第6話図書室の女神

「六道さん」


「イ・ヴ」


 イヴと呼べと言われても、綾香は中々に下の名で呼ぶことが出来ない。

だって、そんな下の名前で呼び合うなんて。

まるで恋人ではないか。

なんて思ってしまう。


「い、イヴ……」


「なんでいちいち六道呼ばわりすんだよ。女の子同士なら下の名前で呼び合うのも普通だろ?」


 そういってイヴは教室に出来ている女子グループのほうへ視線を向ける。

数人の女子がきゃっきゃ話ながら、時折親しい友のことを下の名で呼んでいる。


「そそそ、そうだよね! 普通だよね! あはあははははは」


「お前赤面症なの?」


(クソ……! そんないい顔で直視されたら赤くならないわけないでしょう!!!)


「変な綾香」


「ぬぬぬ……!」


「で、何か用?」


「あ、あ、あ、あ、あ、あのさ私もオリエンテーション用の服が欲しくて……

よよよ、よかったら一緒に……買いに……」


 綾香、今年一番ともいえる頑張りである。

放課後のお買い物への誘い。

買物と書いデートと読む。


「あー、ごめん」


 ハートブレイク。


「そうだよね……イヴさんも予定あるよね……」


「いや、今日図書委員の日なんだよ。受付やんなきゃいけないからさ。お前も来る?」


「イキましゅ!!11111111」


 その返答速度、秒数にしてわずか0,01秒。



 ◇ ◇ ◇


 放課後の図書室。

といってもこの時間帯は部活動に明け暮れる生徒が多いため、図書室の利用は少ない。

テストシーズンにでもなれば、そこそこの利用者がいるが、本日はぽつぽつといるのみ。


 受付カウンターに腰を下ろすイヴ。

綾香は一瞬カウンター席に自分も座れないものかと思ったが、さすがにそれはまずい。

図書委員でもないし、関係ない生徒が座るわけにもいかないだろう。


 近すぎず、遠すぎず。

受付カウンターからほんの少し離れた席へとバッグを下ろした。


「綾香」


「はい!」


「こっちきなよ」


「えぇ!? いいの!?」


「むしろ何で離れるの?」


「だだって私図書委員じゃないし……」


「図書委員の俺……私が良いっていってるんだからこっちきなよ」


 笑いながら手招きするイヴ。

綾香は思う。今の自分は――飼い犬である。

そう、イヴに飼われた犬。

ご主人様が笑顔で手招きしているのだから、それには従わなければならない。

飼いならされた犬には抵抗など赦されないし、ご主人様のいうことを聞くのはご褒美である。


「お邪魔しましゅ……」


「うん」


 カウンター席に二人、肩を並べる。

距離が近くて無駄にドキドキが大きくなる。

チラリ横を見れば、髪の毛の一本一本までが識別出来てしまう。

気のせいかいい匂いまでしてしまう。


「なぁに? そんなにずっと見て?」


「え、いや、あ! あの、いい匂いがしているなぁ! なんて! いひ、へへへ……」


「本当!? 良かった、今日制汗剤変えてみたんだよ。悪くない?」


 そんなことを言ってシャツを――胸元をパタパタさせるイヴ。

綾香の目はこれでもかというほどに――皮膚という限界を突破して目玉が飛び出るのではないかと思えるほどに見開くと――

その視線はパタパタするたびに見える谷間へと注がれる。


「……」


「どう匂う?」


 パタパタ。


「……」


「綾香?」


 パタパタ。


「……」


「おーい」


「……」


「ん――」


「……」


「えいっ」


 むぎゅ。


 何をされたのか分からなかった。

谷間を見て失神しかけていたら、いつのまにか視界が肌色一色で埋まっていた。

何を言っているのかわからねーと思うが、綾香も何をされたのかわからなかった。

頭がどうにかなりそうだった……

催眠術だとか超スピードだとかそんなチャチなもんじゃあ、断じてねえ。もっと恐ろしいものの片鱗を味わったぜ……

(綾香後日談)


「ぴきゃうおあ!?」


「驚いた?」


「りりりりりりっりいりりりくうおああああああ、ななな、何を!」


「あんまり谷間見てっからさ。くっつけてみた」


 つまり――今顔に当たっていた肌色は。

あの柔らかでいい香りがしていたのは。

ほんの少し汗ばんだものは。


 考えてたどり着く答えよりも先に――綾香の身体が反応をしめす。

ツーと垂れる赤。

ポタリと落ちたのは、鼻血だ。


「綾香、鼻血出てる」


「え、あ、ごめんなさい! ちょっとは、ハンカチ……」


「ほら、これ使って!」


 取り出すよりも先に、イヴは自分のハンカチを取り出すと綾香へと差し出す。

真っ白で肌触りのよさそうな、花柄の刺繍の施されたものである。


(え、こんな――こんなイヴさんの麗しきハンケチを私の鼻血で穢すわけには!)


 だが、イヴの行動は速い。

綾香の鼻をハンカチで包むと、背中を摩りながら落ち着かせてくれる。


(鼻に!? イヴさんのハンカチ! 背に!? イヴさんの御手々が!?)


「大丈夫か?」


「らいじょうぶ……」

(くっそ! 鼻血のせいでハンカチの匂いが半減しやがる! あぁ、でもイヴさんの御手々が背に――

麗しのマリア様の手が背に! これはまさしく聖母の愛撫!)


 イヴのハンカチを鼻に当てたまま、綾香は生と死の境をさ迷った。


「しばらく安静にしてな」


「ふぁい……」


 しかし、やらかしてしまった。

綾香はまさかイヴの前でこのような失態をするとは思わず、テンションは急降下する。

ハンカチで鼻を隠しながら、黙る綾香。


「本の貸し出しお願いします」


「あ、はい。こちらの用紙に記入をしてください」


 わずかしかいなかった生徒がイヴの前へと現れた。

綾香はその生徒の顔を見逃さなかった。

それは――綾香がそうであるからか、すぐにでもわかる。

その生徒の表情、仕草、空気感から。


「六道さんですよね?」


 生徒が問う。


「うん、そうだよ。あれ、同じクラスだっけ?」


「いえ、違います。私2組の前園って言います」


「そうなんだ。よく私のこと知ってたね」


「はい……あの、いつも見てましたから」


「?」


「あ、あの! 良かったらこれ!」


 生徒は可愛らしい封筒をイヴに差し出すと頭を下げた。


「ん、なぁに? これ?」


「私の気持ちが書いてあります。読んで……ください」


「うん。わかった、読んでおくよ」


 生徒は封筒を渡し、本を受け取ると逃げ去るようにダッシュで図書室を抜けた。


「なんだろうな。これ?」


 そういって封筒を綾香に見せる。


「あぁ……それね。捨てちゃおうよ」


「いや、捨てるかよ。読んでくださいって言ってるんだから」


「捨てちゃおう。今すぐ、捨てよ」


「どうした、綾香?」


「だって……」


 あの生徒の顔を見たでしょう。

あの顔は――恋する女の子の顔だった。


 なんでもない相手に、あんなふうに話しかけるか。

 なんでもない相手に、そんな可愛らしい封筒を渡すだろうか。


 綾香はその封筒が何か知っている。


「前園凛だって」


「へぇ……」


「ま、いいや。家帰ったら読むわ」


 可愛らしい封筒。

 あの表情。

考えなくなって分かる。


 間違いなく。


 恋文(ライバル)だ。

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