10. 何もしないということ

「さて、ようやく最後の話ができるわね」

「うん。お願いします」


 最後に話すことがなんなのか、郁弥もおおよその見当はついているため神妙な顔で頷く。


「そろそろあなたもれてきているでしょうから早速本題に入るわ。日結花のことよ」

「うん」

「郁弥さん。あなたがもう一度日結花に話をするつもりでいるのはいいわ。けれど、いったい何を話すつもりなの?」

「それ、は」


 知宵が話したかったこと、の前提としての問いかけ。郁弥からすると今ちょうど答えの出ていない質問であり、口の動きが止まる。


「なるほど。その反応だけで結構よ。どうやらあなたは何を話すのか決めていないようね」

「ぐ…め、面目ない」

「いいのよ。そんなことだろうと思っていたから」


 知宵の微笑みが胸に刺さる。とはいえ事実は事実なので反論もせず静かに頷く。


「まずはあなたが振られたという話からだけれど、日結花のお父さん、正道さんが言っていたわね。日結花と"心から向き合って話してやってくれ"と」

「そうだね」

「そこでよ。まず話を整理しましょう」

「僕と日結花ちゃんについての話、だよね」

「ええ」


 郁弥が日結花のことを理解しきれていないのは言うまでもなく、その辺の誤解をどうにかするのが最善だろう。


「そもそもの話、あなたは日結花と恋人まがいな関係になってから何をしてきたの?」

「恋人まがいって。正しいけど言い方」

「事実でしょう?」

「…釈明を」

「認めましょう」


 鋭い刃を突き立てられて肩を落とす郁弥ではあるが、気合を入れて顔をあげる。彼なりに様々なことを考えた結果の今があるのだから、せめてその点は伝えようと胸を張る。


「これを話すにはまず、僕にとっての"恋人"という概念について話さないといけないんだけど、僕は常々思うんだ。"恋人"という関係性は結婚という一種の儀式を前提としたものであるべきだと」

「そう」

「一目惚れだとか、とりあえず付き合ってみるだとか、そういうのは違うでしょ。付き合うならそれ相応の覚悟を持って、相手の一生に文字通り"付き合う"必要があるんだよ、持論だけど」

「そうね、あなたの考えとしてはいいと思うわよ」

「結婚する前に同棲して価値観の相違で別れるとかよく聞くよね?」

「ええ」

「知宵ちゃんは同棲推進派?」

「むしろしない方がおかしいと思うのだけれど」


 例えば自分に恋人がいたとして、私生活というものは一緒に暮らしてこそ見られると思う。デート中はある程度自身を取り繕っているだろうし、それは相手も同じはず。寝食を共にしてこそその人の価値観や本心が見えてくるものなのだ。

 まあデートなんてしたことないのだけれど。というのが知宵の持論であった。


「僕も知宵ちゃんと同じだよ。結婚するなら同棲は必須だよね。じゃあ恋人になる前もお試し恋人期間があってもいいよね」

「それはおかしいわ」


 恋人になる前の期間=友人、と考えるのが普通だ。"この人の考えは違うみたいね"と内心思う知宵である。


「おかしいけれど、別にいいわ。要は恋人になると気持ち的に重たいからワンクッション置いて保険をかけておきたいということでしょう?」

「ぐ、こ、言葉のナイフが刺さる!」

「正解のようね」


 ごちゃごちゃと色々並べ立ててはいたが、つまりはそういうことだ。

 知宵の言った通り、"恋人"という関係そのものが郁弥にとって重力のように双肩にのしかかってくるものなので、どうにかそれを薄めて弱めて避けるための"恋人まがい"な関係だ。

 当人(日結花と郁弥)が納得しているからいいが、臆病にもほどがあるというのが彼女の率直な意見だった。


「それで?ちょうど一年経つくらいかしら?それまであなたは日結花に何をしてあげたの?」


 ついつい脱線してしまったが、話は本題に戻る。

 郁弥が何をしてきたのか、何をしてこなかったのか、そして日結花が何を求めているのか。この三つをまとめれば、自然と藍崎郁弥の話すべきことは見えてくるものだから。 

 知宵もおおよその見当はついているが、実際にどうこうといった部分はわかっていない。単純に"この人に積極性が足りなかっただけでしょうね"と思っているだけだ。


「…何も」


 気まずそうな男の声を横で聞き、呆れた視線を隣に送る。その瞳から逃れるように郁弥はホットミルクティーへと視線を落とした。


「ねえ、あなたと日結花って去年の今頃にはハグまで済ませたのでしょう?」

「そうだね」

「手足を繋ぐくらいも既にしていたのでしょう?」

「足は繋いで――いや、うん。したと思う」


 去年という単語で思い出してしまった。手を繋ぐのは日常茶飯事だったが、足を繋いだのは一度だけ。"足を繋ぐ"という概念がそれでいいのかどうかという不審点はあるものの、ちょうど去年の今頃、足を重ねるように組み合わせてイチャつく遊びをしていたことを思い出したのだ。しかも場所は日結花の家。

