第三章
第三章
今日も蘭は、涼さんと一緒に、身延線に乗って西富士宮駅へ向かった。この間約束した通り、重森裕君のお母さんが、車で迎えに来てくれた。蘭たちが一般車乗降場へ行くと、お母さんは二人を車に手早く乗せてくれて、稲子方面に向かって車のエンジンをかけた。
「裕君はいかがですか?」
蘭が聞くと、
「ええ、昨日私が、医療機関を受診したのですけどね。」
とお母さんはちょっとため息交じりに言う。
「ああ、風邪でも引いたんですか?」
「ええ、そういうわけじゃなくて、ただ単に血圧の薬をもらいに行っただけの事なんですけどね。その時、一寸具合の悪い患者さんがいて、救急車で運ばれていったんですよ。別に今はやりの発疹熱ではありませんよ。脳出血の疑いって、先生言ってましたから。それを夕食の時に主人に話したら、裕はすぐに怖がって逃げてしまいました。それ以降まったくへやから出てくれません。」
蘭が何気なく聞くと、お母さんはそういう風に答えた。全く、困るくらい過敏な人だなと蘭が思っていると、
「入浴とか、そういうことはしますか?」
と、涼さんが聞いた。
「ええ、するんですけどね、全身をアルコールで消毒するとか、そういうことをやったりしてるんです。手を洗えば、何十分もそこにいますし。でも本人は、そうしないとだめだと思っているみたいで。」
これはもはや、涼さんではなく、影浦先生に話すべきではないかと蘭は思ったが、それは言わないで置いた。
「そうですか。でも、そういうことになって、常軌を逸する行動がみられるようになったら、逆にいいかもしれないですよ。そうすれば医療機関にもかかることができるようになりますし、そうなれば必然的に外へ出ることになるでしょう。これは本人の意志にもよりますが。まあ、ゆっくりやっていきましょう。」
と、涼さんは、もし目が見えていたら、どんな顔をしているか、わからない表情で、そう頷いたのでああった。
とりあえず重森家に到着した。言ってみればなんて事のない普通の家だ。ただ、洗濯ものをはじめとして、洗い物が一切外に出ていないこと、庭に少し雑草がまばらに生えていることなどが少々気になるところでもある。これは、なかなか家のことまで手が回らないということを示しているのだろう。
「どうぞ。」
お母さんは、家の玄関扉を開けて、蘭と涼さんを中へ入れた。玄関から入ってすぐの部屋が裕君の部屋である。涼さんはいつも通り手探りで靴を脱ぎ、白い杖で周りを確認しながら、裕君の部屋に入っていった。
「こんにちは。」
涼さんは、裕君に向かってそういうことを言った。
「こんにちは。」
裕君もそう返した。
「今日の気分はどうですか。」
と、涼さんが聞くと、
「ええ、母がいつ、死んでしまうか不安で仕方ありません。だって、先日、母がいったクリニックで、発疹熱の人が運ばれて行きましたから。」
と、裕君は答えた。
「そうですか。なぜ、あなたは、お母さんの病院で、発疹熱の方が出たと思うのですか?」
と、涼さんは彼に問いかける。
「だって、今、救急搬送されるとしたら、それしかないでしょ。それくらい感染者が増えてるじゃありませんか。えらい評論家のひとだって、そういうことを言っているでしょう。そういうひとが言うわけだから、本当にそうなんですよ。」
まあ確かに、テレビを見れば、評論家の人たちが、感情的にしゃべっている。それは確かだろう。特に、素晴らしい肩書を持っている人ほど感情的だ。中には、そんなえらそうなこと平気で言って、自分はどうなんだと突っ込みを入れたくなる発言をしてしまう人さえいる。客観的にみると、あり得ない発言をしている人もいるから、テレビはあまり使えないという人もいるのは当然のような気がする。
「確かに、大声で怒鳴るように発言していて、すごい肩書を持っている人が発言すると本当にその通りに見えてしまいますよね。」
涼さんは、裕君の発言にそう答えた。
「はい。今一番偉いのは医療従事者で、一番ダメなのは僕たちみたいな人なんです。僕たちは、もともと生きてはいけないと言われていますけれども。だから、僕たちは、自分で身を守らなきゃいけない。そういうわけで、いつもより念入りに手を洗っていますし、顔も体も消毒する。それはおかしいですか?」
涼さんは一言、おかしくないですよ、とだけ言った。蘭は、そうではなくて、それは極端すぎるよ、と言ってやるべきではないかと思ったが、涼さんは絶対そういうことはしないのだった。
「その今の身分制度は誰が作ったんですか?」
涼さんが聞くと、
「はい、自然に作られました。大きな地震が起きたのと同じように。」
と、裕君は答える。
「そうですか。身分制度というものは、江戸時代を例にとっていえば、江戸幕府が勝手に決めたことであって、自然発生したものではありませんよね。」
