アジ・ダハーカの箱
鉄兜被りの助
特別編:ライク・ア・ドッグ・デイ・アフタヌーン
「狼が来たぞォ!」
「うるせえ!死ね!」
私は振り向き、走りながら銃を撃つ。
「ハハ!ハハハハァー!」
当然、奴は躱す。狼は私を嘲笑いながら、残像が見えるほどの速度で銃弾を避けた!くそ!無駄だとわかっていても、あまりにもムカつき過ぎたので撃ってしまった。完全に無駄な弾だ。奴は銃弾を避けるほどの速度で動くことができるのに、私と常に一定の距離を置いて追いかけて来ている。こちらが走る速度を上げると向こうも追いつかない程度に速度を上げてくるし、ペースを落とすと追いつこうとするふりをしながら距離を詰めてくる。こんな調子で昼下がりの森の中をずっと走り続けている。舗装されていない獣道だ。土のぬかるみや転がっている石、体に引っかかる草木が容赦なく私の体力を奪っていく。それでも私は走る。止まったら殺されるからだ。心臓は張り裂けそうだし、気が狂いそうだ。
「待ってくださいよ!狼は山羊を食べてしまうんですよォ!ハハ!ハハハハァー!」
無視する。あいつは、あのクソ狼は意味不明な言葉を叫び続けている。人間の言葉を発するが、支離滅裂で会話にもならない。
"狼属性ドラゴンウルフ"
追ってくるクソ狼のことだ。全身毛むくじゃらで、その顔は狼と竜を足して割ったように歪で醜い。裂けた口には尖って汚らしい牙が並び、その爪はカミソリの刃に似て鋭利。汚らしいヨダレを垂らし、卑しい笑みを浮かべている。奴には確実に邪悪な知性がある。もちろん、狼属性とはいうものの人間の天敵であるドラゴンの種族なので、人間を襲い、殺して食べ、命と尊厳を弄ぶ。私の仲間も奴に殺された。ペドロとカルロス……私たちはチームだった。しかし、特殊部隊上がりの歴戦の傭兵二人は、瞬きするうちにその身を八つ裂きにされた。狼属性ドラゴンウルフは私たちの戦術を嘲笑うと、ペドロの心臓を丸呑みし、カルロスの眼球をキャンディのように長い舌で転がしたのだ。私は、単純に奴との距離があった。それで生き残って走り出し、追いかけられているというわけだが、くそったれが!その気ならあいつはいつでも私を殺せる!遊んでやがるんだ。なぜ狼属性ドラゴンウルフに狙われるなんて最悪なことになったのか、私は何度目になるかわからない後悔に想いを馳せた。
"人語を喋るドラゴンは生け捕りにすると高く売れる。情報が引き出せるかもしれないからだ"
"村の外れの森に狼属性のドラゴンが出る"
"二ヶ月に一度、若者を生け贄として捧げているが、もう限界だ。奴を始末してくれ"
"報酬は弾む。なけなしの家畜と作物、飲み水だ。使えるかは不明だが現金もペソで渡す"
"狼の住処は突き止めてある。本領を発揮する夜は避けて、昼に突撃するぞ"
"大丈夫だ。俺たちの作戦に隙は無い"
こんな調子で、さびれた商店街を改装した村の住人たちからの依頼を受けたのが運の尽きってやつだ。正直なところ、鶏だとかの家畜が手に入るのは大きな魅力だった。まあ、こんなことになるんだったら、後先考えずに村人たちから略奪したほうが良かったんだが、優等生のカルロスはきっとそれを許さなかっただろう。いろいろな思考が堂々巡りを繰り返しながらも私は走り続ける。あのしつこい狼属性ドラゴンウルフは、いつまでも、どこまでも、私を追いかけて来る。なんとか逃げ果せたとして……ああ、ペドロ、カルロス。あんた達を失った私はこれからどうして生きていけば良いのだろう?神よ、神よ、ああ、なぜ。神よ、なぜ答えてくれないのですか?
