窓の向こう

これはある寒い冬の日の出来事できごとでございました。

外は寒くても家の中にいればあたたかい。

むしろ少し暑いくらいの室内で私は昼食の準備をしていました。

私の家の台所には小さな窓があり、それはりガラスになっていました。

顔も出せないような小さな窓です。

いつもその窓をほんの少しだけ開けて外の音や周囲の様子を見ながら料理を作ることが日課でした。

その日も私は擦りガラスの窓を少し開き、なんの気なしに聞きながら料理を進めていきます。

聞こえてくるのはどこか遠くから聞こえる人の声や車が走っていく音。

一人で暮らしている私にはその声や音がとても心地よかったのです。

調理中に火を使えばその窓からの冷気が心地よく、いいしれない孤独を感じればその雑音ざつおんとも呼ばれる声や音に安心できました。

私にとってその窓はどこか一人じゃないと、つながりを感じさせてくれる大切なものでした。

だから私はいつものように窓をほんの少し開けて冷気を感じながら、外の音を聞きながら具材を切っていました。


「ねぇ、それちょうだい?」


ひどくしゃがれた女の声。

その声は突然すぐ近くで聞こえました。

はじかれたように窓を見ましたがそこには誰もいません。

自分以外この家にいないとはわかりつつも私はあたりを見回したあともう一度窓に視線を向けました。

小さく開かれた窓を限界まで大きく開き見える範囲で辺りを確認しました。

けれどやはりそこには誰もらず、私は窓を軽く閉めてまたその窓はほんの少し開けられた位置に戻りました。

再び小さく開かれている窓からは先ほど変わらず遠くの声や音がれているだけでした。

たった今起こった不可思議ふかしぎな現象などまるで最初から存在しなかったかのように。

気のせいだっただろうか。

私はに落ちない思いではありましたが追求することも躊躇ためらわれました。

追求して理解してしまえば私にはえられない。

私は一人で暮らしているのです。

この家には私以外誰もいない。

この家の外にだっておいそれと頼れるような大人はいない。

私はその声のことを考えないようにしました。


「ねぇ、それちょうだい?」


再びその声はすぐ近くで聞こえてきました。

私は瞬間的に体を強張こわばらせましたが、すぐに聞こえないふりをしました。

聞こえていない、これは気のせいだ、と自分に言い聞かせながら料理を続けました。

その正体に気づいてしまうことが怖かった。

その正体に聞こえていると知られることがひどく恐ろしかった。

私の耳をさいなむ嗄れた女の声が、その声の放った言葉がひどく恐ろしく凄惨せいさんなものに感じられました。

私はその声を無視して作業を進めていきます。

この場から立ち去ることも考えましたが、下手へたに動くことも躊躇われました。

それに声の主がどこにいるかもわからない。

振り返って目の前にいたらと思ってしまったら、私には身動みうごき一つも出来なかった。

ただ目の前の具材を切っているだけ。

けれどその作業にも終わりが来ます。

切る具材も残りわずか。

これを切り終えれば結局は動かなければならない。

私は強張る体を思いきり引きあげ、意を決して顔を上げました。

小さく開かれた窓が目に飛び込んできました。

先ほどまでと何も変わっていない窓が。

私は少しほっとして辺りをゆっくり見回します。

誰もいない。

当たり前です。

この家には私以外誰もいないのですから。

静かな室内で私はもう一度窓に視線を戻しました。

その時、私は気づいてしまったのです。

その静かすぎる静けさに。

その無機質むきしつすぎる無音むおんさに。

私の心臓の音まで響いてしまう異常さに。

車の音はどこに行ったのだろう?

人の声はどこに消えたのだろう?

私は窓の向こうをのぞきました。

小さく開かれたままの窓の向こうを。

そこにはほとんどいつもと変わらぬ景色が広がっていました。

ただひとつ違うのは人の気配を感じないこと。

道には人も車もその他の普通にありそうなものが何一つない。

まるで無人の風景画ふうけいがを見ているようでした。

私は動くことも出来ず、ただそれを見つめていました。


「ねぇ、それちょうだい?」


ひどく嗄れた女の声がすぐ近くから聞こえてきました。

今の声ははっきりとわかりました。

その声は目の前の景色から発せられている。

私の目には誰も映ってはいないのに、その声の主は目の前にいるのです。

私はつばを大きく呑み込みました。

恐ろしくて仕方なかった。

体がガクガクと震えて止まりませんでした。

私には誰かにあげられる物など持ち合わせていない。

声の主が何を欲しがっているかもわからない。

どうしようもできない状況を打破だはする勇気もない。ただ私はうつむいてこのひどく恐ろしく凄惨なものの終わりを待つことしかできませんでした。


「ねぇ、それちょうだい?」

「ねぇ、それちょうだい?」

「ねぇ、それちょうだい?」

「ねぇ、それちょうだい?」

「ねぇ、それちょうだい?」


何度も何度も繰り返される嗄れた女の声。

この恐ろしい時間が悠久ゆうきゅうに続くと感じました。

私が何もしなくても恐ろしい時間が続く。

待っていても終わりは来ない。

そう思うようになり、私は強く窓の外をにらみつけました。

そして恐ろしい声よりも大きい声で立ち向かいました。

「イヤだっ!!あげないっ!!」

大きく張り上げた声は辺りを強く打ちました。

誰に届くとも知れず、返答もない。

それでも私はやってやったと息を強くき出しました。


「ねぇ、それちょうだい?」


私は絶望しました。

たったその一言に。

私が呆然ぼうぜんとしたまま窓の外をみつめている間、嗄れた女の声は止まることなくずっと聞こえ続けていました。


「ねぇ、それちょうだい?」


私が窓の外をみつめていると、窓の外の景色が一瞬消えてまた現れたのを見ました。

どういうことかと見ていると再び窓の外の景色が一瞬だけ消えてまた現れる。

まるでまばたきのように。

私は窓の外の正体に気づいたのです。


これは誰かの景色だ。


それならば私が今までずっと大切にしていたものは誰の視界だったのでしょう。

何もわかりませんでした。

私はそれ以降、窓を開けるのをやめました。

あの恐ろしい声も聞いていません。

ただ、季節外きせつはずれの風鈴の音だけが何故なぜむことなく聞こえ続けているのです。


今もほら。




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