第50話 死臭
【ノエル 現在】
不思議な感覚がする。
もうこれで、僕の苦しみの何もかもが終わるかもしれない。
それは、負けて僕が死んだ場合だ。
勝ったとしても、実際にどうなるのかは解らない。僕の苦しみは死ぬ意外の方法で終わらせる方法は存在しない。
――いや、違う
僕以外の生き物すべて、苦しみもがきながら、それでも幸せになることを願って前に進み続けている。
僕は死ぬのなら、諦めて悲しみの淵で絶望しながら死ぬのではなく、沢山の大切な者たちに囲まれて笑って逝きたい。
死ぬための生ではない。
生きる為の死だ。
僕はなんだか眠れずに自分の部屋の天井を見上げて、息をゆっくり吐き出した。
――息……してる……
僕は生きていた。
魔女に拘束されて死んだように、死ぬことを許されずに生きていたころとは違う。
僕は自分の選択で生きている。
目を閉じると今まであった色々なことが思い浮かぶ。
一番に思い出すのはご主人様のことだ。身体のことをずっと気にかけていたけれど、僕が傍に居なければずっと生き続けられると知って、物凄く悲しい反面、自暴自棄になっていた彼の人生がこれから始まるのだと思った。
――僕が隣にいない人生……
思い起こすと、ご主人様は僕を探してくれていた。
彼の意思などくみ取る隙は少しもなかった。ガーネットの気持ちを汲み取れなかったのと同じように。
僕は、僕が傍にいない方が幸せだと決めつけているのではないか。
――でも、命をなげうってまで……僕がいた方が幸せだなんて……
生きていてこそだ。
生きているからこそ、苦しみも感じるけれど、それ以上に幸せを感じることができる。
セージが僕を殺さなかったことで幸せだったと言ってくれたことも
アビゲイルが元の身体に戻って、姉のシャーロットと笑いながら食事をしていることも
レインが元気になって、楽しそうに未来を語ることも
リゾンを何度も死に損なって、死んだような目から生き生きした目になってくれたことも
ガーネットが生きて、“好き”という感情を解ってくれたことも
全て生きていてくれたからこそだ。
――だからやっぱり、生きていてくれた方がいい……
本人がどれだけ死に急ぐ結論を求めていたとしても、生き続けていればこそいいことがある。
「………………そう、信じなきゃ……」
ご主人様のいないこの先の未来に、本当に僕の幸せはあるのだろうか。
堂々巡りのその考えに、僕は結局眠れなかった。その間僕は手の鎖や枷をずっと触ってその硬さを確かめていた。
◆◆◆
僕の杞憂も知らずにいつものように日が昇る。
しかし朝日の眩しい日差しを受けることなかった。分厚い雲の曇天だ。
眠れなかったが、それ以外にもなんだか意識がはっきりしない。どこか夢の中にいるような感じだ。
――なんだか……ぼーっとする……
頭を押さえる為に、自分の腕をあげて手を顔の前に持ってきたときにその違和感に気づく。
慌てて飛び起きて自分の爪を確認すると、僕は絶句した。
爪はガーネットの爪の鋭さと変わらない程に鋭くなっており、牙も触ってみると前より圧倒的に鋭くなっていた。
――これは……
ガーネットの首の羽の部分を確認しようとしたが、ガーネットやクロエは食事を獲りに行って留守にしていた。
首の羽を確認する間でもない。相当に同化が進んでしまっている。意識がはっきりしないのも、自我を失いかけている兆候なのではないかと僕は青ざめる。
――ゲルダのところへ行くのを遅くするか……いや、駄目だ。いつアレが街からでてご主人様の命が危ぶまれるか解らない……
僕がなんとか落ち着きを取り戻すと、意識も徐々にしっかりとしてきた。
――うん……大丈夫。大丈夫だ……
自分に言い聞かせながら、息を吐き出す。
一階に降りるとキャンゼルは相変わらず眠ったままだった。決戦に連れていくことはできないだろう。そんな彼女の傍らで、アナベルはつまらなそうに飴を舐めている。アビゲイルもキャンゼルの看病をしている。彼女もまだ幼く、連れていくことは出来ない。
「シャーロット、いいかな」
僕はシャーロットを呼び出して、彼女の部屋で話を始める。
