下
ねえさんは五葉塾に私よりも昔から在籍していて、実際のところかなり優秀で、私よりも年齢が一回り上なものだから表向きの講師も担当していたのだけれど、いつも自分を責めてばかりでやや神経過敏なところがあって、夜毎にシクシクと泣いている。私はそれを慰めたいと思うのだけど、ねえさんにはそんな言葉は届かず私に「久遠、貴方はいいわよねえ」なんて言って私の鳩尾のあたりを強く殴る。
それは私に対しての激しく、しかし静かな家庭内暴力で師匠も私が引き取られた時期は五葉塾を空けていた時期だし私は誰にもそのことを話したりしなかったので暴力システムは構築されていて、ぐるぐると廻り続ける。
ごめんなさい、ごめんなさいと私が言って殴打に次ぐ、殴打。そうすると今度はごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいとねえさんが謝罪。ねえさんの心には穴が空いていて、実際のところねえさんの周囲の人はねえさんを評価していたし振り返って考えてもねえさんは私よりもずっとうまくやっていて、完璧と言ってもよかったのだけど、それじゃあねえさんの心は満たされなかったのかもしれない。
ねえさんはねえさんであるということがもう許されない大罪だと考えているようで、人間はそもそも大罪を抱えているのだから今更気にすることじゃないのだけど、ねえさんの中ではそれは疑いようのない真実で、周囲へ完璧にするほど綻びは大きくなって私に暴力を振るう、私が謝る、ねえさんが謝罪する。私のねえさんへの媚びるような笑顔も、私の泣き声も、私の謝る言葉もねえさんにとっては自分を蝕む声だった。ねえさんは自らの行いに嫌悪をしていて、私に暴力を振るうたびに認められない自分になるのだけど、その嫌悪に耐えられないのでさらにそれから逃げるために私に暴力を振るう。
どうしてやさしいねえさんがそんな風になっていたのか。
今でもよくわからない。
思うに、ねえさんは全てに迎合しようとし続けていた。根本的にねえさんはねえさんである個性が素晴らしく、そして強固な人だったので、集団に迎合しないでもいくらでも好いてくれる人なんていたはずなのだけど、目の前にいる人よりも集団という概念の強さに流されていた。同じような言葉を使い、同じような話題を話し、同じようなノリでワーワーやっていて、五葉塾以外にもあった大学とかのつながりとかでも何もかもそうやって過ごしていたらしい。
集団というのは溶け込み過ぎれば毒となるもので、集団に溶け込むことが好きな人ならばいいのだけど、ねえさんは集団に溶け込むことが得意じゃないのにそれを絶対の義務と考えるので無理をする。本来存在しない「こうでなくてはならない」みたいな空気を見出して、ねえさんは振舞っていく。そうして夜毎、私に当たる。
ねえさんは疲れていた。求められることに。
五葉塾の表の顔で講師であることにも、裏の顔でこうして戦うことにも、ごく普通の大学生であることにも私のねえさんであることにも。そうしてそれを誰にも知られないように振る舞うことにも疲れていた。
「久遠、貴方なんて、いもうとにしなければよかった」
私の右目が暗闇に変わる。
ねえさんの掌に、私の右目だったものがある。
やがて私の首に手を滑らせて、ねえさんは私の首に添えた両手に力を込める。
「どうして、私はあの時……」
私の首は締まり、気道は防がれ、意識は遠ざかって世界は暗転していく。もうこのまま終わりでもいいんじゃないかな?
そう、このまま、首を絞められた。
それで終わり。
ゆらり、と炎が見える。
炎?