と、涼さんは言った。
「でも、こういう世の中ですもの、そういうことが発生してもおかしくないですよ。きっと、医療従事者は、バラモンみたいなもので、僕たちみたいな人間は、ダリットみたいなものでしょう。」
蘭は、自分は同和地区のひとと同じだという発言をしないでくれてよかったと思った。其れと同じだと言ったら、水穂さんのことを思って、ぶん殴ってやりたいと思ったのである。
「そうですか。確かに、大変な世の中ではありますから、そういうことが発生してもおかしくないですよね。でも、身分制度というのは、あくまでもどの歴史の中でも、自然発生したという事例はなく、人間の権力者が円滑に統治するために作っただけのことですよ。日本の身分制度にしろ、インドの
カースト制度であってもね。覚えてくれるといいな。」
涼さんは、覚えてくれと頼むような言い回しも使わないし、覚えろという命令形も使用しなかった。ただ、覚えてくれるといいな、という願望のような感じで、アドバイスをするのだった。なるほど、そういう言い方をするのか、と、蘭はアドバイスの方法を一つ覚えたような気がした。
「でも、僕は、事実いろんな人から、死んでしまえと言われる。」
と、裕君はいう。
「誰にですか。」
と、涼さんが聞いた。
「ええ。学校に行ってた時、学校の先生がそういってたんです。働いていない人は、社会に迷惑をかけるから死んでしまわないと解決しないって。」
裕君は、そう答えを出した。
「そうですか。あなたは、学校など当の昔に卒業したでしょう。もう、10年ちかくたっているのではないですか。それに今いるところは東京でもないわけですし、有害な人物からは逃げることに成功できているのでは?」
「いえ、そんなことありません。テレビに出ている偉い人がそういっています。」
涼さんがそう聞くと、裕君はそう答える。そうか、テレビに出ている偉い人たちに、裕君は、かつて自分のことを傷つけた教師たちと同じ匂いを感じているのだろう。それは、嗅いでいるという表現では当てはまらない。感じているという表現をしなければならないのだ。精神障害とは、目で見る、耳で聞く、鼻で嗅ぐなどのいわゆる五感だけではない、もう一つの謎の物体があって、それが故障したという状態なのである。その謎の物体とは、健康な人にもあると言われるが、健康な人はそれを表に出さずに稼働させることに成功しているという偉業を成し遂げている。
「そうなんですね。テレビに出ている偉い人が、学校の先生と同じように見えてしまうから、身分制度があるように見えてしまうんですね。」
と涼さんは言っている。しかし、そういうひとを敵に回せと指導してしまったら、生きていけなくなるのではないかと蘭は思う。対策としては気にしないことに越したことはないが、この少年には至難の業だろう。
「お話は分かりました。僕たちは、あなたの話を間違っているとは思いませんよ。そう感じているのだからそうなってしまうのは仕方ないですね。でも、中には、そうじゃない人もいるかもしれません。つまり、仕方なくそういう風に感情的になっている人も、中にはいるということです。学校の先生も、周りの生徒さんたちが、真摯に勉強しなかったから、勉強させるためにわざとそういうことを言った可能性だってあります。まあ確かに、大声で怒鳴り散らされるような言い方をされる環境に長時間いると、人間はそちらの方が正しいと信じ込んでしまうんですよね。それは自分を守っているからですよ。それをしないと学校にいられないですから。それは、悪いことじゃありません。その時は仕方なかったんです。」
と、涼さんは、表情一つも変えず、静かにそういうことを語るのだった。そういうことを言って、なんだか余計に立ち直りに時間をかけているように、蘭には見えてちょっとじれったいなと思った。それなら、結論を先に言ってしまった方がよいのではないかと思うのだが、、、。
「それは、そういう目に会ってしまって、あなたはそれしかなすすべがなかったというのだから、仕方ありません。今でも、テレビで、えらい人たちが予言者みたいにしゃべっているのも仕方ありません。」
と、涼さんは言っている。
「涼さん、そういうことを、いつまでも話していくつもりなんですか。」
と、蘭はしびれを切らして、涼さんにそう聞いてみた。この時、裕君がどんな顔をしているかなんて、蘭は気にも止めなかった。
「ええ、そのまま続けますよ。だって彼は、それ以外の人間に出合ったことがないことも確かですし、変われるチャンスがまったくなかったことも確かです。だから、今はいい時なんですよ。そのためには、何回も同じことを繰り返す形になっても仕方ありません。まず、彼の中にたまっていた間違ったことを吐き出させて、空っぽにさせる事から始めるんです。」
