎわの道で立ち止まって話したりしていた。

そんな懐かしさとずかしさが行ったり来たりする。

そんな心地を引き連れて俺は帰り道に向かって歩き出す。

何度も振り返って手を振った。

「物書き!」

「物書きくん!」

「物書きさん!」

皆が俺の背中に声をかける。

俺は何度めかは忘れてしまったがまた振り返った。

「また明日な!!」

「明日もここで呑んでるからおいでよ!」

「私ももっと物書きさんとお話したいですよ」

「ぜひ、明日もお店にいらしてくださいな」

皆が口々に声をかけてくれる。

俺の心の内を見透みすかされたようで気恥きはずかしくもあったがそれ以上にうれしかった。

「はい!また明日!!」

俺は心が踊るように嬉しくて皆に見えるように大きく手を振った。

「物書きさん、また注文してくださいね」

そう大きくない女将さんの声が俺の耳に響いた。

俺は彼女の声に首を何度も縦に振って答えた。


「これからもよろしくおねがいします」


これからも語られる彼女の話とこれからも続く美味しく楽しい時間。

俺はこれからのことを考える。

小説家としての人生と俺としての人生。

そのふたつが明るいものとなっていく喜びを噛みしめていた。

遅れてきた青春を謳歌おうかするように俺は歩いていく。

一人の帰り道がひとりじゃなく感じられて、夜更よふけの暗さなどひっくり返るみたいに俺の世界はいろどられていた。





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