違う。
そうじゃない。あの時、私はあのまま終わっていない。あの時のねえさんの言葉は違う。ここで終わりじゃない。あの時確かに私は右目を奪われた、私は首を絞められた、あの時確かにねえさんは私を殺そうとした、確かにねえさんは壊れていた。
それでもこの記憶と、あの時のねえさんは、違う。
首の感触に輪郭が宿る。
私の首に何かが突き立てられていることが理解できる。手に力を込めると刀があることがわかる。これが人の手によって行われていないことがわかる。
私の首筋を、結界越しにかみ砕こうとしている存在を知覚する。
私に触れている鮫がいる。
私に噛み付いている鮫がいる。
私の心に入り込んでいる鮫がいる。
刹那の理解、私が私であることの核、それを雑に触れられたという感触に私の内にある激情が牙をむく。
「私の記憶に触れたな! 私の内面をいじくったな! 私を内面から喰らおうとしたな!」
私は気づく。私の全身に小型の鮫が噛み付いていることを。
私の精神に入り込んで踏み荒らしていることを。
この鮫たちがねえさんとの記憶を都合よく改竄し、喰らおうとしていたことを。
あの日、私は生きることを捨ててなんていない。
《干渉》《拡張》《拡散》《実行》刀の軌跡を複製、斬撃を無限に拡散、この私の周囲一帯を結界ごと切り刻む。
「破式––––隠世除却」
私を中心に、斬撃が放射状に拡散していく。
バラバラバラバラ、と小型の鮫たちが地面に落下していく。
暗闇が切り開かれ、頭上には漆黒の空が見える。
ここは私はさっきまでいた校庭だ。
思念が混ざり合う、鮫が私の精神に干渉していたように、私は鮫の思念に混入している。
――ああ、きっと神聖な生物だ。だってこんな生物みたことないよ。
――今年は豊作だったのはきっとこのサメ様のおかげでさぁ。ありがたいことだよ。
――ああ、どうして今年は不作なんだろう。どうして疫病が流行るのか。
――神様がいるのにどうしてこんなひどいことに。
――ああ、生け贄が足らぬのか。
――ああ、神様……私たちに幸せを。
――生け贄を、生け贄を、生け贄を、もっと、もっと、もっと必要に決まってる。
――これだけ捧げたのだから、これは神に決まってる。
おぞましい記憶、浅ましい記憶。人間の記憶。鮫の記憶。
この世界はどうしようもなく、狂っている。
空中に放り出される、いつの間にか私の結界を包み込むように鮫たちによる結界に閉じ込められていた。干渉されていた。地面に転がるようにして落下の衝撃を分散して、姿勢を整える。
転がるように落下、衝撃を吸収して体勢を立て直す。
そうして私は状況を理解する。
ここは校庭で、私は張り込みをしていて、そうして知らぬうちに干渉されていた。
一帯に無数の鮫が広がっていた。
眼前の敵、数にして十四。中型から大型の鮫。ダルマザメにイタチザメ、ホオジロザメ、オオメジロザメ、盛りだくさんだ。でもそんなものはもう大したことじゃない。
全神経の高ぶりを一つに集中させる。『瞳』が捉える世界の定義を掴む。
視界に見えるものは、ただ見えているものであり、真に理解するものとは違う。
私は『瞳』を駆動する。
そして、世界を捉える。言葉が見える。世界を構成する言葉が。
私が、敵が、光が、闇が、有限と無限が、全てを構成する言葉の断片を垣間見る。
私の領域に、概念刀が呼応する。師匠から譲り受けた概念殺し。かつての陰陽寮から伝えられし類なき一刀。
物質を、生命を、空間を、概念を––《