涼さんは、そういうことを言う。蘭は、それよりも早く行動を起こさせる方が、先ではないか、過去にあったことなんて、吐き出させていたら、もう時間が無くなって、お母さんはどうするんだ、と言いたかったが、お母さんがそれを感じ取ってくれたのだろうか、蘭に向かって、こういうのであった。
「いいえ、あたしたちにはできることではありません。だから、先生のような方に任せないとだめなんです。」
そうか、それでは、いつまでもパピルス船のままだ、と蘭は思う。それではジャンク船どころか、本当にわずかな技術で中国まで行った、遣唐使船にもなれはしないじゃないか。彼を救うどころか、何も変わらないじゃないか。それでは、まるで大嵐でも起きなければ変わらないとでも言いたげである。
「蘭さんが言うこともわかりますよ。でも、人間、本当に強くなるには何十回も訓練を繰り返さないとだめなんですよね。」
涼さんはそういうことを言った。
「いきなり結論を言ってはダメなんです。その一歩前が必ずあります。それを逃してしまう人も結構います。人間は、答えが見えなくても不安になるけど、見えても不安になってしまう、弱い動物なんですよ。」
「涼さん、そういう甘やかしこそ、人が成長する妨げではないですか。僕たちは、痛みに耐えることで大人になるということも教えていかなきゃならないのでは?」
と、蘭が聞くと、涼さんは、見えない目で天井を見つめたまま、首を横に振った。
「いいえ、そういう事も、彼らには、役に立ちはしないのです。そういう使命観とか、倫理観とか、そういうこともすべて崩れています。だから、もう一回援助者と一緒に、それを組み立ててもらうんです。治療とは、そういうものです。だから、指導とはそこが違うんです。」
「指導とは違う?」
蘭は、それを言われて、思わず涼さんの顔を見た。
「ええ、違いますとも。指導というのは、ある程度基礎的な倫理観とかを持っている人に、学問や知識を通して方向を示してやることでしょう。治療と言いますのは、方向性も何もありません。ただ、日常生活が送れない人に、それができるように持っていくことです。ですから、指導とは全く違います。そこを勘違いしてはダメです。治療者は指導者ではありません。だから、倫理観を押し付けるようなことはしてはいけないんです。」
「はあ、、、そうですか、、、。」
蘭は、何を言っていいのかわからなくなって、思わず黙りこくってしまう。その間にも、涼さんと、重森君のマシンガントークは続いた。重森君は、もう日本では、どこにも外へは出ずに、家の中にいる事こそ、最善の方法であると熱っぽく語るのだ。そして、涼さんはただひたすらに、そうなんですね、と聞き続ける。時には、重森君の話をオウム返しに繰り返すこともある。それをしてくれると、重森君は納得するのだろうか、さらに次の話をしてくれる。このテクニックを駆使して、重森君が、人を極端に怖がるというよりも、怖がっているのは病原体のほうであることを聞き取ることができた。そして、働いていない人間は悪人であり、死んだほうがいいと考えていることもはっきりした。でも、こういう問題提起何て、前回のセッションでもやっているし、同じことを繰り返している堂々巡り名だけじゃないかと蘭は思うのだ。だって、この結論が導かれた時は、大体指定時間である、一時間を超過してしまい、お金を支払う時間になってしまうからだ。
涼さんが、お母さんからお金を受け取っている間、蘭は、涼さんに対して批判の目を向けていた。それを、もし、涼さんが盲目でなかったら、どんな顔して受け取るだろうかと思ったけれど、涼さんには蘭の顔が見えないので、表情も変わることもなく、涼さんは淡々としているだけである。
「じゃあ、来週また来ますから、それでは、よろしくお願いします。」
と、涼さんは、白い杖をもって、また玄関まであと五歩とか言いながら、歩いていこうとするのである。
蘭の移動は、お母さんが手伝ってくれた。そしてお母さんはいつも通り、二人を西富士宮駅まで送っていきますから、と言って、車を準備し始めるのである。二人はまたお母さんの運転する車に乗って、西富士宮駅へ向かうのであった。
「ねえ涼さん。僕、思うんですけどね。」
走る車の中、蘭は涼さんに言った。
「本当に、僕たちこうして週に一度訪問しているけど、価値などあるのでしょうか。なんだか僕たちは単に、お遊びで、彼のことを聞いているにすぎないような気がするけど。」
「ええ、それはわかりません。」
と涼さんははっきりと答えた。
「それは僕たちが決めることではないですよね。本人が決めることです。」
「それでは僕たち、なんでこうして毎週定期的に、こうして訪問しているんでしょう。何のために、こうしているのでしょうか。あの、重森という子にああして接見して、果たして本当に、効果というか、そういうものはあるのでしょうか。なんだか僕たちが無駄にしているしか見えないと思いますが。」