ペドロ、カルロス、そして私。私たち三人の傭兵は、各地を渡り歩いてドラゴンや人間の野盗を狩ったりして生計を立てていた。そう、私たちは何匹もドラゴンを殺している。実績がある。蚊属性モスキートドラゴン、烏属性ドラゴンレイヴン、蜚属性ドラゴンローチ……などなど。中でも影属性シャドウドラゴンは強敵だった。三人で機転を利かせてなんとか撃破した。当たり前だが、私だって最初から傭兵だったわけじゃない。2003年に世界がドラゴンに覆い尽くされたとき、まだガキだった私はパパとママとでアイスクリームを買っていたんだ。一緒に列に並んでいて、振り向いたらパパとママの首が音もなく刎ねられていた。首を失い、立ったまま死んだ両親。滴る血がマフラーのように二人の衣服を赤黒く染めていたのをよく憶えている。パパが持っていた赤い風船は、いつのまにかそこにいた不気味な存在の手に渡っていた。あいつ……白塗りの道化のような、ピエロの姿のあの竜……あいつのことは絶対に許さない……ドラゴン独特の強烈な存在感で、まるでテレパシーのように奴が何なのかを理解した。笑属性ドラゴンクラウン!「ハァイ、こどもたちィ」と醜悪に笑った顔を!いつか、絶対に!ズタズタにしてやる!ドラゴンどもを皆殺しだ!幼い私はそのときは小便を漏らして逃げて……その後は地獄だった。世界が滅び行く様を見た。それでもなんとか生き延びて、ペドロとカルロスという傭兵二人組に(この二人はカップルでもあるんだが)いろいろあって助けてもらって、訓練を受けた。それから三人でこの無間地獄みたいな滅びきった世界をなんとかサバイバルしていたのに……!また!こうやって!あのときみたいに!
「ハハハハハァー!待ってくれよォ!置いてかないでよォォー!」
「うるせえっつってんだろ!殺すぞ!」
振り向き、中指を立てる。私は無様に逃げている。私は頬を伝う大粒の涙を拭った。走っているうちに木の枝に引っ掛けたのか、あちこち怪我をしている。それでも走り続ける。走る、走る、走る、走る。くやしい、悔しい。せっかく、家族ができたと思ったのに。だが、私だって闇雲に逃げているわけじゃない。目的地がある。もうすぐのはずだ……見えた!森の奥深くからずっと走り続け、私たちにクソ忌々しい狼退治を依頼してきた臆病者の村人たち。そいつらの住処の商店街が見えてきた。匿ってもらおう。奴らにも責任がある。私はさらにペースを上げ、駆け続ける。
見えた。私は目を疑った。すべての建物のシャッターが降りている……!なんという……なんてことだ……!私はシャッターをあらん限りの力で叩く!
「開けてくれ!狼が来てるんだ!」
すぐに野太い男の声が返ってきた。
「嘘をつけ!あっちへ行ってろ!」
私は舌打ちし、隣の建物のシャッターを蹴りつける。
「狼が来た!本当なんだ!助けてくれ!」
嗄れた老人の声が聞こえた。
「またか!あっちへ行け!」
私は無言でシャッター越しにアサルトライフルの銃弾を撃ち込んだ。弾丸は容易く薄い鉄を貫通した。悲鳴が聴こえた。……あの声は、たぶん、私たちに狼退治を依頼してきたクソジジイだ。声はすぐに静かになった。そのまま死にやがれ。私は唾を吐く。そしてまた走り出す!目指す場所もないまま、ひび割れたアスファルトの上を駆け抜ける。鼓動は再び高鳴り、呼吸には血のにおいがした。
私は理解した。私たちは、騙されていたんだ。初めから、この村の連中は私たちを狼属性ドラゴンウルフの生贄にするために誘い込んだ。いや、そうやって今まで何人もの旅人や傭兵が犠牲になったのだろう。手際が良すぎる。クズどもめ。私は振り向いた。やはり……狼属性ドラゴンウルフが追って来ている!その口元には、明らかな知性を伴う邪悪な笑みを浮かべている。確信した。奴もグルだ。知ってやがったのか……哀れな私を嘲笑ってやがるんだ。クソ!クソクソクソクソクソ!なめやがってクソが!死ね!みんな死ね!死ね死ね死ね死ねまずい!ヤバい!この路地、行き止まりだ!目の前に壁!クソが!死ねよ!
