月と渡り狼

繭月 久

第一部 空に星灯、地に幻燈

第一幕 昏い夜と人形の少年

扉を開けるといつもの玄関が出迎えていた。

身体は泥で汚れており、真っすぐ洗面台に向かう。

星空に照らされた外から家に入るとより暗く感じる。

歩く度にきぃきぃと小さく床が甲高く鳴り、そんな音がこの静か過ぎる家中に響き渡った。

洗面台にたどり着くとまずは手に軽く水を当て、指の関節の隙間に詰まった泥を流した。

そして手を少し水に包んだら顔に軽く水を張り付けて、泥を軽く落としていく。

そんな時はいつも目の前の丸鏡が目に入る。

鏡に映るのは何の変哲もない自分の顔だった。

喜んでも、悲しんでも変わることが無いお面のような無表情な顔がこちらを見つめていた。


布を一つ手に取って手と顔の水を拭き取る。

そんな時に耳にひらりと本の頁を捲る音が聞こえて家のもう一人の同居人が起きていたことに気付きいた。

まずはその同居人のいる部屋に直接向かわず別の部屋で食事が置いてある盆を両手に持ってから向かった。

食べ物を落とさないように慎重に運ぶ。

そう意識してしまうと自然と足踏みの間隔も長くなる。

それにともなって木でできた床も少しだけ沈み込み、床の軋みも少しだけ重くゆっくり広がるように家の中に響き渡る。


扉の前にたどり着くと盆を片手で持ち、もう片方を身体の横で何とか支えて、扉のドアノブを捻り半分ほど開けて、今度は盆を両手に持ち直し、肩で扉を開けながら部屋に入った。

