週末
麻生慈温
金曜日は軽い二日酔いの残る朝で始まった。
金曜日は軽い二日酔いの残る朝で始まった。それでも割と早い時間に目が覚めたのは、慣れない枕と雨音のせいだ。先夜から降り続く雨に多少うんざりしながら、独りで泊まるホテルのダブルルームに設えられた広いバルコニーに通じる窓を開けた。リゾートホテルを囲む人口の森林は靄がかかり、ところどころ霧が出ていた。幻想的な眺めと言えなくもない。空気は雨で洗われてより清冽になり、緑と土の匂いが濃厚になっている。僕は窓を開けたままベッドに戻り、サイドテーブルに置きっぱなしの煙草を一本とって火を点け、また窓辺に立った。そうやってしばらく雨と森を眺めた。この組み合わせは悪くない、と思った。
煙草をくわえたまま、そっと窓から手を差し出して雨粒を掌に受けてみる。綺麗な水滴がつくはずもなく、たちまち手はびしょ濡れになった。窓を閉め、煙草を灰皿に押し潰してバスルームで手を洗い、部屋の電気ポットで湯を沸かした。
湯が沸くのを待つ間、サイドテーブルに煙草と一緒に置きっぱなしにしてあったスマートフォンを取り上げてみる。何の着歴もメールもなかった。ベッドに放り投げ、ついでに自分も横たわった。
一緒にここへ来るはずだった相手から何の連絡もないことが、二日酔いを増長させ、雨の音をいっそう強くしているように感じた。本当なら恋人とゆっくり森のホテルで週末を過ごす予定だったのに。
湯が沸いたので、インスタントのコーヒーを淹れた。ホテルの部屋についていたもので、他に紅茶やほうじ茶のティーバッグもある。彼女はお茶を淹れるのが上手で、朝、目が覚めるといつも紅茶を淹れてくれた。本当はコーヒーのほうが好きだったのだが、彼女が紅茶党でなんとなくそれにつきあって朝は紅茶を飲むようになっていた。インスタントでも、久しぶりの朝のコーヒーは美味しかったが、どこか物足りない。
コーヒーカップを手にまた窓に立ち、今日は何をしようかと考えた。何もすることが思いつかなかった。あるとすればもう一度ベッドにもぐり込み、二度寝することだ。しかし自宅ではないから、清掃の時間があるだろう。その間はどこかへ行っていたほうがいいだろうか。もちろん、起こさないで下さいの札があるし、それをドアにかけて一日じゅうこの部屋から出ないで過ごす手もある。雨のせいにして部屋に閉じ籠もって過ごす週末。しかしそんなことをしたら、いろんなことを考えすぎて、深い沼にはまるように思考が悪い方向へいってしまいそうだ。
コーヒーを飲み終えて、僕は着ていたものを脱いでシャワーを浴び、シャツとチノパンに着替えてとりあえず朝食をとるために部屋を出た。ちょうどいい時間にあたってしまい、ロビーも朝食をとるレストランも宿泊客であふれ返っていた。仕方なくロビーの隅にあるセルフサービスの紙コップ入りのコーヒーをとって、目立たなそうな位置にあるソファに座った。雨のせいで行き場をなくした家族連れがロビーのあちこちで途方に暮れて、子供達はそこら辺を走り回っていた。レストランからも子供の騒ぎ声や赤ん坊の泣き声が聞こえてくる。やれやれだ。心なしか、フロント係や支配人と思しき初老の男が苦々しい表情を浮かべているような気がする。さすがにそこはプロだからあからさまに顔に出したりはしない。それでも、支配人の男が、ロビーの真ん中にある噴水の水を掛け合っている子供に小声で注意しているのが見えたが、その顔はげんなりしていた。
雨に閉じ込められた家族達は、みな同じ境遇にあるせいか区別がつかないほど似通って見える。母親は疲れ切って不機嫌になり、退屈する子供に振り回されてさらに苛立ち、父親はそんな妻子に振り回され、どこでもいい、ここではないどこかへ行きたいと思っているようだった。僕は周囲からはどんな風に見えるだろう。独りでのんびり骨休めに来ていると思われているのか、女に振られたとすぐ分かるだろうか。
そんな馬鹿なことを考えながらコーヒーを飲み、ふと、僕が座っている場所と反対側の隅に、若い女性がひとりで座っているのに気がついた。ひとり掛けソファに腰を下ろし、携帯電話をいじりながら、時折紙コップを口に運んでいた。その仕草にどこか見覚えがあるような気がして目を凝らした。僕の恋人の女の子ではない。ストレートの黒髪が肩から流れ、秋らしい煉瓦色のワンピースを着ているが、どれも僕の彼女のものではない。それでいて、どこかで見たことのあるような、妙なデジャヴを感じた。この人を知っている、と思った。
どこかで逢ったことがあるか、友人知人、その知人まで遡って思いだそうとしてみたが、思い出せなかった。酒の残る頭が痛み出したので考えるのをやめ、そろそろレストランも空いてきただろうかと腰を浮かしかけた時、見知らぬ男の子が僕の前を駆けてきてぶつかった。僕も男の子も少しよろけただけで転びはしなかったが、手にしていたスマートフォンがするりと手から落ちてしまった。あっと思った時、白い細い手が床に伸び、さっと携帯を拾い上げて僕のほうに差し出された。目を上げると、あの煉瓦色のワンピースの女性だった。僕は慌てて礼を言って携帯を受け取った。女性はそっと会釈し、レストランの方へ歩み去った。
雨の森も悪くない。そう思いながら、僕も後を追った。
雨の森も悪くない、と言ったのは、行きつけのバーでたまに逢う常連客の男だ。僕が気に入って彼女を連れて時折行くバーで、次の休暇にどこかのんびりできるところへ旅行しようと話し合っていた時、同じように女性を連れて現れる、僕と同年代くらいの年格好の男が横から会話に入ってきたのだ。その時、僕達は並んでカウンターに座っていて、その隅にはひとりでやって来る常連の初老の男性もいた。バーの内部は広くはなかったから、家庭的で打ち解けた雰囲気があり、バーテンの作るカクテルも手料理も評判がよく、常連客同士が言葉を交わすことも多かった。僕は本当はもっと頻繁に通いたかったのだが、そのバーが喫煙する客が多く、彼女が煙草の煙が嫌いで思うようには行けなかった。そこでこの高原のリゾートホテルを教えてくれたのだ。自分達も去年滞在してみてとても気に入ったこと、近場に温泉もあるし、テニスやサイクリングもできるし、森を散策するだけでも楽しかったことなど、ひとしきり話して聞かされた。連れの女性も、男の隣でにこにこしていたのだ。その時、でも一日だけ雨に降られちゃってね、とその男が少し表情を曇らせて話した時、カウンターの隅にひとりで座っていた初老の男が、でも、雨の森もいいもんですよ、と唐突に口を挟んできたのだった。
