第2話 椋

 このしゃべり口……。

 声はこんな可愛い声だったかと思ったが、喋り方から醸す雰囲気でわかった。

 この人懐っこく、優しいそれでいてちょっとおどけたような語り口。

 

 椋。


 椋が今俺に電話をかけてきている。


「あれ? 忘れちゃったかな? ボクのこと。ふふ……」


 しばし声を失った俺を笑っている様子がうかがえた。

 受話器を握り直して、声をなんとか発した。

 動揺してうろたえているところを見せたくない。


「馬鹿、忘れるもんか。それよりいつ……帰ってきたんだよ。テレビもネットもどこのニュースじゃやってなかったぞ」


 と思ったが、あてにならないニュースは、今話題に上らせても意味のないことに気がついた。


―たった今だよ。駅にある公衆電話からかけてるんだよ―


 思い出した。確かに駅の待合室に、今はめっきり減った公衆電話が一台、置いてある。


―あ、もうすぐ切れちゃう……―


 10円玉を律儀に追加する音がした。

 経緯はとにかく、椋が今駅にいるということだけはわかった。俺にとっては、それ以上の情報は必要ないことであった。


「駅にいるんだな? 今すぐ行く」


 そのまま受話器をガチャっと置き、通話を切った。そしてもう一度壁のカレンダーを見た。8月24日だ。

 始業式が始まる一週間前――。

(このタイミングでかよ……)

 とるものもとりあえず、リビングを飛び出す。

 廊下を駆け抜け、外行きの上着を羽織り、下駄箱から取り出した靴を履く。

玄関を飛び出すと外の熱気がむわっと身体を覆った。

このところ家でクーラーに当たりっぱなしで暑さに慣れておらず、予想以上にきた。

夏なのに色白だと椋にからかわれそうだ。

(盲腸で入院していた……いや、家でまじめに勉強していたことにするか)

 今から言い訳を考え始めことにした。

 あいつは外で遊ぶことが何より好きだったからな。

 庭にある自転車に飛び乗って、ペダルを踏み出す。

 一路、電話主の待つ駅前へ出発だ。

住宅が立ち並ぶ地区を抜けると長閑な田畑が広がる。

 しばらくすると、ここからはまだ海は見えないが多少潮の風が漂った。

 山野海岸駅までは、自転車で20分ほど。だが全速力をだせば12、3分で着くはずだ。持っている体力を振り絞ってペダルを漕いだ。

 早く一秒でも早く駅に着きたい。

 その途中も椋との思い出が胸によぎる。

 まさか、あいつが……椋が、この町に帰ってきたのか。再びこの町に……五年ぶりに椋が帰ってきた。


 二度と会えないかもしれない別れから、長い時間が経った。なのに今は何故か短く思えた。


 やがて田園地帯を過ぎ、駅前の商店街に入る。ここまでくると車や人の行き来が多少活発になる。

 一度信号で止まった後、交差点を越えた。

 行き交う車やすれ違う人々は今日も変わらない。親子連れ、買い物かごをぶら下げた主婦、お年寄り…。

 そして頭上に広がる空は今日も青かった。

 この町は、俺が物心がついてからほとんど何も変わっていない。だがーー。

 外面の平静さとはうってかわって、街の人々の心の内は、この五年で大きく様変わりをしてしまっていた。

  

 駅前の駐輪場に自転車を止めた時には、照りつける夏の日差しとアルファルトの地面から反射してくる熱気で猛烈に吹き出た汗がシャツに滲んだ。

 列車からの乗降客は既に乗り込むか散ったのだろうか、駅には誰もいない。ロータリーには、出迎えの車も人も既にいなかった。普段は、1、2台いるバスやタクシーも、この時はたまたま待っていなかった。

 暑く照りつける日差しの中、駅前広場にはポツンと俺一人。

電話で、『待っている』と言っていた人物を探すが見当たらない。

(もっと詳しい場所を聞いておけば良かった)