シャーロットのと僕の部屋の違う点は、窓がついていて外の光が入ってくることと、花が花瓶にいけてあることくらいだろうか。
「僕がゲルダに勝てなかったら、レインをお願いね」
「…………はい」
長めの沈黙の中には、彼女の言いたいことが全て含まれているようだった。
「そんな顔をしなくても、僕は大丈夫だよ。シャーロットがいなかったらここまで来られなかった。ありがとう」
「そんな……別れの言葉のようなこと、言わないでください」
泣きそうな顔をしているシャーロットに僕は苦笑いを向ける。
「レインと顔を合せなくてもよいのですか?」
「…………そうしたいけど、そうしたら、僕は戦いに行けなくなっちゃうかもしれないから。泣いてるレインの姿はいたたまれないからね」
「なら、泣かせないようにしてください」
「うん。シャーロット……解ってるね?」
「ええ……解っています」
もしものとき、有事のときはすべて彼女に託してしまっている。その「解っています」は僕が求める全ての意味を含んでいた。
その言葉を聞いて安心した僕は、安堵の笑みを浮かべた。
「雨が……降りそうですね……」
シャーロットが窓の外を見ながらつぶやく。確かに分厚い雲が空を覆っているようだ。
「そうだね……。僕はリゾンと話をするから。行く準備をしておいて」
「はい」
彼女の背中には哀愁が漂っていた。
彼女も僕と同じでずっと虐げられていた魔女だ。その決着を今日つけることになるのだろう。
僕は彼女を見送った後に自分の部屋へ足を運び、異界にある自分の羽を通して魔術で繋げた。部屋一面に僕の羽を中心に四方八方の映像が映し出された。
僕の部屋と同じ暗い部屋だ。
蝋燭の炎の心許ない明かりでかろうじてどこなのかが解った。
僕の羽はリゾンの手首に装飾品としてつけられているようで、リゾンの腕を中心に周りが見える。どうやら魔王城の書斎のような場所で書類を作成している様だった。
「リゾン、今いいかな?」
「貴様か……いきなり魔術を発動させるな。私が入浴中だったらどうするつもりだ? それよりも遅いぞ。何をしていたらそう遅くなるのだ」
今いいか聞いただけなのにもかかわらず、2つの文句がリゾンから浴びせられる。
「リゾンの入浴の予定なんて知らないよ……」と口に出す寸前だったが、その言葉を飲み込み本題に入る。
「実は予定が変わったんだ。これから女王を討ちに行く」
「はぁ? なんだそれは、いつ決まったんだ?」
「昨日」
リゾンは頭を指で軽く押さえる。明らかに呆れているような仕草だ。
「馬鹿なのか貴様。変化があったら逐一連絡しろ」
「女王と戦うのは僕なんだから、別にいいでしょう」
「馬鹿者。私が頭の足りないお前の代わりに計画を立てたのだ。勝手に1人で死にに行くな」
「死にに行くわけではない」と内心思ったが、反論する気力がない。それよりも、変化があったら連絡しろなどといって、そちらの変化の様子は全く伝わっていないという点が一番腑に落ちない。
リゾンなら僕に連絡をする為の魔術もできるはずなのに。
「……その計画、いつ立ったの?」
「昨日だ」
その真面目な言いぐさに僕は思わず笑ってしまった。
僕が失笑したのと同時にリゾンもニヤリと笑う。
「もしかして、からかってる?」
「あぁ。やっといい面構えになったな。先ほどまで目が死んでいたぞ」
自覚はなかったが、どうやら目が死んでいたらしい。鏡がないので自分の顔を見る機会がなかったが、寝不足も相まって相当酷い顔をしていたようだ。
リゾンが気遣って僕を笑わせてくれたのだと思うと、僕は苦笑いをした。
「ごめんごめん。独りでいると色々考えちゃってさ……」
いつもそうだ。独りでずっと考え事をしていると、どうしても暗い方向に考えてしまう。
「湿気た面をするな。それで計画だが、やはり満場一致で魔族もお前に加勢することにした。魔女の女王に力は及ばずともお前の援護くらいはできる。他の魔女が行く手を阻んだ時にお前の体力を温存しながら進行できるだろう?」
「でも……魔術は数で押せば勝てるって相手でもないよ」