刀が呻く。刀が煌めく。刀が求める。刀が叫ぶ。暴力を闘争を殺戮を虐殺を鏖殺を、理解の果ての解体を。
ひとつ、刀の柄頭を鮫の頭部に叩きつける。鮫が怯んだ時にはもう遅い。一つの生命として構成されていた鮫は瞬く間に解体されて肉塊へと化す。
ふたつ、地面を蹴り飛ばし空中へしなりをつけて舞い上がる。すれ違いざまに刀を滑り込ませる。筋肉の繊維に沿い、感触などほとんどしない。命の失われる様にも気づかないまま鮫は口から全身にかけて真っ二つに切り開かれる。
みっつ、よっつ、滞空する私を捉えんと二匹の鮫が私を左右から迫る。《干渉》《刀身変化》《加速》《回転》《実行》、私は横に体をひねり、刀を力強く握る。刀が自ら推進力を纏う。私を軸とした風車のごとき舞い、二匹のミンチが出来上がる。
残り、十匹。
残存する周辺に陣形なきまま存在していた鮫たちが急に体をよじり、集まろうと開始する。鮫たちの狙いの特定は短時間では不可能。
――ならば。
「《干渉》《拡張》《拡散》《実行》」
概念刀に力を伝わせる。破式––隠世除却を放つ。
日に複数回の概念刀を介した連続干渉。それは決して私に利益だけを与える力ではない。過度の使用は気力を蝕み、体力を蝕み、心を蝕み、生命を蝕み、魂を蝕み、存在を蝕み、概念を蝕む。
だけど、と私は頭の中が不思議なほどにクリアなことを実感する。
ああ、ねえさんと夢で会えたからなのかな、なんてスローモーションの世界で思う。体に血が巡る、体温が高まり続ける、鼓動が何かを突き刺さるかのように続く。本当は、立っているのも精一杯なのかもしれない。
それでも、私は今の私を心地よく思う。ここは踏ん張りどころだ。
「二返・破式––––隠世除却」
振るった刀の一つの軌跡が無数の刃となり、凶弾と化して放たれる。
いつつ、むっつ、ななつ。鮫の臓腑が零れ落ちる。牙がえぐられ、袈裟斬りなり、死という概念が地面へと落下する。
距離があったからか、致命傷に至らぬ数匹が体を寄せ合う。
ホオジロザメが衝突する。重なり合う。怪異たちの接触、結合。
鮫たちが結合していく。
おそらく、鮫が複数いたのは村人たち個々人の色が強く出たのだろう、と私はそれを見つめながら考える。
人の持つ怒り、苦痛、悲しみ、恐れを神に委託した。信仰は鮫という形を作った。
それぞれがいつか見た鮫を夢想した。それぞれが独自の知る鮫を信仰した。それぞれが干渉し合いながら独立した鮫として顕現した。
この世界に神はいない。
ただそこにある何かから、人が神を見出す。
それぞれの人の信仰が神を顕現させる。
村人たちが、この一つ一つの鮫を信仰し、生み出した。
しかし、それが今重なり合った。概念として溶け合おうとした。
やがてそれは一つの生命体として完成する。
「似たような映画、見たよ。多すぎない? なんでもかんでも増やせばいいと思ってない?」
セブンヘッドシャーク。七つの頭を持つ怪物が誕生した。
「ゴアアアアァアッ!」
鮫の咆哮。鮫が吠えるものなのかは知らないが、信仰の塊である以上「そうであれ」「そうである」と規定されたらそうなのだ。
鮫は叫ぶ。
鮫は存在を誇示する。自らが神であると、自らが絶対であると。
地を這い、その巨体から想像もつかない速度で七つの頭部で連続で噛み砕かんと迫り来る。視界に収まらぬ疾走を這いずり回りながら実現するという異常。
交わした先の地面はえぐり取られ、クレーターと化す。