興奮のあまりすぐに会話を打ち切って家を飛び出した自分のおっちょこちょい加減が恨めしい。

 静まり返った木造の駅舎に入っていく。

山野海岸駅と書かれた看板の下をくぐり抜ける。

駅舎内部は節電で電灯を落としていて、暗かった。

改札口に券売機、事務室。そこも人の姿はなく静かだった。

事務室の脇に置いてある公衆電話も誰もいない。

さっきの電話はここからかけてきていたはずだ。

真横にある待合室に目を向ける。ここは冬には石油ストーブが置かれて、一時間に1本、通勤通学時間にかろうじて、2、3本しか来ない電車を待つ間、暖をとったりする。

 駅の待合室の入り口にはようこそ山野海岸へと書かれた観光用ポスターが飾られている。


(いない……)


焦った。さっきの電話がそもそも自分が寝惚けていて見た夢の途中の妄想だったのかと自信がなくなり始めた。

それほどに夢に出てきてはうなされた。


(そうだ、きっとトイレにでも行ってるのさ)


駅舎のすぐ脇には公衆トイレがある。

壁と床がタイル張りで人気のないそのトイレは昼間でも薄暗く陰気だが夜は、一層不気味であまり使いたくない。

一旦駅舎の外に出て、その公衆トイレの男性トイレを覗いて見る。

だが誰もいないし誰かがいる気配もない。

(ここもいないか……)


 背後に人の気配を感じた。

同時に視界が不意に暗闇に覆われる。

手で目隠しをされた。


「だーれだ」


こういう子供っぽい悪戯じみたことを平気でやるのは一人しかいない。


「誰だじゃねえよ。散々探したんだぞ」


背中で悪戯の主はふふっと笑った。


「トイレの前で何やってんのさ」


 覆っていた手を解いた。

 振り向くと、短い黒い髪の人物が、確かに、そこに立っていた。

 俺は目を凝らした。

 目の前の人影も、俺をじっと見つめていて視線を離さない。


「修一……」


 その影はゆっくりと俺の方へ踏み出した。

 背格好などの雰囲気は椋と同じだ。声は甲高い声で昔の記憶通りだった。まるで子供のままのような……。

 確かにさっきの電話の主、椋だと確信した。


「おかえり、椋」


 だが、その影はいきなり目の前に迫った。

 握手でも交そうとしているのかと思ったが、さらにその間合いよりも近づいてきた。そしてその姿を見た時はっきりと違和感を感じた。


「?」


 やわらかな顔立ち。

 しなやかな線の細い体ーー

 整った目鼻。

 そして、胸の膨らみ。膨らんだ2つの胸。


「む、胸!?」


 しかも、ワンピース。

 椋だと思ったそれは、どう見ても少女だった。


「修一!」


 駆け寄ってきて、タックルに近い状態で、その少女はその両腕で抱きついてきた。

 一緒に、倒れそうになったが反射的に踏ん張った。しかも思ったよりも軽かったから、こらえきった。

 そんなことよりーー。


「椋だな」


 現れた少女に俺は戸惑いつつも踏みとどまった。


「そうだよ! ボクだよ」


 少女は、確かにそう返事した。


「修一、久しぶりだね!」

「ああ。椋……」

「うん」


 自分に抱きついたその女の子のその顔をはっきりとみた。

 すっかり女の子っぽい顔立ちのその顔に、かつての友人の面影をみた。


「あいたかたっよ、修一……」


 抱きついてきて、ほおずりするように顔を寄せる。

 そして胸の柔らかみを感じた。


「とにかく落ち着け、離れよう」


 俺は再会の興奮さめやらない目の前の少女の肩を両手で抱いた。

 そしてもう一度俺は自分の記憶を確かめるように辿る。

 記憶が正しければ椋は男だ。

 昔、かけっこで俺が負けて椋が勝ち誇った笑みを浮かべた場面を思いだす。

 椋は、確かにその時はオレよりも背は僅かばかりだが大きく、髪も男の子らしい髪型。

 まごうかたなき男子だ。

 だが、目の前の椋は、その姿形を一変させていた。

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