あの時は彼女も楽しそうに話を聞いて、ぜひ行ってみたいと言った。だから週末に一日休みを足して、このリゾートホテルでのんびり過ごそうと計画を立てたのに。何もかもおじゃんになってしまった。
僕は朝食のレストランでようやく確保できた中央のテーブルで、何の食欲も感じないまま、適当にビュッフェから料理をとり、コックがその場で作ってくれるオムレツをもらった。美味しそうに見えたが、実はまったく食べたいと思えず、いっそビールを飲みたいと思ったが、朝食ビュッフェにアルコール類はなかった。仕方がないから水だけにしておいた。周りはまだ食事を終えていない家族連れやカップルや女の子同士で来ているグループばかりで、そんな中、中央のテーブルに独りでいるのはさすがに居心地が悪かったが、周囲は他の客のことなど眼中にないようだ。カップルは自分達の会話に夢中で、家族は子供の一挙手一投足に気を取られ、親は自分の食事もままならない有様だ。
そっとレストランの中を窺い、先ほどの女性を探してみた。窓際のテーブルにひとりで座っているのを見つけた。相手はビュッフェテーブルに料理をとりに行っているのかと思ったが、いつまでたっても誰かが現れる様子はなく、その女性は窓の外の森を眺めながらオムレツを食べ、ジュースを飲み、サラダをつまみ、また窓の外へ視線を向けていた。その横顔が綺麗だった。年齢は二十代後半か、三十代前半か。浮ついた印象はないが、こうしたリゾートホテルにひとりで来るタイプにも見えなかった。もしかしたら僕と同じように、直前で来る予定だった相手と喧嘩でもしたのだろうか。このホテルに似たような境遇の人間が、実はまだまだいるのだろうか。
近くに座っていた家族連れのテーブルで何かがガチャンと割れる音がして、小さな男の子が泣き出した。まだ若い父親と母親が慌てふためき、レストランのスタッフが急いでやって来た。まだ小さい男の子は顔を真っ赤にして、この世の終わりのような悲壮感で泣き叫び、なんとも憐れを誘う様相だった。彼女はそちらにそっと目を向けてから、ジュースを飲み干して静かに立ち上がり、レストランから出て行ってしまった。それを見て、僕も急いでオムレツを水で無理に流し込み、席を立った。ロビーまで出た時、すでに彼女の姿はなかった。
部屋に戻り、フロントに電話をして清掃の必要はないと伝え、少しだけ窓を開けて空気を入れ換え、ベッドに横たわった。瞼が重くなり、うとうとして、短い夢を見た。旅行直前の、彼女との喧嘩が夢の中で再現されてうなされそうになった。夢の中で、彼女は泣きながら僕に向かってあなたは冷たい人だとなじり続けているのだった。
彼女との関係が急に悪化したと、僕が感じたのは旅に出る三日前だった。僕と彼女は仕事終わりに待ち合わせして食事をし、いつものバーへ寄った。食事をしながら、彼女の口数が少なく、料理にもほとんど手をつけていないことに気がついてはいた。どうせまた家族と喧嘩でもしたのだろうと高をくくっていたのだ。彼女は郊外の住宅街で両親と妹と暮らしていて、仲は良いらしいのだが、喧嘩もよくしているといつも聞かされていたからだ。だから僕は少しでも彼女の気を紛らわせようと、会社での出来事とか、共通の友人の噂話とか、罪のない話をしてその場を明るくしようと努めた。しかし彼女はいっこうに笑わず、相槌も上の空といった感じだった。やれやれ、と思い食事を切り上げてバーへ移動した。 その夜は空いていて、カウンターにいつもの初老の男性と、いくつか席を空けたところに女性がひとりで座り、バーテンと会話をしながら煙草を吸っていた。僕達はそのバーで数少ないテーブル席をとり、酒を注文した。彼女はオレンジジュースを頼み、またうなだれて黙りこくっていた。僕はウィスキーを飲み、ピーナッツをつまみ、煙草を吸い、そして沈黙に耐えきれなくなって言った。
何かあるなら、何が言いたいことがあるなら、話した方がいい。
彼女はそこできっと顔を上げて僕を見据えた。その目は今まで見たことのないきつい光を放っていたのでどきりとした。彼女は手を伸ばしてオレンジジュースのグラスを取り上げてごくごくと飲み干し、グラスを置くと、滔々と話し出した。つまり僕への不満である。
低い音量でピアノの音色が流れるだけの、ほとんど人のいない空間に彼女の声は響き渡った。不満を口にするうち興奮してきたのか、口調の激しくなり声も大きくなっていった。バーテンと、カウンターにいる二人の常連客がこちらをちらりと見るのが分かり、僕は恥ずかしさでいたたまれなくなり、その場から彼女を連れ出すことにした。出ようと言うと彼女は乱暴に椅子を蹴って立ち上がってハンドバッグを掴み、僕を置いてさっさと出て行ってしまった。会計をする間、カウンターの客はわざと知らん顔をし、バーテンは同情の目で僕を見て、励ますようにうなずきかけてくれた。僕は騒がせてしまったことを詫び、急いで外へ出た。彼女を追いかけ、そして往来の真ん中で再び言い合いになったのだった。彼女は泣きながらあなたは冷たい人だと僕に言い放ち、去ってしまった。僕は茫然と立ち尽くす他なかった。
その時、枕元のスマートフォンが振動したような音を立てたのではっと目が覚めた。最悪の目覚めだ。それでも飛び起きて急いでスマートフォンを見てみたが、電話でもメールでも、何かしらの着信があった形跡もなかった。気のせいか、夢のせいだったのだろうか。
僕は煙草に火を点け、窓辺に立ち、外を眺めた。明けない夜がないように、いつか止むはずの雨が、容赦なくバルコニーを濡らしている。