蘭は思わず、本音を言ってしまったのであるが、涼さんは表情も変わらず、顔も何も動かさず、こういうのだった。
「でも、誰かが援助しなければ、あの家族というのは、一生不幸なままでいることになります。」
「そうですよ。蘭さん。」
と、涼さんの言葉に、運転していたお母さんが、そういうのだった。
「あたしたちだけでは、どうにもならないからお願いして来てもらっているんです。あたしたちは、もうできることはしましたから、あとは先生方に任せるしかないと思っているんです。現に、裕は、東京に住んでいたころに比べたら、ずいぶんよくなっているんですよ。だって東京に住んでいた時は、テレビを見れば、怪物みたいに叫びだすし、ものは壊すし、自分でも、なぜ暴れるか、わからないの一点張りで、私たちもわかりませんでしたもの。それを、成文化して言えるように、先生がしてくださったんですもの。私たちは感謝しようがありません。」
「そうなんですか、、、。」
蘭は、そういわれてそれだけしか言えなかった。そうか、それすらもできなかったのか。
「あたしたちでは、どうしてもできなかったんですよ。やっぱり親というのは、親でしか、子供を見れないのですよね。」
蘭は親になったことはなかった。でも、親は親でしか、見れないという言葉は、なんとなくわかるような気がした。
「それにあたしたちは、人間がどうしておかしくなるのか、そのメカニズムも知らないのですから。」
そうか。餅は餅屋とはそういうことなんだな。
「だから、問題が成文化できるだけでも進歩なんです。あたしたちは、そう思っています。」
運転しているお母さんは、たぶん、それを全部は受け入れていないだろうなと思った。本当は、普通の子供が親に提供してくれる幸せ、つまり就職して結婚して、孫の顔を見る。それをしたいんだろうなという気持ちがにじみ出ていた。
「でも、お母さんなんですから、言ってもいいんじゃないですか。だって、世代が続くことほど、素晴らしいことはないですから。」
と蘭は言ったが、お母さんは、
「いいえ、そんなもの、とうの昔にあきらめました。もう、うちにはできないことだとあきらめました。」
と、涙ながらに言うのである。
「言ってもいいと思います。僕はそう思います。だって、親は子孫を残すために子供を産んだんです、それを、しないというのは、明らかなルール違反なんだって、言っていいんじゃないですか。それは、親として当然言っていい権利であると思うんですけど。俺たちは、お前にこんな生活を送ってもらうために、お前を生んだんではないって。それくらい言っていいのではないでしょうか。」
と、蘭が言うと、
「いいえ、蘭さん、僕もあなたも障碍者なんですから、そういうことを言うのはおやめなさい。世の中には、当たり前のことをあきらめなければならない人は結構多いですよ。動物の世界ではそういうことはないけれど、人間の世界ではありえることが、大きな違いなんですよ。」
と、涼さんに言われて黙ってしまった。蘭が黙ると、周りは、車を運転する音と、お母さんのすすり泣く音しか聞こえなくなった。
しばらく、沈黙が続いた。
「ごめんなさい。私、やっぱりまだまだダメですね。こんなことで簡単に涙を流してしまうのですから、もういけないですよね。其れより、ここでどう生きていくかを考えなきゃいけないのに。なんで涙が出ちゃうんだろう。もう十分、泣いたはずなのに。」
と、お母さんは言っている。
「はい。西富士宮駅に着きましたからどうぞ。」
と、彼女は、西富士宮駅の一般車乗降場の前で車を止めた。
「ああ、ありがとうございます。来週には、泣かないでいてくださいませよ。」
と言いながら、お母さんに手伝ってもらって、車を降り、切符売り場まであと何歩と数えながら歩いていく涼さん。蘭は、
「今ちょっと間ができましたからどうぞ。」
と、言ってあげた。お母さんは、静かに、でも悲しそうにすすり泣いた。それを蘭は、精神障碍者の親御さんというのは、みんなこういう気持ちを経験して、それを乗り越えるために研究しているんだろうなと思った。できることならこの努力が、報われてほしいと思うのだが、それがないとはっきりわかっている以上、非常に歯がゆいというか、やるせない思いだった。
ふいに歩数を勘定していた涼さんが、後ろを振り向くことをしないまま、
「もっと強くならなきゃだめですよ。」
とだけ言った。蘭は、治療者の涼さんにも、一寸だけ、泣かせてあげられるような部分があるといいなと思った。
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