何度泣いても私はバッドエンドに恋をする
みなづきあまね
第1話 何度泣いても私はバッドエンドに恋をする
雨が降ったりやんだり、忙しない空模様の一日だった。雨が上がり、道路から湧き上がる湿気で肌はべたついて不快感を催す。ただ、隣で歩く彼の端正な顔を眺めれば、そんな不快感や一日の疲労などはあっさり忘れることができるのだった。
職場が同じ年上の男性。私と接点が多いわけではない。しかし、一緒に仕事をする中で連絡を取ったりしていくごとに、少し距離が縮まった。何気ない会話をメールですることもある。けれど、決定的な「何か」があるわけでもないし、自分は既に結婚しているのだから、その「何か」が起こることを期待してはいけない、といつも自分に言い聞かせている。
彼は自他ともに認める真面目な人で、私がときどき抱いている浮ついた気持ちに乗っかるような人では決してないだろう。つまり、私は変な話、「恋をするだけ」なら安心していつまでもその状態を保っていられるのだ。彼に好きな人がいても、彼女ができても、それを妨げる権利はないが、彼にドキドキするのは誰も傷つけない。・・・自分以外は。
私は彼と途中の駅で別れ、乗り換えるために一度改札を出た。地下鉄へ向かおうと連絡通路を歩いていると、後ろから声を掛けられた。
「あの、ちょっといいですか?」
「はい、何でしょう?」
「今からどこ行くんですか?」
「えっ?あ・・・地下鉄まで。」
「そうなんですね。あの・・・めっちゃタイプです。」
「は・・・?」
「僕、27歳なんですけど、今からもしお時間あれば・・・」
私は心の中で盛大にため息をついた。やっと仕事が終わって明日から休みという時に、いらぬ誘い。というか、私の薬指を見ていないのだろうか・・・?見た目は清潔感があり、いやらしい感じもしなかったが、そういう気は毛頭ないし、うっとうしい。なかなか離れてくれず、私はあてどもなく歩き続けた。
『どうしましょう。ナンパがしつこい。』
私は咄嗟に彼に連絡をしていた。別に何かを望んだわけではなく、「何かいい方法ない?」くらいを聞ければそれで良かった。
『戻りましょうか?』
『え?』
『一応今電車降りて、どっちでもできるようにしてます』
『申し訳なさすぎる…』
『今、電車来たので行きましょうか?』
『ってか一応行きますね?』
私は予想外の展開に息をのんだ。その頃には声を掛けてきた男性もしびれを切らしそうで、私は「結婚しているので」と隙を見て指輪を見せた。そしてちょっとためらったのち、男性は元の方向へ去って行った。
私はトラブルが終わったのにも関わらず、今からここへ来るという彼に申し訳なさしかなかった。しかも、そこそこここから家まで距離があるはずで、もう8時近い時間で帰宅も一層遅くなるはずだ。私は改めて周りを見渡してどこにいるかを伝えようと思ったのだが、男性を振り切ることに必死でよく分からない場所へ出てしまっていた。
駅ビルの入り口でひとまず立ち止まり、一番近い駅の看板を眺め、目印にできる建物などを探した。目線を左右に動かしていると、右側から男性が現れた。しかし、彼でもなく、先程の男性でもない。見知らぬ男性は酒臭く、片手にビールの缶を持っていた。しまりのない体でお世辞にも「イケてる」ようには見えず、へらへら笑って、「ちょっと、ねえ、本当」と声を掛けてきた。
・・・さっきとは違う。
私の本能がそう告げた。鼻孔に嫌でも入ってくる酒臭さに鳥肌が立った。左手に握ったスマホが振動し、彼から『着いたら電話しますね?』とメッセージが入っているのが分かった。しかし、返事ができないほど私は冷静さをどんどん失っていた。
「あの、すみませんっ・・・」
「ねえ、これからどうするの?」
「人を待ってるので」
「え~?本当さ、ちょっと、ね?」
近づいた男の腕があと数センチで自分に触れる。しかも、私のヒールのかかとが「こつん」と音を立てた。その音に、自分の真後ろが壁であることを悟り、私は青ざめた。咄嗟に「今から旦那が来るので」と口に出すことができ、男は「旦那だってよ~」と大きな声で数メートル先で待っていた仲間とおぼしき男性陣に言いながら、私から離れた。私が茫然としているそのちょっと先でその男は、大勢の人でにぎわう駅前だというのに、入り口の角でおもむろにズボンを下ろすと用を足した。
その様子によりぞっとした私は、スマホを握りしめて逆方向へと速足で逃げた。その時、電話が来た。
「もしもし」
「今どこですか?」
「本当すみません。1人目はちゃんと振り切れたんですけど、お返事しようと思った瞬間に違う人に声かけられて。」
