第5話

「…そんで一所所懸命頑張って庇ってたんやけど、向こうの方が人を殴ったり蹴ったりするのに慣れとってね」


 運転手の声が俺の耳の中にどろりと流れ込む。


「庇ってた左腕は何回も踏みつけられて折れてもうてね、ちゃんとくっつかなかったのか今でも肘がちゃんと曲がらんのです」


 運転手は使いにくそうに左腕を上げる。俺は黒い幕が下りたような窓の外に目を向けながら息を殺して言葉が紡がれるのを待っていた。


「後ね、頭も何度も蹴られてね。ほんまは手で庇うべきだったんやろうけど、猫を庇うのに必死で。そのせいか左耳が聞こえにくくなってもうて。今でも左から話しかけられると聞こえにくいんです」


 叫んでしまいたいという気持ちが喉を突き破ろうとするのを感じていた。


「結局、猫、虎太郎て勝手に名前をつけてたんですけど、は連れて行かれてもうてね、それっきりです。私もそれから学校が行くのが怖くなったので不登校のまま中学を卒業して。なんやかんやあって今はこうやってタクシーの運転手やっとるんですよ」


 俺を乗せた黒い獣の体内がぶるっと蠕動した気がした。


「お客さん、タクシー捉まえるのに苦労しません?私らね、変な客を捉まえたらトラブルにもなりますし、最悪命の危険もあるんでね、そういう勘が働くんです。なんかそういう変なもの、悪い気とでも言うんですかね、を持ってるお客さんて黒いもやがかかったみたいに見える気がするんです。夜やのにもっと闇が濃いというか。疲れてたり、運気が下がっているとそういうのが見えにくくなって、変なお客さんを乗せてトラブルになってまうんですけど。面白半分で生き物殺してる人なんかもやっぱり見えるんです」


 奇妙な納得感があった。予測もしていた。やはりのだ。


「お客さんを遠目に見た時、『ああ、この人は乗せんとこ』と思ったんですけどね、近づいてみたらね、懐かしい同級生でね。久しぶりやなあ、吉岡君」


 ミャア


「妻とも2年前に死別してね。私もこの前癌が見つかって手術したばかりで。ステージ4らしいですわ。」


 ミャア


「なんでこんな事ばっかりなんかなあと思ってたんやけど、生きてたらええこともあるんやね」


 ミャア


 外には何も見えない後部座席の窓を開ける。湿った夜風に混じって潮の香り。


「村田、ここはどこや」


 細い糸のような、悲鳴にも似た声を絞り出す。


「どこやろね。吉岡君の家の近くではないやろね」


 黒い獣は俺を乗せてますます濃くなっていく潮の香りを切り裂いて駆け続けた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

黒獣 蔵井部遥 @argent_ange1121

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る