カツカレー②

 俺はすぐに返事ができず、口をぱくぱくとさせながら、助けを求めるように橋本に視線を送る。橋本は失笑して、俺の背中をバシンと叩いた。

「良いに決まってるじゃないですか! 社食ですけどいいですか?」

 橋本がにこやかにそう言うと、後藤さんは嬉しそうに微笑んで、首を縦に振った。

「もちろん」

「じゃ、行きましょうか。……ほら吉田、ボサッとしてるんじゃないよ」

「あ、ああ……」

 急展開についていけずにポカンとしていると橋本に再び背中を叩かれる。

「……話すチャンスでしょ」

 俺にだけ聞こえるほどの小声で橋本がそう言ったのを聞いて、俺は小さく頷いた。

 確かに、後藤さんにフラれてからというもの彼女とまともな会話は一度もできていない。これは橋本が拾ってくれたチャンスだ。

 覚悟を決めて、社内食堂へと向かった。


   *


「意外と、ガッツリしたもの頼むんですね……」


 カツカレー定食をテーブルの上に置いた後藤さんに橋本が苦笑しながらそう言うと、後藤さんはおどけたように首を傾げてみせた。

「いつもじゃないのよ? 今日はお腹すいてるから」

「……いつもはちんまりしたコンビニのサラダですもんね」

 俺が小さな声で口を挟むと、橋本があからさまににやにやした。

「ほう、吉田君、よく見てますなぁ」

「さ、サラダしか食べないのはさすがに目立つだろ。体重とか気にしてそうな女性社員だっておにぎりくらいは食ってるよ」

「ふふ、他人のご飯をよく見てるのね」

「う……」

 卑しい行いを指摘されたような気分になって、少し顔が熱くなった。

 バツが悪くなって、習慣のように何も考えずに注文した中華麵をすすった。安っぽい味だが値段に見合った味だと思うし、詳細に説明はしづらいが、なんともこの安っぽさが好きだ。「これは醬油スープです」というようなわざとらしい醬油味が口の中に広がって行くのを感じながら、ゆっくりと咀嚼した。

「最近さぁ」

 カレーのかかったカツを嬉しそうに頰張った後に、後藤さんが俺にちらりと視線を寄越しながら口を開いた。

「吉田君、定時ぴったりに帰るよねぇ」

 口ずさむような口調でそう言った後藤さんだったが、俺は妙にドキリとしてしまった。後藤さんが俺の帰る時間を気にかけていたのが若干嬉しいこと、そして、俺が定時で帰っている理由に多少の後ろめたさがあること、等々様々な思考が胸の中で渦巻く。

「いや、まあ最近ちょっと仕事の調子良くて……スムーズに仕事が終わるんで、早く帰れちゃうんですよね」

 俺が目を逸らしつつそう言うと、後藤さんはくすりと笑った。

「前は自分の分の仕事が終わっても他の人の分を手伝い始めちゃって、帰るに帰れなくなるってパターン多かったのにね」

「うっ……なんでそんなことまで」

 確かに、以前はそうだった。正直、一日の自分の仕事量だけであれば毎日問題なくこなすスキルは身についていると自負している。しかしこの職場は関わるプロジェクトや本人の扱える技術の量によって仕事の量が個々人でかなり差が出てしまうのだ。なので、自分よりも忙しそうにしている社員がいるとついヘルプに回ってしまっていた。

 しかし、最近そうしない理由は、完全に家にいる女子高生である。

 仕事中は仕方ないとはいえ、家に自分以外の、しかも未成年がいるとなると「早く帰って様子を見なければ」という妙な使命感に駆られてしまうのだ。そういったわけで、最近は自分の仕事を素早く終わらせて、自分が主導しているプロジェクトに関わっている社員の進捗を確認したら定時で退社するようにしている。

 しかし、後藤さんが俺の退社時刻をそこまで詳細に観察していたのはいろいろな意味で驚いた。まあ、彼女は俺の上司にあたる人物なわけで、俺に限らず多くの社員の労働状況に気を配っているのかもしれないが、少なからず自分に気を配ってくれていたのは少しこそばゆい気持ちになる。

「急に帰るのが早くなったから、少し気になっちゃって」

 後藤さんはそう言いながら、またカレーを頰張った。唇についたカレールーをペロリと舐めとる様子が妙に艶めかしく、俺は慌てて目を逸らす。隣で橋本が小さく笑ったのが視界の端に映った。おい、なに笑ってんだ。

「やっぱり上司が残ってるのに俺だけ定時で帰るのは、周りから見ても気になりますかね」

 俺が言うと、後藤さんはきょとんとしたように何度かまばたきをしてから、破顔した。

「そういうことじゃないわよ。むしろこの会社で定時に堂々と帰れるってことは仕事ができる証拠でしょう」

 その言葉に、俺は少し舞い上がった。上司に仕事を褒められるのはいつだって嬉しいし、憧れの彼女にストレートな言葉で認められるというのは妙に気持ちが良い。だからこそ、一番警戒すべき質問に、ノーガードになってしまった。

「それよりも、その理由が気になるわよねぇ。……恋人でもできた?」

 むせた。啜りかけの麵を吐き出しそうになるのをこらえて、慌てて咀嚼する。飲み込んでから、一呼吸おいて。

「恋人なんてできるわけないじゃないですか! だって俺……」

 あなたに告白したばかりですよ、と言いかけて、口をつぐむ。なかなかの音量で声を発していたことに気が付いたからだ。隣のテーブルに座っていた数人の社員が横目でこちらを見ているのに気が付いて、咳ばらいをする。

「だって俺……なに?」

 後藤さんはにまにまと笑いながら首をかしげて見せる。明らかに意地悪をしにかかってきていた。

「勘弁してくださいよ……」

 俺が言うと、隣の橋本がわざとらしく「くっくっ」と声を出して肩を揺らした。

 後藤さんも可笑しそうにくすくすと笑ったが、それでも質問をやめる気はないようだった。

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