一撃、二撃、三撃、四撃––––早い、早すぎる。
「《干渉》《障壁》《障壁》《障壁》《実行》!」
結界の展開、しかし私の胴を横から上顎と下顎に挟まれる。頭部を包み込むように、すり潰すように噛みつかれる。足を解体しようと連続で牙で噛み続ける。
急場凌ぎの結界により私の命はかろうじて保たれるけど、このままでは数分後には破られる。
鮫の口内の暗闇が、闇がゆれる。私はその闇を《視る》。
その先に、口内の果てしない闇に人々の叫びが浮かび上がる。
――ああ、神様、神様、神様。
――解放を、救済を、幸福を。
――若い人は誰もいなくなってしまった。あの子も、あの子も、あの子も。
――どうしてそんな消えてしまうんだ。どうして子供がいなくなってしまうんだ。
――ああ、神様に祈らないと、供物を捧げないと。
――さあ、今度はどの子にしよう。
――ああ、神様、神様、神様、救いの日を。
――人が来た、新しい人が来たんだ。きっと変わる、変わるんだ。
――これは、ダルマザメにイタチザメ、ホオジロザメ、オオメジロザメ……
――新しい知恵だ。新しい話だ。これで人が戻って来る、人が増えるはずだ。
――さあ、あの人を今度は供物に捧げよう。
――人を、人を、新しい生け贄を。
――神こそが、救いの日々を。
私ではない誰かの記憶のフラッシュバック。過ちが過ちを呼び、抜けられぬ絶望の螺旋が渦巻いていたのが見える。この村は、とうの昔に終わっていた。
神の亡き世界で、神を求めてさまよい続けた。その道に先に何もなくとも、その道を違えることができなかった。神話の時代を無垢に、無防備に、無覚悟に信じ続けた。
だが、神話の時代は終わりを告げた。
人々は既に独立して歩みを始めている。
ならば、この消えゆく村に私ができることは幕を引くことだけだ。
「《干渉》《限定》《刀身》《解放》《実行》」
概念刀への一時移譲。私の肉体の消耗を考慮しない、私のフルスペックを引きずり出す、わずかな時間の限定解除。
わずかな時間、私の肉体は概念刀に突き動かされ眼前の敵を殲滅する機械となる。
「急式––––現世夢想」
その瞬間、私の視界はカメラとなる。
この世界を捉える、視点であり、私の意志が介在しない世界となる。
鮫の一つ目の頭が散体する。視界が開き、星の瞬く空が見える。胴体に噛みついていた鮫へ左腕による掌底が放たれ私の口が言葉を紡ぐ。
《炸裂》《炸裂》《炸裂》《炸裂》《炸裂》《炸裂》《炸裂》《炸裂》《炸裂》《炸裂》《炸裂》《炸裂》《炸裂》《炸裂》《炸裂》《炸裂》。
繰り返される干渉に私の掌からは血が滴り落ち、指の骨が折れていく。鮫の頭蓋は爆発四散。私の足に力がこもり、足に噛みついた鮫を強引に開き、顎を可動範囲を超え、破壊する。
私の刀は一体なんなんだろう。ぼうっとしながらそう考えているうちにチャッチャチャッチャと鮫が解体されていく。刀が空を切るかのように鮫の体を細切れにしていく。
叩き切り、突き刺し、ねじり、押し切り、すり潰す。そこにあるのは戦いではない。ただの鏖殺だ。
頭が最後の三つになり、鮫が私の一点、生命活動を行う要である脳髄を打ち砕こうと迫り来る。
「――――」
私の口が何かの言葉を紡いだ途端、閃光が広がる。
まばゆい光の中で、鮫が複数の肉塊に切断されて、溶けていくのがわかる。
「ゴアアアアァアッ……」
消えゆく鮫の声。そして魂の呼応。鮫の最後の干渉。
そして、私は見た。
いつかの記憶。
