髭①

「吉田さん、髭」

 朝食に箸をつけたところで、唐突に沙優が俺の顎を指さした。

「あ?」

「髭、剃らなくていいの」

 沙優の作った目玉焼きの黄身を箸で割りながら、俺は答える。

「今日はいい。面倒だしな」

「あ、そう」

 沙優は味噌汁をずずと啜る。

「吉田さん、髭剃って行く日とそうじゃない日があるけど、なんか特別な意味あるの」

「ねえよ。伸びてきたら剃るだけ」

「今日のそれはまだ『伸びてない』なんだ」

 くすりと笑って、沙優は焼いたウィンナーを箸でつついた。

 言われて少し気になって、俺は自分の顎を指でこする。ジョリ、と音がして、指には堅いとも鋭いとも言い難い、なんともいえない感触が残る。

「ううん、やっぱり剃るかな」

「どっちだし」

 崩れた黄身を白身に絡めて、口に放り込んだ。

「なんというか。オッサンになったって感じがするよ」

 俺が言うと、沙優は首を傾げた。

「なんで?」

「いや、髭」

「髭が生えたから?」

「や、そうじゃなくて」

 俺は白米をかきこみながら、ううん、と唸った。よく咀嚼して、白米を飲み込む。

「二十歳になったばっかの頃は、髭がちょっとでも伸びてきたら気になって剃ってたんだよ。剃り残しがないかめちゃくちゃ気にしてな」

 それが今では、これである。

 汚らしく見えない程度であれば、髭が伸びてきてもあまり気にはならない。

「『髭』自体がオッサンの符号みたいな風潮あるけどな、なんとなく違う気がする」

 味噌汁を啜る。相変わらず、沙優の作る味噌汁は美味い。

「『髭を剃るのが面倒になる』のがオッサンなんだな」

「はは、でも若くても剃るの面倒臭いって思ってる人はいるんじゃない」

「それでも、剃るんだよ。面倒だと言いながら、剃る。歳を重ねて面の皮が厚くなってくると、剃らなくなるんだ」

「そういうものかなぁ」

 俺が喋りながらだらだらと食べている間に、沙優はすっかり朝食を食べ終えてしまった。

 両手を合わせて、ごちそうさま、と呟く姿は妙に様になっていた。

「ちゃっちゃか食べないと遅刻するんじゃない」

「そうだなぁ」

 頷いて、残りの目玉焼きを箸でつまんで、口に放り込んだ。半熟の黄身のまろやかな旨味と醬油が絡んで、口の中が幸せだ。

 沙優が来てからというもの、すっかり朝食を摂るのが楽しみになっていた。

 おかずも白米も平らげて、少しだけ残った味噌汁をずず、と啜る。

「ごちそうさま」

「お粗末さま」

 向かいで俺が食べ終わるのを待っていた沙優は、にへらと締まらない笑顔を見せた。

「お皿洗っとく。吉田さんは歯磨いたら」

「おう。ありがとう」

 言われたとおりに、洗面所に向かおうとしたところで。

「あ、そうそう」

 背中に沙優が声をかけてきた。

「ん?」

「吉田さんさ」

 彼女はテーブルの上の皿を重ねながら、視線だけこちらに寄越した。

「髭、あんまり似合ってないよ。剃ったほうがいいと思う」

「余計なお世話だ」

「ふへ」

 沙優は可笑しそうに肩を揺らす。

 俺はぼりぼりと背中を搔きながら、洗面所へと向かった。

 鏡に映る自分の顔は、妙にくたびれたような顔をしていた。

 この家に越してきたばかりの頃は鏡の自分に「今日も頑張ろうか」みたいなことを語りかけていたよなぁ、と思い出す。髭を剃って、顔を洗って。洗面所で毎朝気合いを入れていた。

「ううん」

 唸りながら、電動髭剃り機を手に取った。

「やっぱオッサンだわ、もう」

 呟いて、髭剃りのスイッチを入れた。

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