「魔術をある程度使える者や、少しの魔術では生命を脅かせない者を連れていく。それに、お前が途中で戦えなくなったら誰が助けに入るのだ。お前と同等か、あるいはそれ以上の力を持つ魔女など私たちだけでは手に負えない。お前に倒れられては困るのだ」
なんとかして断ろうと色々を思考を巡らせて言葉を考えたが、そう考えている内にもリゾンは様々な提案を次々としてくる。
これでは僕の言い分を聞き入れてくれないと、僕は早々に諦めた。
「お前の眷属の吸血鬼に行っておけ。魔族が役立たずかどうかよく見ておけと」
「わかったよ……ありがとう。それで、いつ頃こっちに来られそうなの?」
「すぐだ」
リゾンが書類をその辺に放り出し、魔王城の中を移動する。リゾンが扉をあけると、僕と各種族長たちが会議をした部屋に、同じように各種族長たちがいた。
扉が開いたと同時に「いつまで待たせるつもりだ、リゾン」という趣旨の種族長の文句が入る。
「(むこう……世界……行く……)」
そう言うと各種族長が「やっとか」と次々と立ち上がった。どうやら準備は万端という様子だった。それぞれが分厚いローブのようなものを纏って肌を出さないようにしているようだ。
「ずっと待たせていたの?」
「そうだ」
ずっと待機させていたなんて、滅茶苦茶だと感じた。
頭はいいが、他者の苦労を
いつも緊張感がないとガーネットに罵倒されている僕ですら、かなり緊張しているのだから。
各種族長を連れて、先頭を歩くリゾンは魔王様のいる大広間に足を踏み入れた。魔王様と映像の僕は一瞬目が合い、会釈する。
「リゾン、行くのか?」
魔王様は心なしか不安げな声をリゾンへかける。
「あぁ」
「必ず勝ってきなさい」
「無論だ」
そう言って正面扉を開けるリゾンは、以前よりも姿勢が伸びていて胸を張っているように見える。
扉が開くと、大勢の魔族が魔王城の前の広間に集まっていた。数は僕が演説したときよりも少ないが、百以上はいる。
扉が大きく開くと、一斉に彼らはリゾンの方を向いた。
「(向こうの世界……行く……立て!)」
リゾンの掛け声と同時に、座っていたものも全員立ち上がった。龍族や吸血鬼族も何人もいる。中にはエルベラやヴェルナンド、レインの父の姿もあった。
「空間移動の負荷に耐えられる屈強な種族と精鋭のみ召集している。あと紫外線とやらの対策も十分だ。移動手段も馬車というものを模倣した。これによって俊敏な移動が可能だ」
魔王城の階段の下にスレイプニルという馬のようなものを待機させていると言う。流石の用意周到ぶりだ。それならこちらでの移動手段も万全だ。
「そう。幸いにこっちは天気が悪いから、そう紫外線は強くないよ」
「なら好都合だ。もう間もなくしてそちらへ移動する。少しばかり待っていろ。ノエル」
「あ……名前……」
「私に名前で呼ばれたからと言って、自惚れるな」
そう言っているリゾンに笑いかけると、なんだか彼は照れているようだった。
微笑ましい気分で僕は通信を切る。
――名前、やっと呼んでくれた……
そう考えた矢先、ご主人様のことをすぐさま思い出す。
僕は彼の名前を知らない。
それに、彼は誰の名前も呼ばない。
誰も彼の名前を知らない。
――ずっと聞けなかったけど……異界に行く前にせめて、名前だけでも知りたい……それくらい、いいよね……
最後のお別れだけはしよう。こんな気持ちのまま、異界に行けない。
――大丈夫、ほんの少し会うだけ……最後の別れを言わないと……
戦いの後ご主人様に会うと決めた瞬間、僕の喉元につかえていたものが取れた気がした。
すると途端に気持ちが軽くなる。
名前を聞くまでは死ぬわけにはいかない。
そう決意を新たにしていると下から僕を呼ぶ声が聞こえた。
どうやらガーネットとクロエが帰ってきたようだ。先ほどリゾンと話していたことも説明しなければならない。
「はーい」
さきほどまで不安に包まれていた僕は、明るい気持ちになってきた。
大丈夫だ。僕には心強い仲間がいる。意識も今ははっきりしてる。もう少し、ゲルダを倒すまでは大丈夫なはずだ。
――もう1人じゃない
僕は暗い自分の部屋を出た。
