5. "友達"

 ◇◇



 場所は八胡南はちこみなみにあるカフェ、『ルミエ・デュ・ソレイユ』。その店の中でカウンター席に座る男が一人。沈んだ表情を見せる彼は名を藍崎あおさき郁弥いくやと言う。

 彼が座する席からほど近く、二人用のテーブル席に一人の女が座っていた。髪の長さは肩までのミディアム。首の後ろ辺りで一本に縛ったシンプルな髪型、いわゆるローポニーテールと呼ばれる髪型の女だ。

 名前は青美あおみ知宵ちよい。郁弥の動向を考え、先んじてルミエの近くに潜んでいたのだ。思っていた通りにとぼとぼと歩いてきた友人の姿を見て、ほっと胸をなでおろしたのは内緒だ。


「どうぞ、ホットミルクティーのミルク多めです」

「ありがとうございます」


 店内に男二人の会話が響く。

 店主に渡されたミルクティーを両手で持ち、一口舐めるように飲む。表情は暗いまま、考えるように揺れる水面に目を落としている。

 そんな郁弥の姿を眺めながら、知宵はいつ声をかけようかと悩んでいた。


「(タイミングが掴めないわね)」


 ぼそりと誰にも聞こえないように呟く。眉を寄せて考えるも、あまり良いものが見えてはこない。

 そもそもからして、知宵はこういった駆け引きが苦手なのだ。真っ直ぐ行って叩きつけるようなやり方を好むわけで、恋愛、特に男性の恋愛に口出しをするなど得意なわけがない。彼女の恋愛経験の有無については言いっこなしだろう。


「……むぅ」


 不満げにうなり、整った顔立ちを歪ませる。

 本来なら店内に入った時点で郁弥に気づかれていてもおかしくないが、今の藍崎郁弥にそのような余裕はない。何もしてこなかった自分自身への怒りや呆れ、それらの上にある諦めが彼の心を覆い尽くしているためだ。

 当然そのような状況で知宵の来店に気づくことには無理があり、それが知宵にとっての幸運に繋がっていた。


「……」


 目を閉じて一人で考え込むも、最初から自分には難しいものがあったと、そう思う。

 知宵にとって恋愛というものは他者の経験からしか知らないものなのだ。仕事のことならばいい。人間関係のこともいい。家族や友人のことも問題ない。しかし恋愛は別だ。触れたことがないのだからわかるはずもない。指南本や少女漫画、恋愛小説を主軸にしている自分に何ができるというのだ。

 彼女は迷っていた。親友のために一肌脱いでやろうと思い行動したはいいが、いざ直面するとこれがまたずいぶんと難しい。何を言うかはもちろん、いつ言えばいいのかもわからないのだからどうしようもない。


「どうぞ、ご注文のホットレモンティーです」

「…ありがとうございます」


 頭を悩ませていたところに店主からホットレモンティーが渡される。

 顔をあげると店主と目が合い、お願いをするかのように彼の頭が小さく下げられた。


「――はぁ」


 この店の主と郁弥がそれなりに親しかったことを思い出し、一つため息をつく。

 私に頼まれても…。とは思うが、もともとやるつもりであったのだから変わらないかと思い直す。それに、どうしてか店主の姿が親友の日結花がお願いしてくる姿と重なって見えた。

 あの子が笑顔で"知宵を信じてるから"と言って待っていると思うと、少し心が軽くなった気がした。

 一口ホットレモンティーを口に含み、爽やかな香りで口の中と頭をすっきりさせる。


(…よし)


 内心で一人呟き、大きな音を立てないようにゆったりと立ち上がる。

 胸のポケットに忍ばせたミニカメラの位置を確かめ、カウンター席に向かって歩みを進める。向かう先は当然郁弥の隣だ。


「失礼するわね」


 思ったよりもさらりと言葉を出せるのは、さすが青美知宵といったところ。いくら頭で悩んでいても、きちんと言葉にし、行動を起こせるからこそ今ここに青美知宵はいるのだから。


「――あぁ、知宵ちゃん」

「っ」


 郁弥の表情を見て、ぐっと言葉に詰まる。そこにあったのはよく見ていた温かさではない。冷たいわけでもなく、怒りでもない。あったのは、疲れと諦めと、少しの悲しみが混ざった静かな表情。

 そんな凪いだ表情を見たことがなく、呆然としてしまった。知宵のよく知る藍崎郁弥がこんな表情をするとは思ってもいなかった。弱り切って、今にも消えてしまいそうな顔。


「こんにちは。何かあったようね?」

「まあ、ね。うん。ちょっとね」


 どうにか意識を戻して真剣な顔で問いかける。自分でも白々しいとは思うが、それを微塵も感じさせないのが知宵である。

 郁弥は誤魔化すように笑い、言葉を濁す。けれど、浮かべた笑顔はぎこちなく、コントロールできない感情が表に出てきていた。


「話してみなさい。心配して来てあげたのよ?一友人として、そんな顔をしているあなたを放置はできないわ」

「…はは、もしかして見られてた、かな」


 諦めたような表情はそのままに、ゆらりと手に持つカップを揺らす。気を抜くとせき止めている心があふれだしてしまいそうで、できるだけ平常心を保とうとしながら会話をする。