部屋に入ると同時にぱたりと本を閉じる音が聞こえた。


「先生ご飯だよ。」

「おお、ネモか。いつもすまんね。」

しわがれた声で返事が返ってきた。


顔を上げると本を持った老人が寝台の上で身体を半分だけ起こしていた。

髪は昔は綺麗な銀色だったが今では髪は灰色にくすんでおり、埃を縫い合わせて糸みたいにしたかのように歪に伸びている。

質素な服を着ていて昔は一緒に畑仕事をしたりしていたが今ではベッドから動けなくなっていた。

だからこうして先生が起きた時は毎日食事を部屋に運んでいた。

使われなくなった作業用の机のに盆を置いて、高さが低い机をベッドのすぐ横まで運んだ。

そして食事の置いてある盆をその机に置いた。


「もう畑の仕事は終わったのかね。」

「うん。もう昼だよ。」


ベッドの上に膝を載せて身体を伸ばして片手を先生の身体を避けるように置いてもう片手を伸ばして窓を開けた。

窓を開けると風が入ってきて作業机に積まれた紙の山の一番上がひらりと浮き、また山の一部に吸い込まれた。

外は星の光だけが輝いており、空は黒色の中にほのかに青色が湛えていた。


「ヴィルヘルムは村にいるのか?」

「そうだよ親父は目覚めの刻に野菜を売りに行ったよ。そろそろ帰ってくるんじゃないかな?」


ベッドから離れて椅子取って、背もたれを前にして座った。


「少し暗いのぉ。」

先生は天井を見上げて、消えた灯りを見つめた。

すると先生の身体から青紫色の蝶のようなものが一匹だけ飛び出した。

身体は透き通っており、ほのかに暗い部屋を照らした。

その蝶はゆっくりと上に昇り、灯りの中に吸い込まれた。

すると灯りがつき、部屋の中を柔らかく照らした。

そして蝶は始めからそこにいなかったかのように消えてしまった。


そして先生は食事を始めた。

自分はいつもそれを眺めていた。

自分は食事を食べることができないからだ。

口も動かせるようにはできてなくてご飯を入れる穴なんてものはない。

もっとも自分はご飯を必要としないんだからそれは関係のない話だった。


「おいしいの?」

「ああ、おいしいとも。」

「おいしいってどんな感じなの?」

「ふーむ、お前が私の話を聞いて毎日目を輝かせて喜ぶようなものじゃ。」

「飽きない嬉しさってこと?」

「そうじゃ。」

「そっか。」


食事に戻る先生を見ながら退屈そうに椅子を揺らしながらながめていた。

食事の時は先生と親父がご飯を食べて、自分は先生の隣に座りながら話の環に入って暇を潰していた。


暇を持て余して外を見つめた。

外は変わらず暗く、自分の家を取り囲んでいる精霊灯の灯りだけが遠くで輝いており、辛うじて外の森の輪郭を捉えていた。

視線を部屋に戻すと先生も窓を見つめていた。


「月の光も届かなくなってきたのぉ。光継ぎまで後一年か・・・。もうそんなに年が過ぎてしまったか。」

「先生は光継ぎを見たことがあるの?」

「ああ、あるとも。月都にいた頃儂は二回見たことがある。」

「二十四年に一回行われるんだよね?やっぱりお祭りとかするの?」

「そうだ月がある月都以外にも他の町や村でも光継ぎを祝って祭りを開くのじゃ。特に月都では願いを描いた手紙帳を演奏機に入れて都中が音楽に包まれるのじゃ。」

「ところで光継ぎって何するの?」

「月の女王様が自分の精霊を使って月に新しい光を与えると聞いたことがあるのぉ。さっき儂が灯りをつける時にやった事と同じらしい。だが本当のところは分らない。月を支える樹は月の王族の住まいで仕事で何回か入ったことがあるのじゃが月は王族以外近づくことができないのじゃ。」

「そうなんだ。」


また視線を外に戻した。

そう聞くと昔はもっと明るかったのかと思いを馳せた。

だが今照らしているのは部屋の灯りと森の中でほのかに輝いている精霊灯と星の光だけだった。


「だが光継ぎが行われると光を失いつつある月は光を取り戻し、月都や町や村だけじゃなくドゥンケルナハト中を照らすのじゃ。」

「都かぁ。一度でいいから行ってみたいな。」

「お前は昔月都に住んでいたのを覚えておらんのか?」

「先生が僕の義体を交換する時に失敗したから昔の記憶がないんだよ。」

「そうじゃったな。すまん・・・。」

「別にいいよ。気にしないで。でも光継ぎの日にもう一度月都に行ってみたいな。」

「ヴィルヘルムに言って行くというのはどうかね?」

「無理だよ親父は人形の身体でできた俺を外に出したがらないよ。前に野菜を売りに村に行った時にみんな俺を見て気味悪がってた。それから親父は俺が家に出るなんて言ったんだ。月都に行きたいって言っても親父は無理って言うに決まっているよ。何より鉄馬がないと村への街道に合流するまで危険だよ。」

「言ってみないと分からんものだ。ネモもいい年だ。一度くらい話し合うのはどうなんだ。」

「話し合っても結局喧嘩になるだけだよ。」

「いいじゃないか一度盛大にぶつかってみるといい。」

「なんだよこういう時だけ注意しないのかよ。いつもは喧嘩を止める癖に・・・。」

「くだらない喧嘩なら止めていただろう。やるだけ無駄じゃからな。しかし本当に自分のやりたいことがあってそれを叶えるためにぶつかるのならば話は別じゃ。」

先生はそう言いながら自分を真っすぐ見つめた。


いつもはぼんやりしている先生もたまに目がとても鋭い時がある。

怒っているような目じゃなくて心の奥深くを鋭く突き刺すような目で見てくる。

先生のそんな目が苦手だった。


「ちぇっ。分かったよ。じゃあさもし月都に行けるようになったら先生も一緒に行こうよ。」

「そう言ってもらえて嬉しいのぉ。」

先生は低く息を吐き出すように笑った。


「本当はさ。月都だけじゃなくて他の所にも旅をしてみたいんだ。他の町とか村も。前に先生が話してくれた町から町へ旅をする渡り狼の話をあったじゃないか。俺も他の町や村なんかを旅してたいんだ。そしたら一目を気にして生きる必要なんてない。もしそこにいる人が俺を嫌ってもまた別の町に行けばいいだけの話なんだから。」

椅子を前後に揺らしながら呟いた。

次第に自分の見るものが窓の外の景色から寝台に移っていた。


「渡り狼・・・。それも良いのかもしれんのぉ。だが旅は逃げるためにあるのではない。旅は出あうためにある。新しい物や新しい景色、そして無論新しい人との出会いもある。旅の先でお前を認めてくれる人間もきっといるはずじゃ。旅というものは自分に悲しみだけなく希望も与えてくれるものだ。」