私に流れてくる、目の前の怪異の記憶。
人々が崇め奉る。人々は鮫に感謝する。人々は鮫を必要とする。人々は鮫を見ると大喜びで声を上げる。願う、祈る、鮫に、神に、この世に。
どうか幸せであるように。どうか幸せが続きますように。
供物が捧げられる。少しでも願いを叶えようとする。
供物が捧げられる。少しでも願いを叶えようとする。
供物が捧げられる。少しでも願いを叶えようとする。
供物が捧げられる。少しでも願いを叶えようとする。
供物が捧げられる。少しでも願いを叶えようとする。
供物が捧げられる供物が捧げられる供物が捧げられる供物が捧げられる供物が捧げられる供物が捧げられる供物が捧げられる供物が捧げられる供物が捧げられる供物が捧げられる供物が捧げられる供物が捧げられる供物が捧げられる供物が捧げられる供物が捧げられる供物が捧げられる供物が捧げられる供物が捧げられる供物が捧げられる供物が捧げられる供物が捧げられる供物が捧げられる供物が捧げられる供物が捧げられる供物が捧げられる供物が捧げられる供物が捧げられる供物が捧げられる供物が捧げられる供物が捧げられる供物が捧げられる供物が捧げられる供物が捧げられる供物が捧げられる供物が捧げられる供物が捧げられる供物が捧げられる供物が捧げられる供物が捧げられる供物が捧げられる供物が捧げられる供物が捧げられる供物が捧げられる供物が捧げられる供物が捧げられる供物が捧げられる供物が捧げられる供物が捧げられる供物が捧げられる供物が捧げられる供物が捧げられる供物が捧げられる供物が捧げられる供物が捧げられる。
ああ、そうか、と鮫たちは、彼らは思う。
人々が望んでやまないこと。
人々が真に幸せと思うこと。
こんなに供物が捧げられるのだから。
こんなに喰らうことが望まれるのだから。
――人々を喰らうこと、それこそが彼らが望んでやまない。
「違うんだよ」
限定解除の時間は終わった。私の、この体の制御が私へと戻った。
時間切れ。そして既にこの戦いは終わっている。
私はボロボロで、立っているのも限界な状態で、鮫の残った頭の前で立つ。
「人々の幸福はあやふやで、とてもおぼろげで。それでも、ただあなたは願いを叶えたかったんだろうね」
鮫に言葉は理解できない。きっと、わからない。
「でも、手段と目的が転倒してしまった」
それでも、伝わることを願い、私は言葉を紡ぐ。
「あなたと人々の幸福が続けばよかった。それはもう、私にはわからない。どこで間違えたのか、本当に間違えていたのか、何もわからない。あるのはただここに死だけが残っていることだけ。死の村とこの場所が変わっただけ。願いも、祈りも関係なく、この場所は終わった」
鮫の鳴き声が止む。あたりが静寂に包まれる。目の前の鮫はまだ、生命の灯火が残っている。
私は、この灯火を消さなくてはいけない。
「だから、おやすみなさい」
《干渉》《切断》《実行》
言葉を紡ぎ、動かぬ体を駆動させ、私は刀を振り上げる。
それは人々が祈るように。手を合わせ、この世の幸福を祈るように。
――海の近くの村から人が来たってよ!
彼らは、応えたいと思った。
――水に入れた見たことない生き物まで連れてきてるぞ。
人々の願いに、祈りに。
――なんて素晴らしい生き物なんだ。見たことないよ。
だから。
――これはめでたいことだよ、きっと兆しだ。
だから。
――ああ、そうだ、この村はもっと良くなる。
――これからどんどん幸せに皆なっていくぞ!