「いえ、後ろ姿を見て、ね。あなたにしては珍しく俯き気味に歩いていたから気になったのよ」

「そっか…。見てわかるくらいだったんだ」


 言っていることは間違いではない。しかし、実際は最初から追いかけてきていた。というより先に店の近くにいた。嘘をつくことに申し訳なさを感じつつも、知宵にはどうにかして郁弥を励まさなければならないという使命があるのだ。

 些細な嘘はすべて日結花のせいにしようと心に決めて口を開く。


「それで、何があったの?」

「……」


 端的に聞かれ、なんと答えようか迷う。口を開いて言葉を吐き出そうと考えるも、少し話すだけで滝のように気持ちが流れ出してしまいそうで声が出ない。


「黙っていてはわからないわ。どうせ日結花のことなのでしょう?」

「どう、して?」


 "日結花"という単語を聞いて目を見開く。わかり切ったことを聞いてくる郁弥に対し、今さらなことを。とばかりに知宵はさっと答えを返した。


「あなたと日結花のことをどれだけ見てきたと思っているの?郁弥さんが悩むことなんて日結花絡み以外にあるわけないでしょう。わかったならさっさと話しなさい。一人で抱え込んでいないで、あなたはもっと誰かに預けるべきよ。頼れる人がいないと思っているのかもしれないけれど、少なくとも私は、あなたの友人として頼られるくらいには親しくしていると思うわよ」

「―――」


 恥ずかしいセリフを述べてしまったと、言ってからその恥ずかしさに頬を染める。

 知宵の言葉を聞いて、顔を赤くする知宵を見て、郁弥は目を閉じた。


(友人、友人か…)


 自分には縁がなくなったものだと思っていたから、その言葉に驚いて自然と胸の内で反芻はんすうしていた。

 久々に面と向かってそんなことを言ってもらえたと。わざわざ自分のために言葉を紡ぎ、恥ずかしさを抑えて真正面からぶつかってきてくれたと。

 そのことがどうにも嬉しくて、懐かしくて、くすぐったくて。

 気持ち悪いほどの感情の澱みがゆっくりと解けていくのを感じる。自分で拒んできた友人関係を、避けてきた親しい相手というものを、すんなりと受け入れられる自身に驚き、それと同時に日結花からもらったものを改めて自覚する。

 今でも泣き出しそうになる気持ちは変わらない。それでも、さっきまでの自分のすべてがなくなってしまったかのような喪失感はもうない。自身に息づくものは、ちゃんと今この胸に存在しているから。


「――ありがとう」

「え?え、ええ。そうね。どういたしまして。少しは話す気になったかしら?」


 久しぶりに羞恥心あふれるセリフを言ってしまったと身悶えしていたところにお礼を言われ、しかも目の前の人の表情が先ほどよりも幾分か和らいでいて、動揺を誤魔化すようにもう一度問いかけた。


「うん、話すよ。といっても、そんな大したことじゃないんだ。ただ日結花ちゃんとお別れ…お別れかな。お別れして、それで…それだけだよ」


 自分で話しておいて、本当にたったそれだけのことに苦笑する。言葉にすれば十秒にも満たない時間。それだけのことなのに、自分にとってそれが途方もなく大きいものに感じた。


「…そう。それで?」


 ほんの短い話を聞いて、郁弥の苦笑いを見て、知宵は続きを促す言葉を返した。


「それで」


 続きを話そうとしても、それ以上のことはない。知宵と目を合わせても、ただ静かに言葉を待っていてくれる。そんな姿を見て言葉を探すうちに、何かがこぼれ落ちるように言葉が漏れていく。


「どうして、かな。痛いんだ。胸が痛くて、苦しくて、悲しくて、寂しくて。それになんだか…すごく、すごく寒いんだ。なんでかな…え、あれ…」


 あふれる言葉は止まらずに、感情は涙となって流れていく。

 喋っている途中でぽろりぽろりと涙がこぼれ、そんな自分が信じられないように呆然と呟く。


「いいわ。泣きなさい。今くらい泣いたって誰も文句言わないわよ。もう我慢なんてしなくていいのよ。少しくらい、素直になってもいいじゃない」

「あ、だ、だめだよ…ぐす…あぁ、なんでっ。うぁぁ、僕なにも、ぅうう…ひとり、ぐず…もう、なんでだ、ぐす…っ」


 途切れ途切れに言葉を吐き出す郁弥の背を撫でながら、知宵は静かに友人を見守る。

 涙を落とす郁弥が見せる表情は、どうしようもない現実に打ちのめされて、それでも前を向こうと必死に足掻く人のもの。それはまるで、真暗闇の中目に見えない灯りを求めてさまよう迷い子のようだと、知宵は一人そう思った。


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