彼女が不満をぶちまけてきたのが、このホテルでなくてよかったと思った。バーなら、飛び出すことができる。この雨の森では、飛び出したところで行くところがない。ホテルの密室で重苦しい目に遭わないですんだのは不幸中の幸いだった。それとも、二人でこの雨音を聴いていれば、また違っていたのだろうか。
雨に閉じ込められているのも飽きてきたので、ホテルのフロントで傘を借りて森を散歩することにした。傘は普通のビニール傘あったが、一面にホテルの名前がでかでかと書かれていて、さすがに少し気恥ずかしかった。そのビニール傘をさして、正面玄関を出る。広い車回しをゆっくり歩いて外へ出た。ひんやりした空気が清々しかった。雨はとめどなく降り続け、森へ入るとさらに木の葉からも滴がしたたり落ちるので、雨音が二重に感じられた。上着を着ても肌寒く、足元も泥だらけになった。ほんの短い散歩ならいいが、あまり遠くまで散策したいとは思わなかった。
もう引き返そうと思った時、少し先にぼんやりと黒っぽい人影があるのに気がついた。他にまったく人気がなかったので少し驚いたが、よく見ると僕と同じビニール袋をさした女性だった。あの人だとすぐ分かった。あの人も独りで時間を持て余しているのだろうか。今度こそ追いかけて声をかけてみようかと思ったが、なぜだか足が動かなかった。彼女の姿が森の奥へと消えてしまうまで見送って、僕は独りで雨の森を歩いてホテルへ戻った。雨の森も悪くないと再び思った。
このリゾートホテルはどこもかしこも禁煙だったが、僕の泊まっている客室とか、館内のあちこちに喫煙所を設けてくれていた。そのひとつがロビーの片隅からから戸外へ出たところにあった。屋根はついていたが、降り続く雨に床部分は濡れて、先客達は冷たい空気の中、身を縮めるようにして煙草に火を点けた。こんな時に煙草を吸っているのは家族連れやカップルの男達ばかりだった。休みを利用して滞在しているはずの男達は、みな一様に疲れ切った生気のない顔つきながら、喫煙の間だけ解放されているような、ほっとした表情を浮かべている。ここまでは妻も子供も、恋人も追っては来ないのだろう。つかの間の休息を彼らは楽しんでいるのだ。
そんなつかの間の休息を終えて、ひとり、またひとりと扉の向こうへ消えていった。と、そのうちのひとりとすれ違いに、若い女性がやって来た。何気なく見て、あの女性だったので思わず目を瞠った。他の男達も、ここへ女性が来るとは思ってもみなかったのだろう、ちらちらとその女性に視線が集まった。当人はそんな周囲の目に気づいているのかいないのか、ごく自然な動作で、何やらきらきらした石の飾りのついたシガーケースをぱちんと開けて、細い煙草を一本抜き取り、ライターで火を点けて一服吸い込み、細く長く、煙を吐き出すというよりは、ろうそくの火に向かって息を吹きかけるように煙を吐いた。その白い細い指によく似合う煙草だと思った。あまりじろじろ見ては失礼だと思ったから、なるべく目をそらすようにしていた。彼女は一本だけを時間をかけてゆっくり吸った。気のせいではなく、彼女のまわりだけ空気が違うように感じられた。見た目は決して派手なタイプではないけれど、ひとりでバーのカウンターに座っていても、きっと周囲の空気には負けず、といって気負ったところもなく、ごく自然に腰を下ろし、煙草をくゆらせながら酒を飲んでいるだろうと想像できた。そんなことを考えているうち、喫煙所にいた人は残らず去って行き、僕と彼女だけが残された。何か声をかけてみようか、でも何て? と思っているところへ、よく降りますね、と耳に快い声がした。えっと顔を上げると、目の前の女性が雨空を見上げていた。そうですね、本当に、と慌てて返事をした。やはり、この声を知っているという強いデジャヴを感じた。もっと何か言ってくれるかと思ったが、彼女はそれ以上は何も言わず、スタンド式の灰皿に吸い殻をそっと捨てて、僕に会釈して立ち去った。ひとりきりになった僕は雨空を見上げた。手に挟んだままの煙草から、煙がゆっくりと昇っていき、雨の靄とひとつに溶け合っていった。
朝食と夕食をつけた宿泊プランにしてあったので、時間がくると、僕はエレベーターに乗って上階にあるレストランへ行った。森の中にふさわしく、山菜をふんだんに使ったイタリアンで、新鮮な食材で料理しているのが自慢のようだった。夜のレストランも混み合っているだろうと覚悟して行ったら、意外にもそこまで人がいなかったのでほっとした。それでも、僕はひとりだったので隅の目立たないテーブルを選んで座り、気乗りしないままメニューを眺め、適当にコース料理を選んでビールも頼んだ。先ほど部屋へ戻った時、もう一度彼女に電話をしてみたのだが、やはり応答がなかった。前菜とビールが届いたので、ちびちびとビールを飲みながらサラダとカナッペを食べる。彼女は酒を飲まないので晩酌というものを好まなかった。食事は食事としてきちんと楽しみ、食べ物を摂取したいという持論だ。そして僕は甘いものがあまり好きではないので、彼女がケーキだのアイスクリームだの夢中になって食べているのが理解できなかった。
メインのカツレツときのこのパスタを肴に、ウィスキーの水割りを頼んで飲みながら食事をした。メインを食べ終え、水割りのお代わりを注文した時、レストランの入り口にあの女性が現れた。やはりひとりだった。彼女は僕の二つ隣のテーブルに、僕には背を向ける格好で座った。きちんと背筋を伸ばして座る姿や、ウェイターにメニューについて質問している様子を、なぜだが懐かしく親しみのあるものに感じた。初めて見かけた時からそうだった。なぜ初対面の相手なのに懐かしさを感じるのか、それより恋人のことをどうしたらよいのか。どちらの答えも出せなかった。僕はデザートは断って席を立ち、部屋へ戻った。
