7 変わらない日常
夢から覚める瞬間は、いつも苦しい。彼との逢瀬に逃げていられる時間は、睡眠時間だけでは短すぎる。
苦痛なだけの一日が、また始まる。窓もカーテンも隙間なく閉められた陰湿な部屋は、まるで私自身を表しているようだった。縮こまって、暗くて、いつもおどおどして。私の心の鍵を開けてくれるのは、夢の中の彼だけだった。
大好きな人。彼の前では身も心も綺麗で、全てのしがらみから解放されて自由に生きられる。夢の中の私と現実の私は全くの別人。きっと彼も、本当の私を知ったらあの輝く笑顔を向けてくれなくなる。だから、隠さなければならない。
彼なら私を助けてくれるかもしれないと、何度も会いに行ったことがある。けれど、彼をいざ目の前にすると、その度に怖じ気づいて声すらかけられない。
絶対に嫌われる自信があった。私は誰からも必要とされない存在だから。もし、現実世界の彼に拒絶されたら?
眠るために生きる日々の希望すら奪われてしまったら、私は生きていられない。本当は夢の中と同じように話して、遊んで、仲良くなってみたかった。彼も同じ夢を見てくれていたら、なんて妄想ばかり。
おそらく彼は、私の存在すら知らない。私だって、彼のことは外見しか知らない。夢の中で会う彼は私が勝手に作り出した理想像でしかない。だからこそ、会う勇気が出なかった。
今日は、彼を見に行ける日だった。父は仕事の飲み会という建前で、知人の家に行くらしい。それが誰なのかは知らないし、興味もない。どうせ毎回別の女の人なのだ、どうでもいい。
けれど、そのおかげで私は隣の市に住む彼に会いに行くことができる。苦痛でしかない日々の中で、数ヶ月に一度訪れる救済。生きている彼を見るだけで、私も生きようと思えた。
ほんの少しだけ胸を弾ませながら、硬い布団から起き上がった。
「っ、」
昨日殴られたばかりのお腹に激痛が走る。服を捲り上げて見てみると、赤黒い打撲痕となって少し腫れていた。その他にも、肩、胸、足……。洋服で隠れる箇所だけに付けられた、無数の痣。治っても治っても新しい傷を負うから意味がない。終わらない生き地獄。変わらない日常。
朝、大切なことは父を起こさないこと。朝が弱い父は夜にも増して機嫌が悪く、凶暴になる。気絶するほど殴られるのは決まって朝だった。
音を立てないようにそっと寝室から居間へ出ると、そこに広がるのは昨日のままの惨状。物と私に当たり散らした父のせいで、家中の物という物がひっくり返り散らかっていた。
このままにしておいたらきっと「どうして片付けていないんだ」と、また怒られるのだろう。
「はぁ」
小さなため息を吐きながら、地道に片付けていく。物音を立てないように神経をすり減らしながらの作業は骨が折れる。そんな時だった。
「♪〜♪♫〜」
突然鳴り出した着信音に、私はびくりと肩を震わせた。それは私のものではなく、父のものだった。やがて父が起きたような気配がして、電話が取られる。
「もしもし……」
寝起き一番の、普段よりワントーン低い父のくぐもった声が漏れ聞こえた。誰からの電話なのだろう、気になるが、手を止めている場合ではない。父の電話が終わるまでに片付け終わらなければ。
数分後、父の声が聞こえなくなった。その後、「くそがっ」という怒鳴り声と何かを床へ投げつける鈍い音がした。
危ないと、危険察知能力が働く。それでも、その場を動くことができずに固まってしまった。刹那、バタン、とドアが開く音がした。父と目が合った瞬間に心臓の縮こまる想いがした。
「お前のせいだ、お前のせいで駄目になっちまったじゃねえか」
どうやら、今日の泊まりの予定が消えてしまったらしい。一歩ずつ、怒鳴り散らしながら近づいてくる父。見慣れているはずなのに、恐怖で足が固まって逃げられない。
「部屋も汚ったないままだしよぉ」
父は床にあったクッションを力任せに私の方へ蹴った。
「なんか言えよ、なぁ」
父はそのまま近くの本を私に向かって投げつけた。傷の上から当たったにも関わらず、神経が麻痺して痛みは感じなかった。
「聞いてんのか」
父は近くにあった食器を手に取り、ゼロ距離まで近づいてきた。怒りのままに私の頭上に振り上げ、
目が覚めたとき、目の前に広がっていたのは見知らぬ天井だった。状況が飲み込めず周囲を見渡すと、ここが病室だということに気がついた。
「なんだ、天国じゃないんだ」
弱弱しく、掠れた声が静まった病室に溶けた。動く気力はなく、もう一度目蓋を閉じる。さっきまで見ていた夢の中へ誘われることを期待して。
いつもより長く、彼と過ごせる夢だった。そしていつもの何倍もリアルで、起きたすぐだからだろうか、全てを鮮明に覚えている。
もう一生、目覚めなければいい。死ぬことができたなら、私の作り出した彼と永遠にいられるはずだ。夢の中の記憶を思い出して眠れば、続きを見ることができるだろうか。
しかし、記憶を探ろうとしてずきりと頭が痛んだ。その瞬間フラッシュバックする、現実世界での最後の記憶。父はあの朝、持っていた食器類を力任せに私の頭上へ振り下ろした。
痛みに慣れてしまった私ですら悶絶するほどの痛み。頭がかち割られたような気がして床に倒れ込むと、落ちた食器の破片が身体中に刺さった。いたい、いたい、いたい。
目の前が赤く染まりゆく。堪えきれない痛みに意識を手放しながら、さらに蹴られ、殴られた自分がいた。
呼吸が荒くなる。全身が恐怖で震え上がる。今にも父は病室のドアを開け、私に襲いかかってくるのではないか。逃げたい。どこへ?
――否、答えは決まっていた。私はこれが最後だと、今ある力の全てを出して手首に繋がった点滴の管を外し、目を閉じた。
——彼のいる場所へ、連れて行ってください。
きっとそこが私にとっての天国だと、そう思いながら。
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