 脳内のパッションあふれる自分が、あれだけやって振られるってそんな馬鹿なと叫ぶが、郁弥は無視をする。人の熱は冷める場合も多いのだし、恋愛なんていうものは特にそれが顕著だ。そも、今考えるべきことではないと冷静な自分が切り捨てる。


「冗談で言ったのだけれど、足も繋いだのね。意味がわからないわー―いえ、言わなくていいわよ」

「…おーけー」


 説明のために口を開きかけた郁弥を右手で制して止めた。

 なんとなく予想がつく内容であるし、胸焼けしそうな話は聞きたくなかった。


「改めて聞くけれど、手は繋いで、ハグもして、それから一年過ぎて何もしていないのね?」

「…ですな」


 自分でも非があることをわかっているため、変な語尾になる藍崎郁弥二十六歳。自身の消極性を痛感しうなだれていた。


「キスは?」

「してないよ」

「性行為は?」

「直球だね!?してないよ!!」

「まだ童貞なの?」

「それ言わないといけないの!?」

「当たり前でしょう!」

「どうして声を張り上げるのかなぁ」

「早く答えなさい」

「も、黙秘権を」

「ちなみに私は処女よ」

「うわあああ!!なんてことを言うんだ!」

「さ、これで等価交換ね」

「その言葉の使い方は絶対に間違っている!」


 このあと"女性がそんなこと人に聞くものじゃないよ""私も二十五よ?今さら恥ずかしがる話でもないわ""だいたい素面しらふで話すことじゃないでしょ""素面で話せないでどうするのよ"。などといった会話が続いたのだが、これを他所で聞いている二十歳はたち前後の数名は頬を赤く染めていた。

 また、郁弥の経験については言うまでもないことだろう。ただ、"それ"を聞いて満足そうに頷いた知宵の笑みはずいぶんと楽しげだったとだけ述べておこう。


「郁弥さんがキス一つできないヘタレだということはいいとして」

「結構ぐさぐさ言うね」

「事実だもの」

「まあそうなんだけど」

「でしょう?」


 軽口を叩きながら知宵は郁弥から聞いたことをまとめる。

 この一年で何をしたか?何もしていない。何をしてこなかったのか?すべて。以上終了。


「…郁弥さん、答えが出たわ」

「え、なんの?」


 ぽやーっとした顔で聞いてくる友人に気が抜けそうになるも、かなり大事な話になるので一度レモンティーを口に入れて喉を潤す。すっかりぬるくなったレモンティーは甘みと酸味がほどよく頭を切り替えるのにちょうどよかった。


「あなたが為すべきことがわかったのよ」

「僕が為すべきこと…」


 アメコミのような言い回しをしているが、二人ともいたって真面目に真剣に話している。何一つふざけてなどいない。

 知宵の頭の中ではもともとおおよその予測はできていた。予測以上に郁弥が何もしていなかったため確定事項となったわけだが、日結花の求めているものを考えれば答えなど考える必要すらない。


「単刀直入に言うけれど、もう少し日結花に積極的になりなさい」

「無理だ」

「諦めるのが早すぎる。冗談で言っているわけじゃないのよ?」

「…まあ、そうなるよね」


 肩をすくめて、一つ重い息を吐きだした。

 知宵に言われるまでもなく、郁弥だってここまで話していればわかっていた。日結花が一年かけてキス一つしない自分に不安感を抱いていることくらいわかっていた。


「少し、考える時間をもらってもいいかな」

「ええ、いくらでも」


 "マスターおかわり"とレモンティーを再注文しながら、知宵は一人ほっと息を吐く。これで自分の役目は終わり。目の前でカップを揺らして考える友人は完全に元に戻った。いつも通りの藍崎郁弥だ。

 "本当、世話の焼ける"。目前の友人だけでなく、今は遠くにいる親友のことも考えて知宵は頬を緩める。

 二杯目のレモンティーは、心なしか最初のそれよりも甘く感じた。

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