ベッドに腰を下ろし、また恋人の携帯を鳴らしてみる。目を閉じて、呼び出し音に耳を澄ませてみる。少し酔いの回った脳裏に、それは心地よい寂しさをもたらした。そのままで、今あの子は何をしているのだろうかと想像してみる。僕が一度も行ったことのない、彼女が家族と暮らす一戸建ての、彼女の部屋のベッドの上で、僕からの電話だと知りつつ、テーブルに置いたままの携帯を、膝を抱えてじっと見ているかもしれない。もしかしたらバッグの中にしまい込んでいて、この音は聞こえていないのかもしれない。シャワーでも浴びているなら、なおさら電話の音には気がつかないだろう。ひとりではなく女友達の誰かに逢いに行き、僕についての愚痴をこぼし、二人してこの着信に気がついた可能性もある。出ないの? 話だけでも聞いてあげたら? などと女友達が言っているかもしれない。あるいは、妙に大人びて生意気だという彼女の妹と一緒なのだろうか。さっさと電話に出なさいよ、きっぱり別れなさい、とでも助言しているのだろうか。
僕は馬鹿らしくなって電話を切り、仰向けに寝そべった。
そのまま眠ってしまい、また雨音で目が覚めた。雨は依然、降り続いていた。台風の影響ということだったが、ここまで降り続くと、雨に閉じ込められたまま、もう二度と日の光を浴びることはできないのではないかという不安に駆られてくる。雨をただ見ていることしかできない中、考え始めるとよくないことばかり思い浮かべてしまいそうだった。
もしこのままこのホテルに閉じ込められて外界へ帰れなくなったらどうなるだろう。日がな一日、雨を見ながらコーヒーを飲み、煙草を吸い、本を読んで過ごすのだろうか。空腹になったらレストランで食事をして、酒が飲みたくなったらホテルのバーへ行けばいい。それだけ思えば天国のようだが、実際はそんな楽園のような暮らしは望めないだろう。森に閉じ込められ、外界との連絡が、食料の運搬が途絶えてしまったらどうなるだろう。この森に、山菜や茸なんてものは採れるのだろうか。彼女に電話をして、留守番電話になったらSOS のメッセージを吹き込むのもいいかもしれない。森に閉じ込められて困っている、助けに来てくれないか。
そこまで考えて、なんだか馬鹿ばかしくなってきて、僕は服を脱いでシャワーを浴びにいった。
昨日と同じ朝食会場のレストランへ行った。今朝は中央ではなく、壁際の端のテーブルを確保できたので少し落ち着いて朝食をとることができた。昨日と同じようにオムレツを作ってもらい、コーヒーと適当なサラダをとる。周りは家族連れとカップルで賑やかだったが、慣れてしまったのか昨日ほどうるさく感じなかった。オムレツを食べながら、あの女性がどこかにいないかとそっと周囲を見回してみたが、姿は見つからなかった。もしかしてもうチェックアウトしてしまったのだろうか、と思った。
朝食を終えて、いったん部屋へ戻ろうとエレベーターホールで待つ間、ホテルの館内図があることに気づき、何気なく見てホテルの中にギャラリーと図書室があることが分かった。暇潰しにいいかもしれない。僕はやって来たエレベーターでギャラリーと図書室のある二階へ向かった。
深い絨毯の敷かれた廊下は薄暗く、人の気配もなくて少し不気味だった。ギャラリーは名前の知らない、地元の写真家の個展で、無料で観覧できるがオープンは十二時からと書いてあった。僕はそのまま隣の図書室と書かれた扉を押して中へ入った。そこは小学校とか中学校にあるような、文字通りの図書室だった。部屋は広く、壁に古い木材の書架が天井までそびえ、本がぎっしりと埋まっている。古本特有のかび臭い空気を感じた。書架の合間に窓が挟まれ、その下にはひとり用ソファがあった。部屋の真ん中にもアンティークの大きなテーブルを椅子がぐるりと囲むようにおいてあり、テーブルの真ん中には大きな花器に季節の花が飾られてあった。ゆっくりと中を見て回ろうとした時、窓の下のソファのひとつに、あの女性が座って本を読んでいるのが見えた。何か分厚い本を、眺めているのではなく本当に読んでいるのだと、彼女の表情から窺えた。背後の窓には雨滴が伝っている。たとえでなく一枚の絵画のような雰囲気だった。
だから声をかけるのをためらった。神聖なものを侵すような気がした。僕は書架を巡ってフランスの昔の小説を取ってあの女性の目にふれないような場所のソファに座って読み始めた。座って落ち着いて小説を読むなんてずいぶん久しぶりだった。
しばらく読み進めていたが、この数日きちんと睡眠をとっていなかったせいもあり、瞼が重くなってきた。少しうとうとしてしまったらしい。本を手から取り落としてしまい驚いて目が覚めた。目の前にすらりとした足が見えて、目を上げるとあの女性だった。屈んで本を取り、僕に渡してくれる。僕はどぎまぎしてお礼を言った。女性は優しく微笑み、立ち去ろうとした。慌てて声をかけた。おひとりなんですか? 彼女は怪訝そうに振り返り、ええ、とうなずいた。ええ、見ての通りです。
もしよかったらお茶でも飲みませんか、ロビーで、と言ってみた。相手は少しためらって、でもうなずいて了承してくれた。
ロビーは昨日ほど混み合ってはいないまでもそこここに人がいて談笑していた。しんと静まり返っているより気楽になれてよかった。子供が何人か、噴水のところに集まり水に手をつけて遊んでいる。僕はフリードリンクで相手に何を飲みたいか訊き、コーヒーをふたつ持って、彼女と向かい合って腰を下ろした。しかし、いざ向かい合って座っても、何を話したらいいか分からなかった。それで芸もなく、いつまでも雨が止みませんね、などと言ってしまった。相手はうなずき、でも雨の森もいいんですよ、と言った。鈴を転がすような、耳に心地よい声だった。この声を知っている、と思った。いったいこのデジャヴは何なのだろう。
ここへは初めて来たが、図書室のあるホテルなんて初めてで驚いたと僕は言ってみた。相手はうなずき、ここに泊まっている人で、あそこの存在を知っているのはあまりいません、だから居心地よくて好きなんです、と言った。
このホテルは以前は個人の所有で、地主が亡くなってホテルの会社が買い取った時、地主の遺族が希望したそうですよ。
希望した? 図書室を作ることを?
