第3話 この話の真相は
俺は担当に
長年、俺の担当として頑張ってくれている目の前の男は、いつも通り、顔色一つ変えずに原稿に目を通していく。
そんな彼が一瞬、
「……これは実に
彼のこんな顔を見たのは初めてかもしれない。
「締め切りギリギリの原稿、待っていて正解でした。これからもよろしくお願いしますね、先生」
なんとも調子のいい人間だと思った。
たった数ページだというのに原稿はまだか、と何度も鬼のように催促しておきながら、待っていたなんて言う彼をちらりと見やる。
しかし、彼の放った一言は、俺と彼の未来を感じさせるもので、俺は躊躇いなく頷いた。
「どうも。これからもよしなに」
そう言った俺もきっと、彼と同じ顔をしているだろう。
別れ際、彼に何気ない雰囲気で問いかけられた。
「良い意味で吹っ切れたみたいですけど何かあったんですか?」
他愛ない一言だったが、彼の表情から、今までずっと俺のことを気にかけてくれていたことが感じ取れた。
なんだかんだ言っても彼とは長い付き合いだ。
彼は担当としても、そばにいる友人としても、俺のことをとても心配してくれていたんだろう。
そんな彼に、俺はどう言葉にしたものか、と頭を悩ませてから、一言だけ呟いた。
「まぁ、刺激的な出会いをね」
困ったように笑う俺を見て、彼は楽しそうに、心底嬉しそうに笑った。
「へぇ……?……ふふ、それはそれは。これからも、先生のご活躍が楽しみですね」
彼はそのまま俺に背中を向けて歩いていった。
担当と別れてから数日が
この先の道は行き止まりで、ここの道まで来るのは、この小料理屋に用のある人間くらいのものだろう。
今の俺のように。
赤い
もし、曲がる道がなかったら、どうしようかと思った。
もし、店そのものが存在していなかったら、どうしようかと思った。
あの日の出来事や記憶はまるで、狐に
もしかしたら本当に、どこかこの世のものではない不可思議な異界か何かかと思ってしまっていたから。
けれど店は当然に、以前と変わらぬ姿でその場所にあって、俺は無意識に胸をなでおろした。
ただ、少しばかり残念な気もしたんだ。
どこか不思議なものは、そのまま不思議なもののままいてほしい気もしたから。
そんなものは俺の
店内を見渡せば、先日とは来た時間が違うせいか、今日は
見覚えのある珍しい着物を身に
「女将さん、先日はありがとうございました。今日は嬉しいことがあって、それを伝えたくて」
俺が照れたようにそう口にする。
女将さんにとってはなんてことない、ただの客の一人だろうが、売れない小説家だった俺にとっては
女将さんは相変わらず穏やかな笑みを浮かべて、たおやかな立ち姿でこちら見つめている。
ただ静かに
「大きな仕事が決まったんです。俺……
苦笑い
「おめでとうございます……物書きさん」
「物書きさんって……俺のことですか?たしかに小説家は、物書きなんて言いますけど……」
彼女の変わらない優しげな笑みと、聞きなれない呼び名の馴染みのなさに、少し照れくさくなった俺は頭に手をあてながら、笑った。
その時ふと、執筆中ずっと、あることが気になっていたことを思い出し、おずおずと尋ねてみる。
「あのお話って本当なんですか?……あの白いドレスの女性は本当に……」
言葉に
いつの間にか背後に立っていた彼女は、会話の中に入ってきた。
「あっははは、お兄さん。もしかして、もしかしなくてもこれを注文したんでしょう?」
お酒が入ったグラスを片手に彼女は、見覚えのあるお品書きの面を指差しながら、
「これはね、ウソだよ、ウソ!!ほら、よくよく文字を見てごらんよ、ほらほら!」
彼女のしなやかに伸ばされた指の先には、先日見た時と変わらない文字が、
しかしそれでも俺は、彼女に言われるがまま、よくよく文字を見てみた。
何の変化も
俺には何の意味があるかは分からなかったが、彼女の言葉のとおり、文字をにらみ続けた。
そんな俺の様子を見ていた彼女は満足そうな笑みを浮かべた後、手品の種明かしやクイズの答えを
「声に出して読んでごらん?」
「ホラー
その答えを知りたくて彼女に言われるがまま動く。
「ちがうちがう、全然読み方が違うよ!」
彼女の言葉に、俺は隠すことなく
そんな俺の様子に、彼女は満面の笑みで
「あのね。“ほらぁばなし せんえんなり”じゃなくてね。“ほら いちわ せんえんなり”だよ」
ほら いちわ せんえんなり?
ほら 一話 千円 也……?
ホラ 一話 千円 也
――ホラ一話 千円 也
「……え?……っぇええぇぇーーーっ!!??」
デタラメを言う事、またはデタラメな話そのもの。
嘘や
そして、なんとも間の抜けた声が溢れ出す。
その姿はまるで、ドッキリ大成功のお手本のようだった。
そんな驚き方を自然にしてしまった俺を見て、周囲の客たちと女将さんは、本当に可笑しそうに笑い声をあげた。
中には手を叩いて笑っている者もいた。
「お兄さん、いい反応だねー!おもしろいっ!お兄さんお酒呑める?こっちで一緒に呑もうよ!!」
俺は
数名の男女が楽しそうに迎え入れてくれた。
目の前に座る、美しく大柄な男性客も
「今日は面白いものを見せてもらった!兄ちゃん、今日は俺のおごりだ!たーんと呑もうぜ!あ、ここの里芋は食ったか?絶品だぜ?」
ほら、と突き出された
ふんわりとした出汁と甘辛い醤油の匂いが、湯気とともに漂ってくる。
彼の勢いに押されて小鉢を受け取ると、女将さんがそっと、おしぼりと箸をさしだしてくれた。
一口、頬張っただけで分かる。
今まで食べてきたどの煮物よりも美味しいと。
ねっとりとした里芋は柔らかく、よく味が
ほんのりとした温かさが、出汁の甘みをさらに引き立てている。
つい一口、もう一口と小鉢に箸が伸びる。
イカを口に放れば
料理を勧めてくれた男性は、俺の様子を満足気にみつめている。
俺はどんな表情をしているのだろう。
俺に見えたのは、彼の瞳の中で幸せそうに笑う男の姿だった。
男性の後ろから女将さんが、変わらず穏やかに微笑んでいた。
「この人の
その言葉に男性は一瞬、目をまるくして女将さんを見やってから、苦笑い混じりだが満更でもないといった様子で
俺が男性におすすめを聞きながら注文していると、他の客人たちも
「お前らの分はおごらないからな!?」
「まぁまぁ、そーんなけちくさいこと言わないで。ね?
先程の美しい女性は、
世の男なら、誰でも何でも言うことを聞いてしまいそうなほど美しく、
しかし目の前の男は、
「やだね!タマが注文したものは自分で支払え!」
女性に対して少々、厳しすぎる物言いのような気もしたが、彼女たちの間では成り立っている会話なのだろう。
部外者の俺が口を
その後すぐに笑い合っているところを見ると、本当に仲が良いのだろうと思った。
男は快活に笑いながら、名乗った。
「俺は
「よろしくねぇ、物書きくん」
いつの間にか、この呼び名が
けれど悪い気は全然しない。
どこか異世界じみたこの場所には、そんなちょっと変わった呼び名こそ
そういえばこんな風に、誰かと酒を
最近は頭が
この場所に足を踏み入れるまでは、の話だけれど。
俺はこの賑やかな騒がしさに、どこか懐かしさまで感じて、その心地よさに
気づけば俺も彼女たちと同じように笑っていた。
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