「え?!」
「しかも泥酔ですごく近いし、本当最悪でした・・・一応今バスターミナル前にいるんですが。私鉄の駅の地上の入り口付近です。」
「わかりました。電話そのままでいてください。」
「え、なんで?」
「だって、その方がそっちの安全という点では。ほら、また声かけられたら困るし。」
「たしかに。」
そこから5分程度経った。
「でも、こんなガヤガヤしている場所で見つかります?」
「見つけますよ。そもそもこの駅、前の職場で乗り換えで使っていたので。」
彼は当たり障りのない話を続けて、それが私の冷静さを少しずつ取り戻させてくれた。しばらくすると、「あ、いた。」と彼がつぶやいた。
「どこですか?」
「後ろ。」
そう言われ振り向くと、見慣れた顔が手を振っていた。その瞬間、私の緊張は一気に解けた。
「本当にすみませんでした・・・。」
彼が目の前に到着するなり、私は深々と頭を下げた。彼は軽く息が上がっており、シャツからのぞく首筋に大粒の汗が見えた。たたでさえ蒸し暑い、しかも人ごみの中、大したヒントも与えられないでノンストップで来てくれたのだ。
「大丈夫でしたか?」
「はい、全然。本当こんなこと、人生で初めてですよ!なんなんだろうなあ。」
私はそう笑ったが、今でもあの酒臭さが消えず、スマホを握りしめた。それでも彼に「大丈夫」と繰り返し、笑顔を作って彼に微笑んだ。けれど、彼の目元はどんなに己惚れていなくても、「嘘言うな」と私に告げていた。私も自分の手先が小刻みに震えていて、今にもスマホを落としそうなことに気づいていた。
「そんな震えてて、大丈夫じゃないでしょ。」
「気のせいじゃないですか?」
私はさっと両腕を後ろに隠した。しかし、本当に落としたらそれこそ惨事になりそうなので、私は鞄のチャックを開け、内ポケットにスマホをしまおうとしたが、震える指はなかなかいうことを聞いてくれなかった。
「ありがとうございます。帰り、遅くなっちゃいますね?」
「いや、大丈夫です。改札まで送りますよ。旦那さんに迎えにきてもらわなくて大丈夫ですか?」
「大丈夫ですし、きっと夕飯の準備とかしてるだろうから。」
私は彼に並んで歩き始めた。まだ呼吸が浅く、彼の会話に冷静になれない自分がいた。それと同時に、彼が自分の時間をなげうち、汗びっしょりで混雑の中私を探し出してくれたことに心臓の鼓動は早まるばかりだ。
地下通路に降りる階段へ差し掛かった。私はこんなことに怖気づかないと自分では思っていたのに、滅多打ちにされている自分に嫌気が指していたが、何かしていないと安堵で涙腺が崩壊しそうになり、思わず彼の右の小指を掴んだ。
「すみません、ちょっとだけ許して下さい・・・。」
「いいですよ。」
振り払われるかと思った。しかし、彼はそれ以上何も言わず、数秒後には私の指を軽く握ったまま階段を下りた。改札に着く頃には普通に手をつないだ状態になっていることに私は気づき、嬉しさと申し訳なさとでいっぱいになった。
「すみません、忘れてください。」
そういうと、私はぱっと手を放した。本音を言えば永遠にそのままが良かった。
「最寄り駅まで行かずに大丈夫ですか?」
「はい、もう平気です。数駅しかないですし。本当ありがとうございました。」
「気を付けてくださいね?」
「ありがとうございます。失礼します。」
私は彼に挨拶すると改札を抜け、そこで一度振り返った。彼は心配そうに私を眺めていたので、会釈をして私は階段を下りていった。
・・・どうしようか。ホームの電光掲示板で電車の時間を眺めつつ、私は半ばぼんやりしていた。変な男たちに声を掛けられたことは不快だったし、まだ自分の予想に反して怖さがへばりついている。しかし、それ以上に自分の立場というものがありながら彼の手を握った事実をどうしようか、そのことに気を取られていた。
彼は嫌な顔はしなかったし、私の指を握ってくれた。ただし、それは彼の優しさだと思う。相手が私でなくても受け入れただろうし、あんな状況で頼られたら私が男でも許すしかないと感じる。無碍に振り払うようなことはない。つまり、言い換えれば、彼は私のことをどうも思っていなかったとしても拒まず手を握ったままでいてくれたと思うのだ。
彼がわざわざ電車を降りて戻ってきてくれたのも、時間を割いて探してくれたのも、心配して改札まで見送ってくれたのも、すべて親切心故だ。誰にだってそうするのだ。でも、そんなことをされたら好きになってしまう。もっと好きになってしまう・・・私だけだろうか?