僕が驚いてそう訊くと、あそこの本はすべて地主の持ち物で、遺族は処分するのも面倒だし、家を壊してホテルに建て替えるならこの遺産を生かしてくれないかと持ちかけたそうです。それでホテルの社長が受け入れて、あの図書室が出来たんです、と教えてくれた。
どうしてそんなことを知っているんですか? 聞いたの、フロントの人に。
当然といえば当然な返事だった。その地主が実はこの女性の祖父とか親戚だったのかと思ったのだった。相手はそれを聞いて笑い声を立てた。もちろん、知り合ったばかりの他人に見せるような慎ましい笑い方だったが、あの鈴を転がしたような笑い声はやはり耳に心地よいと思った。
去年も来て、あの図書室を気に入って、ずっとあそこで読書していたんです。一緒に来た人はテニスコートで知り合いを作ってテニスしてました。私はスポーツより本を読んでいる方が好きなんです。彼女は続けて言い、それから本の話になった。彼女は小説は好きだが、次から次へと新しい本を読むより、気に入った本を何度でも繰り返し読むタイプなのだと言った。好きな小説家を訊いてみると、確かに、外国の、最近はやっている訳ではない作家の名前が出てきた。僕も大学時代はフランスやロシアの小説を好んで読んだりしていた。そういう話を、彼女は興味深そうな表情で聞いてくれた。
気がつくと、僕はだいぶ気持ちが落ち着いていた。
数日前の恋人との喧嘩から、当然だがいろいろと考えすぎて、せっかくの休暇なのにまるで心は休めていなかったのだ。
話が途切れ、彼女が時間を見るために携帯を取り出してもうすぐ一時ですね、と言った時も、そんなに時間が経っていたことに驚き、嬉しくなった。
女性が、お腹は空いていないか、このホテルのレストランもいいが、少し歩いたところにいいカフェがあるのでよかったらそこで昼食を一緒にどうですか、と誘ってくれて、喜んで行くことにした。天気は相変わらずだったが、感じのいい女性と楽しい会話をして、僕の心は少し明るくなっていた。
フロントで傘を借りて、二人で建物の正面玄関を出て、車回しをぐるりと廻って敷地の外へ出た。森の中ではあるが、道は綺麗に舗装されてサイクリングロードもあり、木立の合間からテニスコートも見えて、まさに人工的な森という感じだ。女性は並んで歩いてみると小柄だと分かった。初めて見かけた時に背の高い人と思ったのは、姿勢がよく、背筋がぴんと伸びて颯爽と歩いていくからだ。歩きながらまた本の話になり、好きな音楽の話になった。話題がつきないまま彼女の言った店についた。丸太でできたコテージ風の造りで、昼時で店内は満席だったが、森に向かって張り出したテラス席に空きがあった。雨ではあるが屋根がついているので濡れる心配もなく、何よりテラスでは喫煙できると教えてくれた。
その店の料理は素朴なもので、僕は日替わりランチからチキンバスケットを頼み、彼女はサンドイッチを注文した。食後にコーヒーを飲みながら、僕達は煙草を吸った。彼女は細長い指に煙草を挟み、上品に、だがおいしそうに吸っていた。それを誉めると恥ずかしそうに、吸わなくても本当は平気だから相手に合わせることができるけれど、食後の一服がどうしてもほしくなるのだと言った。
少し親しくなれた気がしたので、僕は実は恋人と喧嘩をしてひとりでここへ来ているのだと言ってみた。彼女はそれを聞いて礼儀正しく笑って見せた。大げさに驚いたりせず、かといって適当に聞き流しているのではなく、そうだろうなと思っていたという表情だった。彼女は新しい煙草に火を点け、私もなの、と言った。私も彼と喧嘩をして、それで独りでここに来たんです。
そうだろうとは思っていた。思っていたが、想像していた通りの状況である偶然に笑い合った。なぜ、どんな理由で喧嘩したのかはお互い聞かなかった。それでは踏み込みすぎると思ったのだが、彼女も同じ気持ちでいることが分かった。
そこへ、テラスに店員に案内された老夫婦がやって来て、僕達の隣のテーブルについた。夫の方が、店員に灰皿を下げてくれと言っているのが聞こえた。彼女はそれを聞いて煙草を灰皿に押し潰した。煙草を吸わないらしい老夫婦への配慮だろうと思い、僕も同じようにした。屋外のテラスだし、吸っても構わないのだろうが、隣人に配慮する彼女の気遣いに好感がもてた。
コーヒーも飲み終えたところだったので、僕達は店を出た。はじめ、彼女は自分がさそったのだから自分が払うと主張したが、僕も引き下がらず、自分の飲食代は自分で支払った。また森の中を歩いてホテルへ戻り、ロビーに入ったところで、自然と夕食も一緒にとろうと話がまとまった。七時にレストランで落ち合うことにして、彼女はそれじゃあ、と行ってしまった。図書室で本の続きを読むのだと言って。引き止めたいと思ったが、邪魔をしたくない気持ちが買って、僕は独りで部屋へ戻った。夕食までの時間が果てしなく遠く感じた。ベッドに横たわり、あの女性の表情や仕草のひとつひとつを思い出しながら目をつむった。そのまま眠ってしまった。
目が覚めたら、二時間ほど経っていた。時間を見ようと携帯を見た時、恋人の方の彼女から電話の着信があったので驚いた。留守電にも何の伝言も入っていない。しばらく鳴らして、僕が応答しなかったから諦めたのだろう。かけてみようかと少し迷った。彼女が歩み寄って仲直りしようとしているのか、あるいは決定的な別れの言葉をぶつけようとしているのか。たった一度の喧嘩でそこまでこじれていいのだろうか。
そう考えて電話をするのはやめておいた。お互い冷静になってから改めて逢って話し合えばいいじゃないかと思い直したのだ。
夕食は、昨夜とは違う、和食のレストランへ行くことにした。このホテルには、和洋中、創作料理といった多彩なレストランがあったのだ。彼女は箸の使い方が上手で、出された料理を気持ちよく綺麗に平らげた。僕がそれを誉めると、また恥ずかしそうに笑った。彼女が冷酒を頼んだので、僕も同じものを頼むと、少し訝しげに見られた。僕はビールとかウィスキーが好きで、ワインや日本酒はどちらかというとあまり飲まないのだが、なぜだかそれを見透かされているような気がした。初対面の相手なのになぜなのかと思ったが、たぶん僕の気のせいだろう。
食事をしながら、さり気なく、彼女の住んでいるところや仕事の話を聞き出そうとしたが、そういう話になると彼女は口が重たくなり、うまくはぐらかされてしまった。確かにプライベートに踏み込むのは早すぎたかなと思い、また本や音楽や、映画の話をした。
食事が終わる頃、この人と離れがたいという気持ちが強くなっていることに気がついた。もう少しだけ話したかった。バーで少し飲みませんかと誘ってみると、彼女は少し考えてから応じてくれた。初対面の相手と親しくなりすぎることに、警戒しているのかもしれない。なるべく遅くならないうちに引き上げよう、と自分に言い聞かせた。
ホテルのバーは地下にあって、英国のパブを意識したらしい落ち着いた色調のインテリアでまとまっていて雰囲気はよかったが、こういうリゾートホテルにありがちなのか、オーソドックスなカクテルはできるが、ワインや洋酒はあまり種類がなかった。カウンター席に並んで座り、彼女はグラスワインを頼み、僕は水割りにした。
バーに入ってから、彼女はずっと黙りこくっていた。僕は今まで向かい合っていた人が横に座ったことで、これまで感じてきた懐かしさという感情がまた強まるのを感じた。こうして並んでいる空気がとても自然なのだ。妙に気を張らなくてもいいと思える、自然体でいられる空気だ。
そんなことを考えていると、隣では彼女がワイングラスを飲み干し、唐突に口を開いた。
私ね、人間観察が趣味で、どんな人か当てることができるんですよ。
いきなり何を言い出すのかと思ったが、彼女の目が少しとろんとしていたので、ああ酔いが回ってきたのだなと思った。
僕のことも分かる? もちろん。例えば?
彼女は少し考え、僕の方をぼんやりと見つめた。私の言うことが当たっていたら、ワインを一杯ずつ飲むってどうですか?