先生は自分に向かって微笑んだ。


自分はまた窓の外に顔を向けた。

すると遠くから鉄馬特有の音が聞こえた。


「おやヴィルヘルムが帰ってきたじゃないか。」

「そうだね。」


激しく空気を吹き上げるような音が段々と近づいていき家の前で小さくなって、そして音が止まった。

そしてその後扉を開ける音がした。

きしきしと床を踏む音が響いている。

短い足跡はこちらに近づいてきて、足音の主はここの部屋の扉を開けた。


「やぁヴィルヘルムおかえり。」

最初に先生が扉を開けた人物を迎えた。


「おかえり親父。」

目の前には自分の父親が立っていた。

自分と同じ燃えるように真っ赤な目をしているが髪の色が違った。自分は母親の髪の色だった。黒色だったが父は目の色より少し薄い赤色だった。

髪は長くて、先生みたいだけど先生はちりぢりになってあっちへこっちへ髪が伸びていたが父の場合は流れるように伸びていて紐で一つの束のように纏められていた。

目の色は一緒と言っても目は赤い水晶が使われているだけで親父から引き継いでいるわけではなかった。

ただそう似せて作られただけだった。

でも髪は母から切った髪を植え込んだらしいから、正真正銘母譲りと言える。

背丈は自分より高くてがっしりとしていた。


「ああ、ただいま。」

そう返答した。


「野菜はどうだったんだ親父?」

いつものような質問をした。


「何とか全部捌くことができた。」

といつものように無表情に返した。


父は寡黙な人間だった。

食事中も先生が面白い話をしているのに黙々と食事をとっていた。

三人で仕事のこととか季節のことなんか話す時もいつも無表情だった。

でもそんな父は普通の人間だった。

人形である自分の父親が人形という訳でもなかった。

口を引き結んで上にあげれば微笑むし、口を開いて端を少しでも上げれば大声で笑いもするだろう。

汗だってかくし、涙だって出る。

それなのに仮面を被っているように顔の形を変えたことがない。

いや怒った時があった。

目は吊り上がって口を目一杯開いて大声で怒るんだ。

それは自分が何かやらかした時だったり旅に出たいとか言った時だった。

いずれにしても二人揃って人形親子と言われてもおかしくないくらい父は静かな人間だった。


「ヴァイスマン体調はどうだ?」

父は先生の方を見た。


「ああ、大丈夫だともなんとか蝋燭の火は消えとらんよ。」

ふぉっふぉっふぉっと低く笑って返した。


「そうか」

とまた無表情で返した。


「そいいえば森に帰る途中いつもより森が騒がしかった。悪魔が近くにいるかもしれん。ネモ今から精霊灯の見回りをしに行くから付いてこい。」

次はこちらを向いて言った。


「分かったよ。」

椅子から立ち上がり、元の場所に戻した。

それから空になった食器が置いてある盆を回収して、机も戻して部屋を後にした。


「またね先生。」

「ああ、おいしかったよ。ごちそうさまネモ。」

「ご飯作ったのは親父だぜ?代わりに親父に言っておくよ。」

そういって扉を閉めた。


暗い廊下を通って食器を片付けて玄関に向かった。

扉を開けると父が待っていた。

扉に置いてあった精霊灯は光っており、父が点けたのだろう。

父は荷物は家に置いてきており手ぶらだと思っていたが片方の手に精霊銃が握られていた。

黒い銃で持ち手の部分が木でできていた。

銃身にはところどころ橙色の精霊結晶で飾られていた。

万が一悪魔に襲われた時のための護身用なのだろう。


「行くぞ」

とそう言って父は精霊灯の置いてある森まで歩きだした。

先生のいた部屋を見つめると灯りがついている部屋の中を薄く青紫色の光が上に昇り、ある程度上がった時に部屋の灯りが消えた。

自分はそれを見届けると父とは反対方向の精霊灯が置いてある森に向かった。


第一幕 昏い夜と人形の少年 完


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