化粧品⑦

「やっぱりなんでもない」

「おいおい、なんだよ。気になるだろ」

「ううん、なんでもない。気にしないで」

「お前な……」

 俺が食い下がろうとすると、沙優は「あはは」と声を上げて笑って、再び冷蔵庫を開けた。そしてビニール袋の中身を移し始める。

 なんだか、無性に腹が立った。

 話をうやむやにされたことに対してではない。いや、それも少しはあるが、一番気になるのはあの『笑顔』だ。

 何も面白くなどない癖に、あいつは笑うのだ。何かしらの目的を持って、笑顔を使っている。

 大人になれば、そういう人間はいくらでも見る。笑顔はビジネスにおいても、人付き合いにおいてもとても重要な要素だ。それを使いこなすことに何も問題はないし、逆に笑顔を上手く使いこなせない俺のような大人は、苦労をすることも多いと思う。

 ただ、そんな小賢しいことをまだ高校生の女子がしているのが、妙に気に食わなかった。

 子供は無邪気に笑えばいい。笑いたくない時に笑う必要なんて微塵もないではないか。

「無理に笑うのやめろよ」

 深く吟味するよりも先に、言葉が出ていた。

 沙優の動きが、ピクリと止まった。

「笑いたいときだけ笑えよ。俺はお前に常にニコニコしててほしいなんて思ってねぇ」

 俺が言葉を続けると、沙優はゆっくりと顔をこちらに向けた。顔には、驚いているとも、困惑しているとも分からない表情が浮かんでいた。困らせているかもしれない、と思いながらも、言葉は止まらない。

「いい加減、変に気を遣うのはやめろよ。ここはお前の家ではないかもしれねぇが……」

 どのみち、彼女の中で何かの整理がつくまでは、元の居場所に戻ることはないのだ。そして、俺が彼女を追い出すことも、きっとない。

「少なくとも、お前がいていい場所なんだよ。俺との約束さえ守ってくれれば、好きに過ごしていいんだ。だから……その、ごまかすみたいな笑い方はやめろ」

 最後まで言うと、沙優は視線を少し泳がせてから、困ったように、気の抜けた息を吐いた。そして、何度か、小さく首を縦に振る。

「うん……うん。ごめんなさい」

 沙優はそう言って、俺をじっと見た。

「吉田さん」

「なんだ」

「さっきね、私……『なんでそんなに優しいの?』って言おうとしたの」

 沙優はそう言って、少しだけ口角を上げた。そして、すぐにため息をつく。

「でも、そんな質問意味ないなって思って、やめたの」

「意味ないって?」

「吉田さん、もし今の質問されて、答えられる?」

 質問を質問で返されて、言葉に詰まる。

「いや……そもそも自分が優しいと思ったこともないしな」

「でしょ。だからね」

 沙優はそこで言葉を区切って、それから、にへらと笑った。

 その笑顔は、彼女の雰囲気にしっかりと馴染んでいた。きっと本来、沙優はああいうふうに、笑うのだろう。

「きっと、吉田さんは理由もなく優しいんだと思った。訊いてもしょうがないって」

「いやいや、そんなことは」

「あるんだって。吉田さんは、今まで会ったことのないくらい優しい人」

 沙優はきっぱりとそう言い切って、すたすたと俺のそばまで歩いてきた。そして、隣に腰掛ける。

「だから、吉田さんが嫌だって言うなら、やめる」

「……やめるって?」

 俺が訊き返すと、沙優はむっとした表情で俺の脇腹を小突いた。

「吉田さんが言ったんでしょ。『変に気を遣うな』っていうのと、『ごまかすみたいな笑い方はやめろ』って」

「ああ……」

「気を遣いすぎるのも極力やめるし、ごまかし笑いも、やめる。それでいい……?」

 沙優はそう言って、俺の目をじっと見た。身長差から、少し上目遣い気味に見つめられて、ドキリとする。

「ああ、そうしてくれ」

 目を逸らしながらそう答えると、沙優は隣でぎこちなく頷いた。

「でも……ごまかし笑いは、多分……クセになってるからさ。すぐには……」

「いいよ。分かってる」

 俺が頷くと、俺の横顔に沙優の視線がぶつかるのを感じた。あれだけ瞬時に表情を貼り付けるのだ。一朝一夕でああなったわけではないのは考えなくても分かる。

 きっと、それが必要だったから、そうしてきたのだろう。彼女を取り巻いていたそういう状況自体に、ふつふつと怒りが湧く。

「クセはそう簡単に矯正できないだろ。ゆっくりでいいよ」

「……やっぱり、優しいんだ」

「あのな、この前も言ったけど、基準を低く持つなって……」

「違うよ。これに関しては自信あるよ」

 沙優が、俺の言葉を遮った。そして、俺の手に、自分の手を重ねてきた。

「人を許すのって、そんなに簡単なことじゃないよ。私、今まで、他人にこんなに許されたことってないと思う。吉田さんは……優しいよ」

 沙優のその言葉は妙に重みを感じるもので、俺は自分が優しいと言われる違和感を覚えながらも、何も言えなかった。

「うんと……上手く言えないけど」

 沙優は、俺と手を重ねたまま、言葉を続ける。

「私、ずっと『吉田さんに迷惑かけないように』って思ってた。でも、ここに泊めてもらってる時点でもう大迷惑だよね」

「はは、違いねえや」

 俺が鼻から息を漏らすと、沙優もつられたようにくすりと笑った。

「だから、その考え方もやめる。これからは……」

 沙優はそこまで言って、俺の手をぎゅっと握った。

「こいつが来てよかったな、って思ってもらえるのを……目指そっかな」

 その言葉に、俺は思わず噴き出してしまった。沙優が隣でぎょっとするのが視界の端に映る。

「な、なんか私変なこと言った?」

「いや、変っつーか」

 こいつもなかなかにブレないなぁ、と思ったのだ。

 もっと、自分本位に、わがままでいればいいものを。なぜか、相手に何かを還元しないと気が済まないようだ。

「お前も大概、優しいよなって」

「え、ど、どこが……」

「教えねぇ」

「な、なにそれぇ」

 俺の返事に、沙優は大げさにむくれてみせる。その様子もなんだか子供じみていて可愛らしい。自然と笑いが漏れて、沙優の肩をぽんと叩いた。

「じゃ、今後も一層、家事に励むように。美味い飯を期待してる」

 俺が言うと、沙優は一瞬ぽかんとした後に、はにかんだように笑った。

「うん、期待しといて」

 そう言って、にへらと笑う沙優は、歳相応な柔らかい雰囲気で、とても自然だった。

 ずっと、そういう表情でいてほしい。そんなふうに思うのは、きっと俺のエゴなのだろう。

 だが、そう思わずにはいられない。

 それほどに、自然に笑っている沙優の表情は、魅力的だったのだ。

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