それは罰ゲームみたいなもの? そうですね、無理にとは言いませんけど・・・。
いいですよ、と僕はうなずいた。彼女はバーテンダーを呼んで自分が飲んでいたグラスワインをもう一杯注文し、それが届くと僕達の間にすっとおいた。
彼女は僕の年齢から始めた。それが一度でずばりと言い当てられたのでものすごく驚いた。約束した通りワインを飲んだ。彼女は楽しそうにそれを見た。
続けて、彼女は落ち着いた口調で僕の住んでいる私鉄沿線の駅名を言い当てた。その通りだった。驚きと、慣れないワインが急激に回ってきて、めまいがした。彼女はまたバーテンダーを呼び、同じものを持って来させた。もちろん、僕はそれも飲み干した。
それから、彼女は僕が学生時代は海外の文学に傾倒していたけれど、今はまったく畑違いの仕事に就いて、日々忙殺されていることを当ててのけた。学生時代に海外の小説に熱中していたことは昼間に話していたことだが、彼女は僕の正確な職種まで当てたのだ。僕は口もきけないほど驚いた。彼女は、ふと微笑み、学生時代のことは先ほど聞いたから、と僕が思ったことと同じことを言い、今のはワインひと口だけでいいことにしてくれた。
それからも、彼女は次々と僕のことを言い当てた。玉ねぎとトマトが嫌いなこと、鶏の唐揚げが好きで、ビールとウィスキーが好きなこと、あなたが独りでここへ来た理由は、直前になって恋人の女の子が原因不明の怒りを爆発させたから。
そこまで言われて気味が悪くなってきた。彼女も、言葉を失っている僕を見て、はっとした顔になった。彼女の酔いがさめて、言い過ぎたと後悔しているような。
ごめんなさい、と彼女は言った。ごめんなさい、不躾なことばかり言って。私、お酒はあまり飲めないのに、日本酒とワインを飲んで酔っ払ったみたい。疲れたし、今日はもう休みます。
ひと息にそこまで言うと、彼女は急いでスツールから降りた。
ちょっと待って。
僕も慌ててスツールから降りた。しかし足がうまく床に着地せず、尻をスツールから離した途端、ひどいめまいに襲われ、目の前が真っ暗になったのが分かった。僕は床に倒れた。
ドアが静かに閉じられる気配で目が覚めた。頭がずきずきして、目を半分も開けられなかったが、枕元のテーブルランプだけが灯っているうす暗い部屋の中で、僕以外の誰もいないことだけはなぜか理解できた。またひとりになったのか、と思い再び眠りに落ちた。
翌朝、嫌な夢を見た。目が覚めた時は、何か苦々しいものが口の中に残っていて、まだ頭も痛み、着ていたシャツは汗でぐっしょり濡れていて不快だった。ゆっくり起き上がり、間違いなく僕が泊まっている部屋で、僕ひとりだけが残されていることを理解した。雨がようやく止み、朝の陽射しが差し込んでいた。
バスルームで用を足し、顔を水で洗い、コップに水を満たして立て続けに三杯ほど飲み干した。部屋に戻り、改めて見回してみると荒らされた様子もなく、僕が過ごしていた状態のままで変わっていなかった。寝ていたベッドのシーツがぐちゃぐちゃに丸まっていただけだ。ふと、このホテルに着いてから今までのことはすべて夢だったのだろうかと思った。あの女性は実は存在していなくて、彼女と諍いをして独りでここへ来た僕は現実を忘れたくて深酒をし、一昼夜眠りこけてあの女性と過ごす夢を見ていたのだろうか。
そんなわけがなかった。
ベッドの下に一枚の紙が落ちているのに気がついた。拾ってみるとこのホテルの名前が入った便せんで、短い手紙が書いてあった。
お酒を飲み過ぎてはしゃいでしまい、失礼なことをしてしまってごめんなさい、という率直な謝罪と、もし縁があればまたテレーゼで逢えると思います、と書かれていた。
テレーゼ? 何のことかさっぱり分からなかった。何かの名前だろうと見当はついたが、このホテルの名前ではないし、ここにそんな名前のバーやレストランがあった記憶はない。それでも、僕はこの謎めいた名前をどこかで聞いたことがあるような気がしていた。彼女を初めて見た時と同じような既視感だった。
思い出そうとしてまた頭痛がしてきたので、僕は考えるのをやめて紙をサイドテーブルに置き、シャツを脱いでシャワーを浴びた。
とっくに朝食は終わっている時間だったが、食欲もなく、僕は着替えてロビーへ降りた。チェックアウトして帰ろうとする客と、ようやく天気が回復したことで、屋外でのレジャーを楽しめると浮かれている客で賑わっていた。これで少しは静かになってくれればいいなと思いつつフロントの方を見る。あの女性が、チェックアウトする客の列にいないものかと探してみるが、彼女の姿は見つからなかった。がっかりして手近のソファに座った。
彼女はどこへ行ったのだろう。部屋にいるか、また森を散歩しているか、図書室で何か本を読んでいるのだろうか。探しに行ってみようかと思いつつ、動けないでいると、声をかけられた。はっと顔を上げると、ジーンズにポロシャツを着た男がかぶっていたキャップを取って丁寧に挨拶をしてきた。最初、誰だか分からなかったが、声で昨夜のバーにいたバーテンだと気がついた。服装や場所によってずいぶん印象が変わるものだ。うす暗いバーの、イギリス風の家具や酒瓶に囲まれて、黒ずくめに蝶ネクタイという格好でいると、訳ありの物静かな紳士という風に見えるが、明るい自然光の注ぐロビーの中でくだけた格好でいると、気さくな中年男に見える。実際そうなのだろう。バーテンはにこやかに気分はどうかと訊いてきた。自分の醜態を思い返すとあまり触れてほしくないところだったが、僕は半分やけになって、ひどい二日酔いだと正直に答えた。バーテンは笑い、連れの女性はどうしているかと訊いてきた。僕は首を振り、あの人は連れではなく、このホテルで初めて知り合った相手なのだと正直に言ってしまった。バーテンは笑い、にこやかな口調で、三時から五時まであのバーはカフェタイムで、コーヒーや紅茶や簡単なケーキなどを出すのだが、よかったら来て下さい、コーヒーでもご馳走しますから、と嫌味ではなく明るく笑って言ってくれた。僕はふと思いついて、もしかしてバーの名前はテレーゼかと訊いてみた。バーテンはきょとんとした顔つきになり、いいえ、このホテルと同じ名前ですよと教えてくれた。僕は露骨にがっかりした顔をしたのだろう。どうかしましたか? いや、何でもない・・・何でもなくはないが、他に言いようがなく、苦笑いでその場を誤魔化した。
