第66話 悲しい朝。

 〈さーっ〉と丘を吹き去る風には新緑の香りが交じりもう直ぐ春が訪れる事を告げている。


「さあさ急ぐのですよ!豚どもが目覚める前に葬るのですよ〜」

 甲高い声が叱咤する。


「観測班報告しなさい!どうなの風は!」

 風速計を観測しながら防毒マスクの兵士が叫ぶ。

「もう直ぐ風が止みます!」


 〈ターン〉と乾いた音が報告の後に響き観測兵の防毒マスクに潜血が滲み崩れ落ちる。

 静かにしなさい!大声出さないの!

 ドクトル・ジゴバの右手にはワルサーが鈍く光っている。


 毒ガスを散布しなさい!

 早く早くしなさい!


 ブタどもの野営地まで2キロってところね。


 地を張って毒ガスがにじり寄るには最適な距離ね。


 アイルランド兵の野営地に向かう途中には朝を待つ村がある。

 戦争、争い事は唐突に全てを奪う。

 村を舐め尽くす様に広域に広がりつつ新緑香る丘から死の誘いが歩み降りて来る。


 真っ赤な朝焼けが丘と反対側の田園の地平に上り始める。

 何時もの朝の様に朝を告げる鶏は鳴かない。

 二度と目覚めぬ眠りの中。


 村々の戸や家の隙間からにじり寄る静かな毒牙。


 村人のベッドの下にどんどん堆積して死の淵を作る。

 寝返りを打って大きく息を吸って息が止まる。

 この村で目覚める人は居ないだろう。


 いつもの様に喧騒な日常、子供たちの笑い声、足音。

 もう聴こえる事はない。


 毒ガスは村を満遍なく飲み込んでアイルランド兵の野営地へとスルスルと延びる。

 歩哨に立つ兵士が野良犬がパタリと倒れるのを目撃して異変に気づいた時はもう腰まで毒ガスに浸かっていた。

 毒ガスだと気づき防毒マスクを取りに振り向いた時、春を告げるそよ風が〈スーッ〉と顔を撫でる。

 毒ガスが舞い上がり兵士は事切れる。


 静寂な村。

 村の中央広場の脇に大きな屋敷がある。

 村を代々治める地主の屋敷。

 屋敷は数階建てで三階に地主夫妻のジュセフとメアリーの寝室があった。

 二人は毒ガスから逃れていた。


 死の静寂を肌身に感じた主人は鳥籠を二階側の階段に放り投げる。

 小鳥は少し抗い地に伏せる。


 〈毒ガスだ!メアリー上に行くんだ!〉


 〈ダメよ!エインセルが地下の部屋に居る!〉

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