帰宅してお礼の連絡をすると、そこからしばらくやりとりが続いた。
「いや、行って良かったって会って思いましたよ。」
「本当ありがとうございました。帰宅して報告したら、『やったね、快挙じゃん!』って言われました、笑。」
「それで快挙って言えるのか・・・自分はそんなこと言えませんけどね。」
「まあ、結果的に何もなかったし、大抵はそんな感じで笑われますよ。普通違います?」
「あのときの様子見たら、そういう反応できないですね・・・。」
「そんな酷かった?」
「ええ、結構震えててやばいなって。じゃなかったら、あの後自分にあの行動とらないよなって・・・。」
あれほど「忘れてください」と念押ししたのに、やはり彼は忘れてくれていなかった。
「あっ、すみません・・・安心しきって、ああでもしてないと泣きそうだったので、本当は。」
「いや、大丈夫です。普通はこちらから助けてあげるべきなんでしょうけど、既婚者にしてあげるのはまずいかなと思って、少し引いてました。そんな感じなのはわかってたので、自分もあの時はそのままでいいですよって感じでした。」
ああ、ほらね。彼はちゃんと弁えているのだ。
「気を遣わせてすみません・・・怒られるかとも思ったのですが、もはや取り繕う余裕もなくて。」
「そんな心の狭い人間じゃないですよ?こんなんで落ち着いてくれればいいけど、と思ってました。」
「昔、付き合っていた人に同じような状況で電話したら、『もう帰宅中だから』と何も助けてくれなかったことがあって、ちょっと思い出しました、笑。」
私は少し冗談めかした話で現実逃避をしようとした。
「それはダメ男ですね。好きなら戻るでしょう。」
「あ、自分はまた別の話になるので。旦那さん呼ぶより自分が行ったほうが早いと思ったからです。」
そのたくらみは彼の返事に打ち砕かれた。現実逃避どころか、別の方向から殴られた感じがした。こういう路線になるなんて、予想もしなかった・・・。
しかもこの後、自然と恋愛の話となり、彼は最近出会った女性とやりとりをしているが、上手くいかないと漏らした。話を聞けば聞くほど、胸がえぐられた。
彼に恋することは自由だ。けれど、彼の恋を妨害することはできず、応援している「ふり」をすることが、私に与えられた唯一の選択肢だった。やりとりを続ければ続けるほど、彼が私をなんとも思っておらず、しかも気になる人が別にいて、私は身を投げたい衝動に駆られた。
全く自分は馬鹿だ。頭ではわかっていて、あれほど自分に「優しさだよ」と言い聞かせていたのに、それを信じていなかった。でも、これで明白になったのだ。彼が私と歩いて話すのも、メールでときどきたわいない話をするのも、そしてピンチに駆けつけてくれるのも、私を好きだからではない。本当に彼が優しい人だからだ。
心の中では、彼がその女性と上手くいかないことを喜んでいた。でも、そこがダメなら次に行くだけで、その次のリストに私が入ることは永遠にないのだ。いつかやめ時は必ず来る。私か彼が職場を離れて疎遠になったり、彼に彼女ができたり結婚したり・・・そうすれば終われるはずだ。むしろ終わらせたかった。けれど今は無理だ。
涙が出てきたが、これを夫に見られることは断固あり得ない。泣くこともできない。彼を諦めればすべてが解決し、辛くもなければ、優しい夫と何でもない平和な日々を過ごし、この鬱々とした時間を趣味や仕事に充てられる。そう分かっているのに、今の自分にはどうしようもないのであった。
既婚者だから、と彼が彼自身に言い聞かせてればいいのに、と思っている自分に気づき、私はふっと笑った。無謀だと分かりきっているのに、それでも可能性を探すのをやめられない馬鹿な自分に笑った。そしてスマホを裏返すと、テーブルに置き、電気を消して眠りについた。
何度泣いても私はバッドエンドに恋をする みなづきあまね @soranomame
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