「ちくしょう!くそったれがーッ!」
私は叫び、アサルトライフルとバックパックを捨て、加速し、もっと、もっと速く!高く!ジャンプした!壁の頂上に手をかけ、乗り越える!その勢いで向こう側に飛び降りる!どうだ!私のパルクールは!ペドロにもほめられたこの身軽さ!私は振り向いてさっき飛び越えた壁を見る。
「グオオオオ!」
咆哮が聴こえた。それに破壊音が続く!狼の野郎は……なんと壁をぶち抜いてまだ追ってくる!くそ!いい加減にしてくれ!うんざりするぜ。クソが。
私の心臓と肺と脚はもう限界が近い。そろそろ狼属性ドラゴンウルフもこの追いかけっこに飽きて、私を殺すかもしれない。ゆるやかにペースを落としながら、しばらく走ったところで、くたびれた木造の古い家を見つけた。私はドアを開けて部屋に飛び込む。深呼吸を繰り返して少しでも体力回復に努める。ここで奴を迎え撃つんだ。私は銃を構えた。すぐにドアが優しくノックされる……
「坊やたち、開けておくれ。お母さんだよォ」
「うるせえ!私のママはそんなガラガラ声じゃねえぞ!てめえは狼だろ!」
「…………開けてくれ。俺だ。ペドロだ」
ゾッとした。聴き覚えがある。その声をよく知っている。ペドロの声だ。嘘だろ……?私は後ずさる。ペドロは、私の目の前で、身体を八つ裂きにされて、命乞いをする暇もなく腹わたをブチ撒けられて死んだ。だが、これはたしかにペドロの声だ……この、この、クソ狼、声真似を……!私はドアの下を指差す。
「クソ野郎!ドアの隙間から見えてる足が真っ黒だぜ!」
「……」
「ハッ!おまえは耳だってデカいしな。ペドロの耳は……」
「……それは、おまえの声がよく聴こえるようにだよ」
ドアがペドロの声で再び優しくノックされる。私はさらに後ずさる。何か、童話のような、義務感めいて、このやりとり。もしかしたら足止めできるかもしれない。私は半壊した窓の方を見る。
「お前の目はなんて大きいんだ」
「それはね、おまえのことがよく見えるようにだよ」
ノックが徐々に強くなる。ドアが激しく叩かれる。
「だ、だけど、手が大き過ぎる」
「それはね、おまえを!抱けるようにだよォ!」
狼の鋭い爪がドアをブチ破る!黒い体毛に覆われた長い腕が暴れまわり、私を探している!私は窓の方を再び見る!
「だけど、だ、だけど!おそろしく大きい口だ!」
「それはねえ!」
ドアが大きくひしゃげた!
「おまえを!」
まるでチョコレートのように厚い木製のドアが叩き割られる!
「食えるようにさァ!ヴェロニカ!」
ぐちゃぐちゃになったドアが吹き飛ばされる!黒い体毛に覆われた狼属性ドラゴンウルフがその姿を現す。私は腰を抜かした。少し小便も漏らした。まさか、こんな、人ならざる獣に名前を呼ばれるのがこれほどまでに恐ろしいとは。なんで、なんで?なんでだ?なんであいつは私の名前を知ってるんだ?という疑問と恐怖が思考を覆い尽くしたが、殺されたペドロとカルロスの教え"死ぬのに良い日などない"を思い出した。なんとか勇気を奮い立たせて立ち上がる。狼属性ドラゴンウルフは吠えた。その咆哮は私の全身を震わせた。こわい。恐ろしい。やはりドラゴンは人間の捕食者なのだ。食物連鎖の頂点。これは人の遺伝子に刻み込まれた本能的な恐怖。だが、私は、確認していた窓を破り、飛び降りて逃げる!両腕の前腕がガラスで切れて出血する。また走り出す。再び絶望のマラソンの開始だ。もはや息も絶え絶え、脚も上がらない。めまいもしてきた。走りながら嗚咽し、腕をむちゃくちゃに振り上げ、走る、走る、走る、走る、死にたくない、走る、地獄だ、走る、もっと、もっと。
……いや……もう無理だ。限界だ。呼吸は続かないし、脚はふらふら。心臓の激しい鼓動は吐き気を催すほど。もうダメだ。あそこに煉瓦造りのボロい家がある。あそこで狼をまた迎え撃って、ダメだったら、潔く死のう。あの世でカルロスとまずいメシでもつくってペドロに食わせる。私はもはやおぼつかない足取りで煉瓦造りの家のドアを開けた。
そこはさっきの木造の家とは違い、使われてなさそうな埃まみれの汚らしい家だった。頑丈そうではある。私はドアの鍵を無意味だとわかっていても掛け、最後の戦いに備える。狼が来た。