バーテンの男は少しの間、自分のポロシャツの裾を指でつまんでいたが、お二人は知り合って間もないことは見ていて分かったが、このホテルで初めて逢ったというのは意外でした、と言った。何というか、一緒にいることがとても自然に見えましたよ。
僕はまた苦笑いした。接客業の人間なら、とりあえず連れの男女に対してそんな風に言うだろうと思ったからだ。バーテンは、そりゃ、商売ですからお世辞を口にする時もありますけどね、でも昨夜のお二人はとても親密に見えましたよ、と念を押すように言った。
ご縁てあると思うんです、とバーテンは続けて、自分はこのホテルに来る前は、別の場所でバーをやっていましたが、偶然か必然か、出逢いって不思議なものですよ、たくさん見てきましたからね。
そのまま、バーテンの温厚な笑顔に誘われるままに昨夜のバーへ行き、同じカウンターの席に座って、バーテンにコーヒーを淹れてもらった。湯気の立つカップを受け取り、隣の席に目をやってみる。昨夜は確かにいた人がいない。何だか妙に寂しい気持ちになった。
コーヒーを飲み終えると、僕は外の空気を吸いたくなり、正面玄関から外へ出て森に入った。雨に流された清浄な空気の中、気味が悪くなるほどの健康的な景色だった。木漏れ日が木々の間から差し込み、鳥の鳴き声以外、何の物音もしない。人の気配もない。あの時のように、道の先に彼女の影が見えないかと目を凝らしてみたが何も見えなかった。
僕は予定通り帰京し、仕事に戻った。職場ではホテルの売店で購入した菓子折を持参し、三時のおやつの時間に他の社員に配って歩いた。お菓子はアーモンドタルトで、全体に白い粉砂糖がまぶしてあり、女性社員は大げさに喜んでくれて、どこへ行っていたのかとか、何をして過ごしていたのかと質問してきた。フロアにいる全員に配り終えてもまだタルトが余ったので自分のデスクでひとつだけ食べてみた。ナッツ特有の香ばしさが口中に広がった。美味しいと思ったが、砂糖の甘さで頭が痛くなりそうだった。
また以前と同じ生活が始まったわけだ。ただひとつ違うのはもう彼女に連絡をせず逢うこともなくなったことだ。ホテルで出逢ったあの女性のことは毎日思い出しているが、名前も電話番号も分からない以上、どうしようもない。それでも心の片隅であの謎めいたメッセージに、一縷の望みを託してもいた。
仕事に戻って三日めの晩、あのバーに行った。本当は帰ってすぐにでも顔を出して、騒がせてしまったことを謝りたかったのだが、休みの間に仕事が溜まり残業続きで行けないでいたのだった。
僕が入ってみると、まだ客は誰もおらず、いつもいる初老の男性も来ていなかった。バーテンダーがカウンターの中でグラスを拭いていた。僕を見ると、ああ、と明るく声をかけてくれた。このバーテンが常連客に見せてくれる、いつもの笑顔だ。僕は少しほっとしてカウンターの席に座り、先週みっともないところを見せてしまったことを謝り、お土産のアーモンドタルトの箱を差し出した。バーテンは笑っていいんですよと言ってくれて、土産を恐縮しながら受け取ってくれた。僕は水割りを注文し、煙草に火をつけた。彼は遠慮がちに、彼女はどうしたかと訊いてきたので、正直に、あれ以来逢っていないと話した。バーテンは少し寂しそうな顔になった。
いや、電話はしたんだけれど、タイミングが合わなくて、話せなくてね。
そうですか。でもただの喧嘩でしょう? さあ・・・潮時だったのかもしれないよ。
バーテンは水割りを出してくれて、何か思案顔で僕の手元のほうに視線を投げていたが、そのうちにしみじみと話し出した。つい先日も、ちょっと険悪な雰囲気になったカップルがいたんですよね。軽い喧嘩みたいだったけど、あの人達は大丈夫だったかな。仲直りしているといいんですけどね・・・
でもそれはあなたや店のせいじゃないですよ。僕は水割りを飲みながら言った。
店内はしんとしていた。そういえばいつもの音楽が流れていない。僕が指摘すると、彼はああと思い出したようにレジのところへ行って、ステレオを調節した。すぐ低めの音量で音楽が流れた。途端に、僕の頭の中で何かが音を立てた。気のせいだろうか、旅行中に感じた強いデジャヴだ。
彼は僕の前に戻ってくると、この店は常連さんで成り立っているし、今の客層やアットホームな雰囲気はすごく気に入っていて有り難いと思っているが、新規のお客さんが何だか居心地悪そうにしているように見えて、それが気になっていたのだと打ち明けた。確かに、僕の彼女も似たようなことを言っていた。でも、ここのバーテンが、常連や新規など分け隔てなく接客していることは僕がよく知っている。おそらく、どんなに店側が気を遣っても、内輪だけの閉鎖的な雰囲気ととられてしまうのは仕方がないのだろう。
煙草を一本くわえて火をつけようとしたがライターが切れていた。何度かカチカチやってみたがだめだった。バーテンがそれを見てまたレジのところへ行き、カゴに入れてあったマッチを手渡してくれた。礼を言って受け取った。
珍しい、マッチなんてまだあるんですね、と言いながら不器用な手つきで火をつける。焚き火に似た香ばしい匂いと一緒に煙を吸い込み、手元のマッチをしみじみと眺める。
マッチ箱の表面に凝った飾り文字で、英字で何か書いてあった。そういえば、この店に通い始めて2年ほど経つのに、正確な店名を知らなかったことに気がついた。文字をよく見てみると、テラなんとかと書いてあるのが分かった。
これ、なんて読むんですか? テ・ラ?
