第2話 求めていた答え
「それだけは何故かわかるんですよ……」
女将さんがついた小さな
自分の飲み込む
先程まで感じた温かさや心地よさとともに、迷いや悩みさえ掻き消されていくような圧倒的な空気。
自分は
今の自分は
呼吸が全く
こんな話を聞いて恐怖を感じているはずなのに、怖いだけではない何かが、自分の胸の内でとぐろを
何処か興奮じみた
今、もし俺の張り付いた喉から声を出せてしまったなら、
俺の目の先には、先ほどと何一つ変わらない優しげな笑みを浮かべた女性が立っている。
その微笑みはまるで、変わってしまったのはこの場所でも空間でも彼女などでもなくて、自分自身なのだと言い捨てられているようだった。
その後、早くこの場を後にしたい思いもあったが、話だけ聞いて帰るのも何だか
「お待ちどおさま。
あたたかい料理を目の前にすれば、最初の頃の空気が少しだけ自分にも戻ってくる。
今、自分の中には、ふたつの自分が
ゆっくりとした心地を、このまま
ずっとこの場所にいたいとさえ思ってしまう。
けれど同時に、抑えきれない
早く、この頭の中に浮かぶ感情と物語を、思いのままに文章にしてしまいたい。
雲間が晴れたかのように、頭の中が鮮明になる。
空から降り注ぐ太陽の光のように、文字と言葉が文章に変わりながら
その一つ一つを決して忘れないように頭の中に焼き付ける。
止まらない感情と思考を落ちつかせるように、俺は卵焼きを一つ口の中に
「……っ!うまい!」
思わず、俺の口から
温かいその卵焼きは、俺の口の中で崩されながら、
その出汁が口の中いっぱいに広がっていき、ほっこりとした
一口で
きっと誰もが好きになってしまう温かく、そして罪深い美味しさ。
その味を楽しみながら、豚汁の器に手を伸ばす。
ほかほかと
熱すぎることなく口の中に流しこまれた豚汁は、じんわりと口の中まで温かくしながら、
具だくさんの豚汁は、その具から
ネギやじゃがいも、大根を
これはどこからを食べても、誰もを唸らせる美味しい豚汁だ。
俺は舌と胃に
どのくらいの間、この店で休んでいただろうか。
「お茶のおかわりはどうします?」
女将さんが、俺の
俺はゆっくりと首を横に振った。
「もう大丈夫です、ありがとうございます」
食事を終えた俺はひと息つくと、ゆるゆるとした動きで会計に向かう。
そして俺が動くと再び、この逸る気持ちの俺が早く帰りたい、今すぐ自分に
会計を進めている時、はたと気づいて女将さんに声をかける。
「あの……俺、売れてないんですけど一応小説家なんです。それで……その……先ほどのお話の雰囲気を題材に小説を書いてもいいですか?……雰囲気だけを題材にするだけなので、話は全く違くなるんですけど」
断られるかもしれないとおずおずとたずねる。
この、俺から湧き上がる久しぶりの物語を、盗作にはしたくない。
この、美しい女将さんに、盗作だと思われたくない。
全く違うストーリーにはなるだろうが、彼女の噺に引き込まれて、出来上がった物語だ。
どこかしら、似かよった部分もあるだろう。
その部分の存在を、あんまり気にしない人もいるだろうし、気にしないで小説にする人もいるだろう。
けれど、その部分の存在の雰囲気だけでも何か嫌な感情を抱く人もいると思うし、俺は自分の書いた小説で嫌な思いをしてほしくない。
断られるなら、それはそれでも仕方のないことだとも思う。
俺がもごもごと言葉を選びながら、女将さんの顔色をうかがう。
目の前の女将さんは俺の問いかけに、初めて驚いた様子の顔を浮かべた。
しかし、それはほんの一瞬の出来事で、すぐに先ほどと同じ笑みに戻した。
「お
俺は、その言葉に心の内を
けれどすぐに
そして彼女は店を立ち去る俺の背に向かって、美しい声音で言葉を紡ぐ。
「またお待ちしておりますよ、
俺は家に帰るなり、すぐに机に向かった。
時代が何を求めているのか。
俺自身が何を書きたいのか。
何を伝えたかったのかなんて、どうでもよかった。
そんな
ただ書きたい。
この溢れ出す感情を、誰かに聞いてほしい。
この痛みを。
この恐怖を。
この
この興奮を。
誰かに聞いてほしいだけ。
共有も共感も反論も何もいらない。
一方的なものでかまわない。
俺は
こんなにも筆が乗るのはいつ以来だろうか。
魂の奥から感情が揺さぶられる感覚、頭を内側から文章で殴られるような衝撃。
許された時間の限り、思いきり筆を走らせ続けていた。
俺は小説家という職業にこだわっている。
他にいくらでも仕事はあることは知っている。
けれど俺は小説家でなくては意味がない。
今、何をすればいいのかなんて書くしかない。
何になればいいのかなんて、小説家以外ありえない。
この生き方しかしたことはないし、この生き方しかしたくない。
ずっとこの生き方で生きていく。
小説家人生の
こんな地べたに
――俺自身が小説家でありたいからだ。
ただ、それだけ。
「これが最後のチャンス……か」
担当には申し訳ないが、俺は小説家を
たとえこの場所でなくても小説は書ける。
どんな場所であっても小説家ではいられる。
――俺が小説を書くことをやめない限り、ずっと。
ただ、今は、俺の担当がいろんな人に頭を下げて、無理を言って持って来てくれたこの仕事に、全てをかける。
担当には本当に苦労ばかりをかけてきたと思う。
けれどそれも今日で終わりだ。
有名な雑誌の最後の数ページに掲載される程度の短編小説。
上等だ。
有名な雑誌で華々しく返り咲いてみせよう。
その中途半端な優しさと、大きなお世話な
数ページで
最後であり、新たなチャンスを。
驚異的な現実を突きつけてやる。
たくさんの新人たちが現れる。
たくさんの小説家が売れていく。
たくさんの小説家が落ちていく。
たくさんの本たちが忘れられていく。
俺もまた、その中の一人として流れの真っ只中に立っていて、そしてその中の一人としてしがみついて生きていく。
――俺は喜んで悪魔に魂を売った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます