カツカレー①

 沙優がやってきてからというもの、自宅での生活環境が目に見えて変化した。

 まず、朝家を出る前と、仕事から帰ってきた後に、必ず飯が用意されている。これはとてつもない変化だ。以前は自炊は気まぐれ、急に何かがどうしても食べたくなった時にスマートフォンでレシピを調べながら作ってみたりする程度だった。それ以外は基本コンビニで適当に買ってきたり、朝食に至っては摂らない日の方が多かった。

 そして、自分ではなかなか面倒で週末に嫌々行っていた洗濯を、彼女が毎日やってくれているのもかなり大きい。仕事で着るワイシャツも、平日に洗濯やアイロンがけをするのが億劫すぎて、5枚と予備で2枚も買い揃えているほどだ。しかし今は洗濯はほぼ毎日行われているし、しかもアイロンがけまでしてあるときている。洗濯を自分でしなくていいということがここまで快適だとは思わなかった。

 自宅での生活が変わると、職場でのコンディションも自分で分かるほどに変化した。

 朝食を食べているおかげか、始業時間直後から妙に頭が働くし、昼食前に強い空腹感が襲ってくることもないため昼休み直前まで集中が持続する。そして、これは完全に気分の問題であると思うが、しっかりとシワの伸びたシャツを身に着けていると妙に気分がしゃんとした。

 奥さんいるやつらって、毎日こういう気分で仕事してたのかな……。

 キーボードを叩きながら考える。

「こういう気分、ってどういう気分のことだろうな」

 隣の橋本が画面を見つめたまま唐突に口を開いた。

「は? 何がだよ」

 訊き返すと、橋本は失笑してから俺を横目で見た。

「もしかして無意識? いま一人で『奥さんいるやつらって~』って呟いてたけど」

「あっ、え? まじか」

 慌てて口元を押さえると橋本はくつくつと肩を揺らした。

「毎日家事をやってくれる人がいるのはありがたいよなぁ」

 見透かしたようにそう言って、橋本は肩をすくめた。

「正直僕はもう一人暮らしをしていた時の家事の苦労があまり思い出せないよ」

「喉元過ぎればってやつだな」

「そうかもねぇ。まあ吉田の場合は自分でもある程度はやっとかないとね。いつまでもその子がいてくれるわけじゃないんだしさ」

 橋本の言うことはもっともだが、妙に上から目線な発言に少しムカッときた。

「お前だって、いつまでも奥さんがいてくれるとは限らねえだろ」

 苦し紛れにそう返すと、橋本はへらへらと笑って掌を振った。

「いやぁ、死ぬまで一緒じゃないかなぁ多分」

「そうですか……」

 橋本がなんだかんだで愛妻家なのは知っていたが、こうも堂々と惚気られると何も返す言葉がない。

「まあでも本当に、しっかり家事とかしてくれてるんだね」

 橋本はキーボードを叩く手は止めないまま、声の音量を抑えつつそう言った。

 職場の中で、唯一彼にだけは沙優がうちに来てからの経過を話している。そもそものところ、沙優を家に置いていることを話しているのが橋本だけなのだ。他にこんな話をできる相手もいない。

「俺が頼んだ以上によくやってるよ」

「家出少女って言うと割とちゃらんぽらんなイメージあるけど、そういうところはしっかりしてるんだねぇ」

 橋本のその言葉に、俺も何度か首を縦に振った。

 正直、沙優は俺の想定の何倍以上も真面目に家事をこなしていた。家に置き始めて数日は、張り切っていたからあれほどの出来だったのかと思っていたが、実際はそうではなかった。家事を任せた日から、毎日同じだけの仕事量を継続しているのだ。正直「家出少女」というイメージからは程遠い。

 思った以上の働きに感心するのと同時に、彼女のキャラクターがさらに曖昧にぼやけていくのを感じていた。容姿も、俺の好みではないが、まあかなり良い方だ。家事もできる、愛想もいい。彼女はなぜ、家出をして、はるばるこんなところまで来てしまったのだろうか。その理由は、俺の頭では想像すらつかなかった。

「眉間、シワ寄ってるよ」

 橋本に声をかけられてはっとする。

「急にそういう顔するんだもんなぁ、びっくりするよ」

「いや……すまん」

 もごもごと口の中で返事をすると、橋本は鼻を鳴らして、壁かけの時計を顎で指した。

「メシ行く?」

 つられて時計を見ると、もう時刻は13時を回っていた。この辺りの時間になると、皆昼食に出かけ始める。

「そうだな……ちょうど、この行書ききったらキリのいいところだし、行くか」

 言いながら俺はキーボードを叩き、プログラムを打ち込んだ。一旦保存し、バックアップを取り、そしてPCをスリープ状態にする。

 橋本の方を見ると、彼も同じ作業を終えたようで、脱いでいたジャケットを羽織った。軽く頷き合って、席を立つ。

「昼、行ってきまーす」

 橋本が気の抜けた声でそう言うと、近くの席の社員から「いってらっしゃい」と気のない声が返ってくる。

 俺も続いて昼抜けを宣言すると、少し離れた席に座っていた後藤さんと目が合った。

「あっ」

 後藤さんは小さく口を開けてから、慌ただしく席を立った。

「私も、お昼いってきまーす」

 そう言って財布を持って立ち上がる後藤さんに少し違和感を覚えながらオフィスを出る。後藤さんはいつももう少し遅い時間に昼休憩をとる人だが、今日は特別腹が減ってしまったのだろうか。

「今日は外? それとも食堂?」

「特に食いたい気分のものもねえしなぁ、食堂でいいかな」

 俺が答えると橋本は頷いて、わざとらしく敬礼のポーズをした。

 後ろからカツカツという足音がして、なんとなくその音を聴いていると、俺たちに追いつかんとするように歩調を強めてくるのを感じた。何かと思い振り返ると、思った以上に近距離に後藤さんの顔があり、思わず飛びのいてしまう。

「うわ、後藤さん」

「うわ、ってなによ」

 俺の反応に後藤さんはくすくすと笑って、髪の先を揺らした。

「ご飯行くんでしょ?」

「行きますけど」

「私も一緒にいいかしら」

「え」

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