あ、知りませんでした? テレーゼって言うんですよ。ここのオーナーが昔観た映画のヒロインの名前だそうですよ。
僕はマッチ箱に書かれた飾り文字に夢中になって見入った。黒地に白抜きで書いてある英字は、確かにテレーゼと読める。聞いたことのある単語だ。ホテルの便せんに、簡潔にテレーゼで逢えるかもしれないと、几帳面な文字で書かれていた。あの手紙だ。 テレーゼ・・・ 僕がつぶやくと、バーテンは、知ってますか、その映画? 私には古すぎて分からなかったんですよ、と訊いてきた。
僕は夢うつつのような気持ちのまま、映画には詳しくないからと答えていた。あの人の手紙にあったテレーゼは間違いなく、ここだ。ここにいればあの人に逢えるということか。あの人はここの常連だったのだろうか。
そこでぎぃっと扉の開く音が響いた。はっとして振り向くと、男がひとり入って来た。あの森のリゾートホテルを教えてくれたカップルの男だった。バーテンににこやかに挨拶し、僕に気がつくと、ああ、どうも、と言い、ひとつおいた隣のスツールに座った。
僕がまだマッチに見入っていると、隣の隣に座った男は、バーテンにビールを注文して、この間はみっともないところを見せてしまって悪かったね、と小声で言った。ついさっき、僕が口にしたことと似たような台詞だった。はっとして横を向くと、バーテンも僕に向けたのと同じようににこやかに首を振り、いいんですよ気にしないでくださいと言っている。
僕の視線に気がついて、男は少し気を悪くしたように眉をひそめ、この間、ここでちょっと喧嘩しちゃいましてね、と教えてくれた。ああ、そうなんですか、と間抜けな返事をしてしまった。
バーテンは男の注文したビールをおくと、わずかにあるテーブル席を拭きにカウンターから出て行った。それを計ったかのように、一組のカップルが入って来てテーブル席に座った。僕はマッチを眺めながらウィスキーをちびちび飲み、ひとつおいた隣の男はビールを飲み干してバーテンにワインを注文し、僕と彼は同時に煙草をくわえた。僕はマッチで火をつけ、男はジャケットやズボンのポケットをあちこち探していた。僕はどうぞ、とバーのマッチを差し出してやった。男は苦笑いでどうも、と言い、マッチを擦って火を点けた。煙を吐き出しながら、そうだった、ライターは手放したんだったな、と独り言のようにつぶやいた。
禁煙でもするつもりだったんですか? いや、そういう訳じゃないんですよ、彼女からプレゼントされたライターを使っていたんですけどね、ちょっと、使うのがまずくなったもんでね。
ああ、そうなんですか。彼女が煙草に反対していたわけじゃないんですけどね、あいつもたまに吸う奴だったし。でもまあ、何て言うか。
僕は黙ってウィスキーを飲み、煙草を吸って、男が続きを言うのを待ってみた。何となく、何か打ち明けたがっているように見えたのだ。僕も聞いてみたいと思っていた。なぜだろう。
ねえ、運命って信じますか? え、運命、ですか? そう、運命。
男は煙草を手に、ぼんやりと宙を見つめながら言った。つまり、今まで何も不満のない相手と一緒にいたのに、まるで違う子と出逢ってしまうことなんですよ。俺は今まで運命を感じたことなんてなかった、ただ、今の彼女とこのままいけばずっと一緒なのかな、と漠然と思っていたのに、それが全部ひっくり返っちゃったんです。
ええまあ、分かりますよ。分かってくれるか? でも、そうなると彼女はどうなるんですか? 今まで不満なく付き合っていた彼女は。
もちろん彼女を傷つけるのは分かっていたけれど、だからこそ正直に話そうと思ったんです、他に好きな人ができたってこと。話そうと思っていた矢先に、ライターを手放したことがバレて喧嘩になっちゃって。その、彼女が、女からプレゼントされたライターを使っていることを嫌がったから、知り合いにあげちゃったんですけどね、それがバレて。
男がいったいどの彼女の話をしているのかよく分からなくなり混乱し始めたところでバーテンが戻ってきて、男にワインのお代わりはどうかと勧めてきた。男がそれを断って煙草を消し、ごそごそとジャケットのポケットを探ってスマートフォンを取り出し、何やら操作しながらちょっと失礼といって店から出て行った。
バーテンは苦笑しながら男の飲み終えたグラスを下げ、あの人の相手の女性も気の毒でしたよ、一緒に旅行する約束していたのに、駄目になっちゃったんですからね。
それを聞いて、僕は煙草を飲みかけのウィスキーのグラスの中に落としてしまった。バーテンが慌てて手を伸ばしてグラスを引っ込めてくれた。僕は急いで謝りながら、頭の中を整理しようとした。
男がスマートフォンを片手に戻って来て、バーテンを呼んで会計を頼んだ。彼女からの電話で呼び出されたと、脳天気に嬉しそうな顔をしている。だがワイン一杯しか飲んでいないのに、ほんのりと顔を赤らめているさまはどこか憎めないものを感じた。きっと彼女も男のこの顔を見て何もかも諦めたのだろう。
思い出した。あのホテルで逢ったあの女性に強く感じたデジャヴは、間違っていなかった。彼女は今の男の連れの女性だった。いつも逢うのはこのバーの横並びのカウンターで、男を挟んでいたうえに直接口をきいたことがないから、すぐに分からなかったのだ。でもあの人は僕のことをちゃんと知っていたのだ。どうして僕は気がつかなかったのだろう。
バーテンが新しいグラスにウィスキーの水割りを作ってくれて、僕はそれを飲み干して新しい煙草に火を点けた。いきなり酒が回ってきて頭がくらくらした。もうひとつ思い出した。僕と恋人が喧嘩したまさにあの夜、あの人もここにいて、このカウンターでバーテンと何事か話し込んでいた。だから僕が喧嘩したことも知っていたのだ。あの人はバーテン相手に、理不尽に男に振られたことについて愚痴でもこぼしていたのだろうか。
煙草を灰皿にのせて、グラスをとった。中身をすでに飲み干していたことに気がついてまたグラスを置いた。後ろでは、先ほど入って来たカップルが小声で会話している。女が何かくすくす笑っているのが聞こえた。
バーテンを呼んで、水割りのお代わりを頼んだ。今夜、あの人がここに現れる確証はないが、もう少しだけ待ってみようと思った。あのメッセージを信じるなら、ここで会えるだろうとあの人が言ったのだから。
ぎぃっと音が鳴ってドアが開いた。どきりとしてそちらを見たが、入って来たのはあのいつもの初老の男性だった。落胆と安堵が入り交じりる。初老の客は、いつものカウンターの隅に座った。バーテンと親しそうに言葉を交わし、何か注文している。
夜が更けるにつれ、客が一人、またひとり去って行った。バーテンはカウンターを出て、ホールの掃除を始めている。まだ残っている僕と、初老の男に遠慮してさり気なくではなるが、閉店が近いことを示している。もう今夜は諦めて引き上げようと思いながら、なかなか腰を上げられずにいた。あと少しだけ。水割りの最後のひと口を飲み終えるまでと主ながら、煙草の煙がゆるやかに天井へ昇っていくのを見守る。
とうとう、カウンターの初老の男性が煙草を消して立ち上がった。上着を取りながら、待ち合わせですか、と僕に訊いてくる。ええまあ、と曖昧に答えると、偶然ですね、私もですよ、と笑みを浮かべて言った。え? と聞き返すと、相手は笑みを浮かべたまま、ではお先に、と言って店から出て行った。
しばし茫然として初老の男性の背中を見送っていると、後ろからバーテンが遠慮がちに、申し訳ありませんが、と話しかけてきた。そうだ、僕もそろそろ引き上げなければと思い、立ち上がりかけた時、不意にカウンターの、灰皿のそばに置きっぱなしにしていたスマートフォンが振動し始め、音楽も止まったバーの内部にかすかな波動となって響き渡った。
週末 麻生慈温 @Jion6776
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