鮫は躱そうともせず、振り落とした刀を受け入れた。
▼▼▼
その場で校庭に倒れ込む。息も絶え絶えで、もう一歩も動けない気がする。
「ああ、しんどー」
全身に激痛が走ってぴくりとも動けない、少なくともすぐには。
「へい、Siri、東光院さんに電話」
そう言って東光院さんに電話をかけてさっさと救助に来るように頼む。鮫の血と死骸に塗れながら私は仰向けになって空を仰ぐ。
月夜を隠すように私を覗き込み影があった。
「ああ、もう凄まじい有様ですね。私の元に来た時から只者ではないと思っていましたが、こうも大暴れするとはね」
「榎音未医院の……」
「ええ、榎音未医院の榎音未です。お疲れ様でしたね、今回は」
そう言って、フフッと笑う。私の近くにしゃがみ、白衣が地面にくっつきそうになりながら言葉を続ける。
「本当はね。私はわかっていたんです。あなたが何かしらの使命があって、ここに来ていて、ああこの村の事態を解決しに来たんだなって。さすがに世俗に疎いといっても私にも、わかります」
「ええ、そうですね。まぁ最悪黙っていてもらうか、ごまかすかしようとは思っていたんですけど」
情報操作は東光院さんに任せればいいし、五葉塾に任せれば最悪記憶消去もできる、そう思ってすっかり放置していた。まぁ考えてみれば当然だ。女子高生が一人でやってきて騒動について根掘り葉掘り聞いた後に現場で野宿をしているのだから大なり小なり観察しようと思われても仕方がない。
「私は、昔から感じてしまう人間なんです」
榎音未さんはポツポツと語り出す。
「大方あなたも何かしらが感じる、いや、私よりもずっと理解出来るんだと思います。そういうのが理解出来てしまうとただ生きていることって、ずっとずっと難しくなると思うんです。少なくとも、私にとっては」
「でしょうね」
「私に釣られて、なのかはわからないけど、私の周辺では怪異ばかりが起きたんです。それとも私が感じてしまう、気付いてしまうだけで、元からこの世界は怪異に溢れているのかもしれないけど」
理解出来てしまうことは、生き辛さを呼ぶ。他の人が理解しないものを理解出来るということは、他の人が考えないで良いことを考えるということだ。それは感じない人が想像力を使って理解することもあり得るが、感じると感じないでは実感が違う。それを感知してしまった人にとって、知らないふりをして生きて行くことは自分を偽って生きることに等しい。
––––ああ、何もあなたが見えなければいいのにね。ずっとこの闇の中に閉じ込めておければ良いのに。
記憶の中で誰かの言葉が蘇る。私は榎音未さんの方をなんとか首を動かして声を出す。
「このまま寝たままで話を聞いても良いですか?体が動かないので」
「どうぞ。私はこのまま話しますから。私はこうして見えるが故にこんな村までやってきたんですけど、見えたところで何も出来ない人もいるんですよね。私のように。私はカウンセラーの真似事もやっていたんですけど、皆、一人一人の時では狂乱から目が覚めていたんですよ。どうしてこんなことが繰り返されるのか、どうすればよいのか。でも、集団には勝てなかった、彼らは。漠然とした集団の善に取り込まれて、この村の神に祈りを捧げる一部となってしまった」
よくある話だ。意識的か無意識的かは別として、大きな流れに逆らうわけでもなく、ただそこに所属しているだけで流れを生み出してしまうことは往々にして存在する。
「榎音未さんはその流れに入らなかったんですね」
「入れなかった、というべきですね。私はアレの存在を感じていたから。そういう体質なんです、私は」
「なるほど」
私が《視る》ことができるように、そういう人は稀にいる。霊感と言われているものと言ってしまってもいいだろう。この世のズレを、意図せずに感知してしまう。
それが榎音未さんだったというだけだ。でもそれは当人にとってはそうでもない。
「恐ろしくて入れなかった。でもだからこそもっと人々を止めるべきだったんでしょうね……」
榎音未さんの表情に初めて後悔の念が浮かぶ。飄々としていたそれまでの様子とは違った表情で、私はそこに榎音未という人の内側を見る。
