8  梨紗との出会い

 病室の扉を開けると、僕は一直線に彼女の眠るベッドまで向かった。


「梨紗」


 眠る彼女は窓から差し込む西日に照らされて、美しく輝いていた。


「初めまして、本物の梨紗」


 想いが飽和して、全部ぶちまけてしまいそうだった。


「せっかく会えたのになぁ」


 梨紗が存在した喜び、目覚めない梨紗への悲しみ、好きだという感情。僕の心中はぐちゃぐちゃだった。そしていつの間にか、泣いていた。


 今想いを伝えても、梨紗はまた僕を拒絶する。僕は知らなかったのだ、何も。分かったことは、梨紗が僕に対して抱いていた愛情と、僕が梨紗に対して抱いていた愛情の種類がまるっきり違っていたということ。それと、この恋は許されない恋だったということ。


「目、覚ましてよ」


 僕は細々とした梨紗の綺麗な手を握ろうとした。その時、異変に気づく。


「点滴が、外れてる?」


 さっと血の気が引いた。すぐさまナースコールを押し、慌ててやってきた看護師に状況を説明した。


「さっきまでは確かに付いていたのに」


 看護師はすぐさま対処した後、こう呟いた。どうやら、この点滴が外れたのは僕が来る数分前の出来事だったという。


 誰かが外したのか、それとも……。ある考えに至り、心がずきりと痛んだ。もしも、もしも梨紗が自分で外したのだとしたら、梨紗は一度、目を覚ましていることになる。自分の意思を持って死のうとするなんてことは、僕が絶対に止めなければ。


 梨紗が眠る顔を見つめるだけで胸がいっぱいになった。梨紗が目覚めるときまでにこの淡い想いを捨て去ってしまえたらいい。僕は今度こそ梨紗の手を握りながら、ずっと梨紗のそばにいた。


✴︎


 夢から覚める瞬間は、いつも苦しい。


 夢ですら、私は彼に会うことを許されなくなっていた。私はまた死ねなかったのだ。重い目蓋を持ち上げようか悩む。そのとき、右手に温かさを感じた。


「んっ」


 目が覚めると、私のベッドの横にいたのは彼だった。


「梨紗? 梨紗!」


 目を覚ました私を見て、涙を浮かべながら嬉しそうに私の名前を呼ぶ彼。突然の出来事に、起きたばかりの頭がついていかない。もしかしてここは、夢の世界なんだろうか。


「お兄ちゃん……?」


 夢の中ではダイゴ、と呼ぶ彼の正体。金指大吾は私の兄だった。


「うん」


 お兄ちゃんは全てを受け入れるような優しい微笑みを私に向けた。


「ここは、……夢?」

「ううん、夢なんかじゃないよ。やっと、現実世界こっちでも会えたんだ」


 泣きそうになるお兄ちゃんの表情を初めて見た。ここは夢じゃない現実。それなら、現実世界の私はお兄ちゃんには不釣り合いだ。


 みすぼらしくて、陰湿で、おどおどしている。目の前にいるお兄ちゃんは本当の梨紗わたしを知らない。きっとすぐに嫌われる。


「母さんから聞いたよ。僕たちの父のこと、梨紗のこと、全部」


 全部。お兄ちゃんのお母さんは、私のことをどう説明したんだろう。怖い。嫌われたくない。


「梨紗」


 お兄ちゃんが私を呼ぶ声色はまだ温かい。その声が冷たくなる前に、この世界から消えたい。


「助けに来たよ。梨紗が助けてって言ったから」


 助けて、という私の叫びをお兄ちゃんは聞いてくれていた。そして、助けに来てくれた。こんな私のために?


「点滴、梨紗が外したの?」


 ドキリと、心臓が跳ね上がる。死にたいと思っていた。お兄ちゃんに会えない世界で恐怖に苛まれて生きるくらいなら、死んだほうがマシだと。


「頼むから、死なないで」


 黙る私を見てお兄ちゃんは一滴、涙を溢した。まるで私を大切に思っていてくれるかのように、私の両手を優しく握りながら。


「やっと、会えたのに」


 十三年間ずっと梨紗に会う日を夢見ていたんだ、と。お兄ちゃんも、私と同じ夢を見ていたようだ。


「夢の中のリサと、現実の梨紗は違う」


 声帯が上手く機能しなくて、掠れ掠れになった。お兄ちゃんと交わっていた目を思わず逸らす。


「同じだよ」


 違う。リサと同じにされては困る。リサは、私が作り上げた完璧な妹なんだから。


「僕はどんな梨紗も、受け入れられるよ。だって僕は梨紗の、……兄なんだから」


 苦しさを孕ませた表情で必死に伝えるお兄ちゃん。お兄ちゃんは、こんな私が妹だと受け入れてくれるの?


「これまで通りたくさん話して、たくさん出かけて、仲良くなろう。今度は友達じゃなくて、家族として」


 家族。父がどこに行ったのかは知らない。今にも襲いかかってくるかもしれない。それでも、お兄ちゃんがいるうちは安心できる。お兄ちゃんとなら、普通の家族になれるかな。


「幻滅しない?」

「絶対しないよ」

「臆病で怖がりで引っ込み思案で、身体中に痣があっても?」

「するわけないよ」


 小さな声でゆっくりと言葉を紡いだ私を待って、全てを許容してくれる。手を握るお兄ちゃんの力が強くなった。


 心にぽかぽかとした感情が流れ出す。これが「愛される」ということなのだと、私はこの日初めて知った。

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