◆◆◆
【ノエル主 現在】
馬に乗って魔女の女王がいる街へ俺は移動していた。
道はあっているようだ。そこかしこに途中で息絶えた人間や魔女の屍が転がっている。
医者が言っていたよりも早くその場所へ到着しそうだ。天気が悪いのが気にはなっているが、いまのところまだ雨が降り出す気配はない。
途中で水飲み場を見つけた俺は、馬を少し休ませるために休憩をしていた。
俺もずっと馬に乗っていると流石に疲れる。普段は運動など全くしないため、不慣れなことをすると尚更疲れてしまう。
「!」
水飲み場で急に水浴びをしていた龍が、首をもたげてある方向を見つめる。
「どうした?」
「魔族の気配がする……それも大勢。移動しているみたい」
「なんだと?」
「ノエルの気配もする! まだ遠いけど……あっちの方」
俺が馬で向かっていた方向よりも若干西側を指す。
辺りに目印になるような物もないため、林や森、砂漠の砂の山などの僅かな情報を頼りに進んでいたせいか、少し方向がずれていたらしい。
「やっぱり女王と戦うんだ……ノエル……」
「女王の街まであとどのくらいだ?」
「この馬だと……日が落ちる前くらいじゃないかな」
馬に無理を強いることになるが、俺は休ませている馬に再び跨り、龍も肩に乗せた。
「行くぞ。方向を案内しろ」
俺は再び馬を走らせ始めた。妙な緊張感が走る。
馬を調達してからすぐに出発したが、もしかしたら間に合わないかもしれないという焦りが俺の中で膨らんでいった。
――魔族と魔女の対戦なんて、歴史上の話かと思ってたぜ……
馬は必死に足場の悪い砂を蹴り上げ、前へ進んでいった。
◆◆◆
【ノエル 現在】
僕、ガーネット、シャーロット、アナベル、クロエを先頭に、後ろを魔族が続く形で僕らは移動していた。
僕とガーネットがキナに乗って移動し、他はリゾンが連れてきた馬車で移動している。
異界に生息する馬の代わりの生き物は、馬には似ているが通常の馬よりも屈強な対骨格をしていた。
一番の違う点は足の数だ。
普通の馬が四足だとしたら、スレイプニルという種族は足が八足だ。改造されたわけではないだろうが、キナのような移動に特化したような体格をしている。
移動速度も思っていたよりも速く、女王の街に予想していたよりも早くつきそうだ。
――妙に緊張する……
こちらに初めてきたリゾンや魔族たちは、こちらの風景を物珍しそうに見ていた。
若干息苦しそうにしていたが、リゾンが選んだ精鋭たちはそれほど苦にしている様子はない。
反射している紫外線も今日はそれほど多くなく、対策もしっかりしている彼らの肌は腫れている様子もなかった。
リゾンもしっかりと肌を隠すような服を着て、顔には見慣れない仮面を被っている。もはや髪の毛の色でしか判別ができない。
キナは見慣れない魔族に怯えながらも僕らを乗せて懸命に走ってくれていた。
「見えてきたな……」
ガーネットはそうつぶやいた。
キナに気を取られていた僕が前方を見ると確かに女王のいる街が見えてきた。視界に街が入ると、僕は更に緊張が走る。
「………………なんだか、酷い匂いがする……」
「あぁ……死臭だ……」
間もなくして街につくと酷い有り様だった。
ゲルダがあのときに滅茶苦茶に壊したからだろうが、もう建物という建物が形を残していなかった。
ただ唯一存在しているのは本拠地の魔女の城だけだ。
それもかなり様子がおかしい。
遠巻きに見て、城の原型はギリギリ保たれている程度だ。それよりもおかしいのは、僕が初めて入ったときは青を基調としている美しい城であったはずなのに、今やその姿はなくおどろおどろしいどす黒い赤色をしていた。
遠くからでも観察できるように魔術で城の様子を映し出して魔族に見せた。
僕も城の姿を間近で見ると、反射的に眉間にしわが寄る。
「これは…………肉だ……残っている壁に肉がまとわりついてる。脈打ってるのが解る」
その肉は城の外側へ向かってジワジワと増えているようだった。目や口、手や足などがいくつもその肉から出て
異界の過酷な環境でも、これまで醜悪な場所はないだろう。魔族たちもこれには表情を激しく歪める。