「人々の悩みは様々で、私はそれぞれの話を聞き、それぞれに寄り添ったつもりだったんです。ある人にはこの集団の異常性を認識させて悩む己を肯定し、ある人には集団に属することの正当性を認識させてまた己を肯定させ、ある人には鮫の話をした、この村にとっての神、鮫の様々な姿を話すことが、希望が無数にあるように感じてくれるのではないかと。でも、そうやって人々のそれぞれの幸せに寄り添おうとした……結果がこの有様でした」
万人が同じ幸福を目指すわけではない。カウンセラーとしてはやや領分を逸脱しているかもしれなかったけれど、私は榎音未さんがそこまで人として寄り添い方を間違えたとは思わなかった。でも、それではこの村はダメだったというだけだ。
榎音未さんの寄り添いにどれだけ村人が救いを感じていたかはわからない。だが、この村の運命を変えるにはそれぞれの柔い癒し程度ではどうにもならなかったというだけだ。
榎音未さんは献身をした。人の献身は祈りだ。
そして届くかどうかわからないが故に人は祈る。
「ある意味で、私はこの村を滅ぼした張本人かもしれません。私という異分子から自己を保つためにより祈りを捧げた側面もあっただろうから。この集団の流れに乗り切れない人の話を聞くと、そのこぼれた人を私が取り込もうとしているように他の人々からは見えました。だからこそ結束をより強くしようと狂乱が加速する。一人の話を聞けば数十人が過熱する。そして話を聞いた一人もまたその狂乱に飲み込まれる……私という異分子に村人たちはかろうじての理性で攻撃をしないまでも、ひたすらに神に祈りを捧げるという集団の行動を強化し続けた」
そして、弾けた。
「それが、今回の一件、だと」全身に激痛があるが故に全く言葉が続かないまま私は聞き返す。榎音未さんは膝を地面につき、まるで首を垂れるかのようにして私の言葉を聞き、話す。
「私はね、この自分にうんざりしているんです。この壊れていた村を決定的に壊してしまったのはね人々でも、信仰でも、鮫でもない、私こそがこの村の怪物だった」
榎音未さんは疲れ切った顔をしていて、それは私に村の事件の話を聞かせた時とは打って変わった風貌で、あっという間に年老いたような印象を私に与えてぎょっとさせる。でもそれはそれだけの想いを榎音未さんが抱えていて、歩んでいたということだ。
榎音未唯愛という業であり、榎音未唯愛の生きてきた軌跡ということだ。
それはもしかすると、正しいのかもしれない。
榎音未唯愛という、異分子がこの村を破壊した。
榎音未唯愛という、怪物。
それが真相を明かす言葉。
――あなたは怪物なんかじゃないわ、少なくともこれからはね。
フラッシュバック。私の、私自身の大切な記憶。ねえさんとの記憶。
違う。
それは真相を明かす言葉ではない。
私は伝えなくてはいけない。私はしなければいけないことがあることに気付いて体を動かそうとする。
目の前の榎音未唯愛は私だ。かつての私で、どこにも居場所がない私だ。私が言葉をかけなくてはいけない。私はあの時を繰り返そうとする。
ねえさんは変わってしまった。ねえさんは何にも耐えられなかった。ねえさんは私を救い続けることなんてできなかった。私も、そんなことは出来ないけれど。
「バカ言ってんじゃないですよ」
あの日のねえさんの気持ちはこんなにもわかっている。
「あなた以外の誰がこの村に、村の人々に、この終わりに寄り添ったんですか。誰もいませんよ、そんなの。この村は、終わっていたんです。それがいつからだったかはわからない。でも、決定的に、致命的に違えてしまっていた。あなたはこの村の罪に寄り添っただけ。終わりを見届けただけ」
世界は言葉で出来ている。
無数の言葉で構成される世界で、私がそれを読んだとしたら。
私の『瞳』が《視た》としたら。
それは榎音未さんが犯人の世界か?
どうしようもなく救いがない、絶望の世界か?
違う。
それは違う。
きっと、私の『瞳』が言葉で出来たこの世界を切り取ったのだとしたら。
そこに浮かぶのは違う言葉だ。
「榎音未さん」
そう、私はきっとこの言葉を紡ぐはずだ。
「あなたは怪物なんかじゃない。少なくとも、今日、今この瞬間からは」
未来は不確定で、残酷で、人は多くを間違える。
でも、この瞬間に間違いなんてどこにもない。
私は手を伸ばす。地面に横たわったままで不恰好だけど、確かに榎音未唯愛に向けて手を差し出す。
「五葉塾へようこそ」
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