第1話   ホラー話 千円 也

店員の女性に案内されるがまま席にく。

「こちらの席でいいかしら」

うながされるまま席に腰掛こしかけると少し安心したようで自分でも気づかない疲れがどっと押し寄せてきた。

思えば歩き通しだったので足を休められるだけでも嬉しかった。

女性が置いたお冷に口をつければ冷たい水が喉を心地よく流れていく。

「どうぞ、ごゆっくり」

達筆たっぴつな字でお品書しながきと書かれた薄い冊子さっしを差し出され慌てて受け取ろうとする俺に彼女はくすりと微笑んでそう言った。

美しく微笑む女性はそのまま注文をかすこともなくたおやかな動作でその場を後にした。

辺りを見回してみれば彼女以外の店員の姿は見あたらない。

店の奥にはいるかもしれないが彼女がカウンターの奥で火にかけられた鍋に向かって灰汁あくとりをしている。

彼女はこの店の女将おかみさんということなのだろう。

そう考えがいたったところで改めて周りを見渡し今、自分のいる場所が普段ではなかなか来ない場所だということを実感する。

それが自分にとってとてもいいものに思えた。

久しぶりにゆっくりとした心地だ。

ことことこと……っという音がこちらの方へまで聞こえてきそうなほど静かで落ち着いた空間と温かく香る和食料理の匂い。

まるでこの場所だけ時間がゆっくり流れているような心地になる。

そしてこの空気にならうように自分もその穏やかな空間の一つとして焦る気持ちを抑えながらわざとらしいほどのゆるやかな動きでお品書きに目を落とした。

はらりと紙をめくれば少しの懐かしさと馴染なじみ深さを感じる手書きの文字が並んでいる。

達筆ながら読みやすいその文字からさえもこの店のあたたかさがにじみ出ているようだった。

お品書きを見ればお酒から始まり、料理はおかずや定食までいろいろなものを取りそろえてくれているようで嬉しかった。

どの料理の値段も思ったよりも手頃で助かった。

これならば手持ちのお金で失礼のない程度には食事ができそうだ。

そうとわかれば安心して食べたいものを選べる。

どれにしようかとお品書きに目を通して自分の腹と相談していく。

お品書きには写真や絵はなく美しい文字が並んでいる。

そう、文字だけだというのに唐揚げや卵焼きなどは美味しそうな見た目を容易に想像させてくれる。

唐揚げには檸檬れもんはついているのだろうか、卵焼きは甘い系か出汁だし系か。

味を想像すれば舌が今か今かとしびれを切らし、湿しめってくる。

そしてまたお品書きの紙をめくったところで自分の手の動きはピタリと止まった。

そしてその開かれた面に並んだ文字から目を離すことができない。


ホラー話 千円 なり


突然飛び込んできた文字とその並びに体も思考も止められる。

ここまではどこにでもありそうなお品書きだったはず。

はらりと前の面に戻ってみれば当たり前だがそこには先ほどまでと変わらないおかずやおつまみ、定食の文字が並んでいた。

お品書きにあるということはこの珍妙ちんみょうな品物も注文が出来るのだろうか。

注文していいのだろうか。

どんなふうにそれは自分に提供されるのだろうか。

完全にその文字に釘つけられた俺は困惑気味な表情のままピタリとも動かなかった。

この文字に体と思考の自由を盗まれてしまった。

そんな表現が正しいだろうか。

その文字とにらめっこをしているとそんな俺の様子に気がついた女将さんがゆっくりとした足取りで近づいてくるのが気配でわかった。

「いかがしましたか?」

その声に俺はなんと言葉にしたら良いか分からずただそろそろと女将さんの方へ一度視線だけを向けて彼女の目をとらえた。

そしてこの不可思議なものを尋ねるように、訴えるようにまた文字に視線を戻した。

それだけの動作だったが彼女は意図いとみ取れたようだった。

特別驚く様子もなく「あぁ……なるほど」と一言だけ声を漏らした。

そして得心とくしんした様子で一際ひときわ笑みを強くして俺に問いかける。

「ご注文、なさいますか?」

これが何かを教えてくれるわけでもない。

自分の求めた答えが返ってきたわけでもない。

それなのに、俺は何故かその言葉に納得してしまった。

まるでその言葉を待ち望んでいたみたいに。

自分にはどこか確信めいた思いがあった。

これで全てがわかる。

全てが解決する。

これこそ俺がずっと追い求めていた答えになると。

俺は静かに頷いた。

目の前の彼女は俺の答えを見透みすかしていたかのように、むしろその答えを待っていたかのように強い笑みを深くしてみせた。

「かしこまりました。それでは一つはなしましょう。このお噺はひとつ千円。千円でこのお噺はまるごと全てお客様のもの。それでは少々のお時間とお耳を拝借はいしゃくさせていただきます」

そしておぼれてしまいそうなほど魅惑的みわくてきな声で彼女は話し始めた。


「これはある雨の強い日の出来事でございました」


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