「……やあやあ、おいしそうな子ブタちゃん。おれを中に入れておくれ」
間違いない。確か、これは……私は答える。
「嫌に決まってるだろ。入れてあげるわけがねえ」
すう、と呼吸の音がした。狼属性ドラゴンウルフは大きく息を吸い込んだようだ。そして、
「ふううううう!ふううううう!ふううううう!」
吐かれた強烈な息!ドラゴンウルフは家を吹き飛ばそうとしている!しかし、ここは煉瓦造りの家。童話のわらの家のようには吹き飛ばない。吹き飛ばないんだ。ふきとば、って、いや、本当に大丈夫か?ミシミシいってるんだが。や、やばい。頼む、頼むよ。なんとか。私は勇気を振り絞る。
「お前なんかに吹き飛ばされるものか!くやしかったら、自分で中に入ってきたらどうだ!」
「ウオオオオオーン!ウオオオオオーン!」
狼の咆哮!サイレンめいて響いている!それは憤怒のように、あるいは歓喜のように。灼熱で焼かれたような怒号が放たれる。
「煙突からおりてェー、お前を食ってやるルルルァー!」
来る。奴が来る。私は急いで暖炉にガソリンをまく。ポリタンクからバシャバシャと大量に撒き散らす。さっきの木造の家からくすねたやつだ。あの木造の家……入ってすぐにわかった。あそこは、たぶん、私たちの"先客"から奪ったものを保管したり、または、"生贄"を泊まらせて狼に襲わせるための場所。そこにガソリンが入ったポリタンクがあったので、ケリをつけるために盗んできたというわけだ。煙突の中から狼属性ドラゴンウルフの声が鳴り響いた。
「オオカミは煙突のてっぺんにのぼりましたが、つるんと落ちてしまいましたァ!ハハ!ハハハハハァー!」
声のあと、狭い煙突の中を狼がすべり落ちてきた!
「オオカミは足を滑らせてまっさかさま!ハハハハハ!お前を殺して食ってやるぞ」
「ああ、煙突の下の暖炉では……」
「グルルル!グオオオオ!」
「子ブタが鍋を沸かしてたんだっけな」
私はライターを投げつける。ペドロにプレゼントされた、仲間の証のライターを。瞬く間に激しい炎が上がる。狼は地獄めいた業火に包まれた!
「グオオオオオオオオオオ!ああああああああ!熱い!熱いィ!この、小娘がァ!」
「うるせえ!私は大人だ!死ね!焼かれろ!」
「おのれ!おのれええええ!小娘ェーーーーー!」
私は声にならない声で叫ぶ。狼は絶叫しながら燃える。奴は両腕の爪を振り回しながら近づこうとしてくるが、私は拾ったビール瓶から作っておいた即席の火炎瓶を投げつける!命中!爆発!そして炎は一気に燃え上がる!毛むくじゃらの体は火の粉を舞い上がらせ、火炎の勢いはとどまることを知らず、巨大な火柱となって狼属性ドラゴンウルフを焼いている!狼は唸りながら激しくのたうちまわっている!……やはり、火が弱点だったようだ。竜と獣の因子を持つドラゴン、狼属性ドラゴンウルフ。狼はもがき苦しみ、起き上がって歩いて近づいてくるが、その動作は徐々に緩慢になる。やがて動きは止まり、最後にその口が開かれた。
「呪われろ」
地獄の底から聴こえたような憎悪に満ちた声だった。私は身の毛がよだつ。狼は大の字に倒れた。ぶすぶすと肉が焼け焦げるにおい。今も激しく燃えながらも、もう完全に動かない。私は腰に装備したリボルバーの撃鉄を起こし、奴のこめかみに向けて二発撃ち込んだ。狼属性ドラゴンウルフの頭部が爆ぜた。床に広がる巨大な黒い染み。終わりだ。狼は死んだ。
私はふらつきながら、部屋の隅にあったカビだらけのソファに身を投げる。もう限界だ。何の力も残ってはいない。タバコを吸いたいが、放り投げたライターを探す余力すらない。私は汚れた革に身体を任せ、今日という日にもっともふさわしい言葉をひとつだけ放った。
「つかれた」
私の声が埃まみれの空気を静かに震わせた。生きている。実感する。横になりながら近くの窓を開けて空を見た。昼過ぎに始まったこの逃走劇も、すでに日が沈もうとしている。ああ、安らかな宵闇を歓迎しよう。私はソファに沈殿し、深く目を閉じた。
【続く】
アジ・ダハーカの箱 鉄兜被りの助 @oddeyeoddeye
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