「ひでぇ……」
クロエは嫌なことを思い出したのか、物凄く嫌そうな顔をした。
肉の腕がうねうねと不気味に手招きするように動いている。
「なんだあれは……よもやどこが本体なのか解らないではないか」
「どんどん膨張してるみたいです……触れない方がいいでしょう」
「げぇっ……気持ち悪い。流石のあたしもドン引きだわ」
アナベルは喜ぶかと思ったが、彼女にとってもこれは気持ち悪いようだ。これは誰が見ても気持ちが悪いだろう。
「……行こう」
街の中もどこからか襲われないか警戒しながらも僕らは進んでいくと、そこかしこで強い死臭がした。あるのは死体ばかりだ。
「アナベル、ここの死体を全部操ったらすごいことになるんじゃない?」
「腐敗が進みすぎてるわね。動かす筋肉が残ってなさそう。保存状態が悪すぎるわ」
確かに骨だけになっているものすらある。これでは流石に動かせないのだろう。
生き残っている魔女や人間が少しはいるのかとは思っていたが、どこまで進んでも誰もいない。瓦礫の中に埋もれているものも含めたら相当な数になるだろう。
慎重に城の前まで進んだが、特に何か仕掛けてくる訳でもなく、難なく城の前に到達した。
何本かあった橋は一本を除き全て崩れ落ち、その残りの橋の一つも肉がまとわりついてドクンドクンと脈打っている。
――血が通ってるのか……
迂闊にその肉塊に向かって攻撃もできない。
攻撃した瞬間に肉が一斉に向かってくるかもしれない。
そう考えていたが、橋の間近にきて解ったが魔術壁が張ってあり、その中から出られないようになっているようだ。魔術壁の内側になんとか肉が収まっている。
「これは……」
「あたしが作った術式よ。万が一のことを考えて、有事のときは内側から出られなくなるようにする自動発動型の魔術式が発動したみたい」
「……随分用意周到だね。アナベル」
僕の怪訝な表情に気づいたアナベルは相変わらず軽く返事をする。
「当然でしょ? まぁ、これはゲルダ様の部屋にある処置をする為の魔道炉が破損したときに発動するの。襲撃に備えた魔術だったんだけど……」
「襲撃って、何からの?」
「あんたの」
全く遠慮なく僕の方を横目で見ながらアナベルはそう言った。
「なるほどね……」
ゲルダのものらしき肉が魔術壁に隔たれてかろうじて出てこられない様子だったが、いずれ魔術壁は壊れてしまいそうだ。
「魔術壁もそう長くは持たなそうね」
「これ、外からは入れるの?」
「入れるわよ。でも……魔女だけしか入れないのよね」
「なにっ!?」
それを聞いたガーネットが、驚いたように声を上げる。リゾンもそれと同時にアナベルに抗議する。
「おい、それでは我々が入れないではないか」
「そんな怖い顔で見ないでよ。この魔術のこと忘れてたのよ。随分前に作った魔術式だし」
「なんで魔族は入れない仕様になっているの?」
「魔族の襲撃にも備えてるのよね。翼人と戦争してた頃に作ったものだから。だから有事のときに逃げ込めるようにもなってる。だから魔女は入れるけど魔族は入れない仕様にしたの。まぁ、とどのつまり、これを解除するにはあたしがその魔術式を変更する必要があるってこと。虎穴に入らずんば虎子を得ずって感じね」
「破壊したらいいだろう」
「おバカさんね。もうこの得体のしれない肉塊が勢いよく外に飛び出してごらんなさいよ。この世の崩壊が早まるわ」
迂闊に壊したら得体のしれない肉が出てきてしまう。アナベルの言う通り壊すのは得策ではない。
リゾンが魔術壁に触れるが、空気の壁に触れているように全く入れる気配がなかった。
「ちっ……これでは来た意味がないではないか」
彼は悔しさを滲ませる。
他の魔族も試してみるが、やはり入れない。魔族たちは狼狽を隠せない様子だった。
「リゾン、魔族たちはここで待っていてくれない? 僕とクロエ、アナベルで入る。ガーネットとシャーロットもここで待っていてほしい。アナベルが魔術式を変更して、入れるようになったら入ってきてほしい」
「納得できない。先に腐った魔女を行かせればいいだろう。お前ひとりを行かせるわけにはいかない」
「駄目だ。アナベルしか魔術式を変えられないなら、彼女を僕が守らなければならない」
「だが……」
「ガーネット……入れないんじゃ仕方ないよ」
「………………」
ガーネットが意を決したようにその魔術壁へ手を
当然のように魔術壁は彼を拒んだ――――かと思われた。
彼はアナベルの言ったようにはならなかった。
ガーネットの手は魔術壁を一度すり抜ける。彼自身も意外だったのか、すぐに手を引いた。
僕とアナベルは驚いて目を見開いてガーネットの方を見た。
「え……」
「お前と契約している私は入れるようだな」
僕と契約しているからだろうか。
あるいは、同化が進んでいる僕らは魔族と魔女の境界が曖昧になっているのかもしれない。
ガーネットの首の部分を確認しようとしたが、服と髪で隠れていて見えなかった。
「私はお前と共に行く。先に血を飲ませておけ。いつ傷を負うか解らない」
「そう、解ったよ……じゃあ他の魔族に詳細を説明してくれる?」
「あぁ」
ガーネットがリゾンと共に他の魔族にそれを説明しているときに、僕はシャーロットに目配せした。
シャーロットは暗い表情をしている。
「よいのですか……?」
「うん……やって」
シャーロットは魔術式を構築して、ガーネットにかけた。
身体の周りに複雑な式が浮かび、彼をぐるりと包み込む。
「なんだ!?」
するとガーネットの口や目、皮膚から血が溢れて出てきた。
それはあまりに痛々しい光景だったが、僕は目を逸らさずにその光景を見つめる。
「何……!?」
「ガーネット、動かないで」
ガーネットは僕の命令通り動けず、ガーネットはひとしきり血を吐き、皮膚から出た血も口から出た血も空気に蒸発し、分解してなくなった。
彼は息を切らしながら膝をつく。
「裏切る気か!? ノエル!!!」
「何やってんだお前!?」
リゾンが僕に爪を向けた。他の魔族も僕に対して敵意を露わにする。
クロエも驚いて僕の肩を乱暴に掴む。アナベルだけはシャーロットが展開した術式を見て「ふーん……」と声を漏らす。
「違うよ。ガーネットをよく見て」
ガーネットは普通に立ち上がった。自分の手を確認したり、顔から出た血を確認するがもう残ってはいない。
別段身体に変調がないようで、不思議そうにこちらを見ていた。
ガーネットが何をされたか気づく前に、僕は魔術壁の中に入った。シャーロットとクロエ、アナベルも引っ張って肉を避けながら魔術壁の中へと引っ張りいれる。
それを見てガーネットは恐る恐る、自分の首に手を当てて確認した。
「!」
彼は勢いよく中に入ろうとしたときに、魔術壁で阻まれた。
「ノエル! どういうことだ!!?」
ガーネットは魔術壁を力いっぱい叩いているようだった。
しかし僕はその手の痛みを感じることはない。
僕は彼に契約を強引に破棄させたのだから。
「契約はもう終わりだよ。ガーネット」
できるだけ、軽く僕はそう言った。
ガーネットはそれを聞いて何かの聞き間違いなのではないかという表情を一瞬した。
その哀憐をまとう表情は一瞬にして僕の脳に焼き付く。
自分がどれだけ彼を傷つけたのか、否応にも実感する。
「何故だ……!? 共に女王と戦い、お前といかなる命運を共にすると決めていたのに……!」
必死にそう言うガーネットの姿を見て、僕はどう答えていいか解らず苦笑いをするしかなかった。
「…………僕のこと、好きになってくれたから」
「何を言っているんだ!? ふざけているのか!?」
何度も何度も魔術壁を叩く。強く叩きすぎて彼の白い肌は赤くなってしまっていた。どれだけ強い力で叩いているのか、その姿を見れば痛いほど解った。
「僕と一緒に死んでほしくないんだ」
「死んだりしない! ふざけるな!! それでは……お前が死ぬようではないか!? そんな物言いはやめろ!!!」
「死ぬっていうのは、生命の死だけじゃない。自我を失うことも死と同じだよ」
「私もお前も自我を失ったりしない!! 何故だ……!? あと少しだと言うのに……!!!」
泣きそうな声でガーネットは必死に僕に訴えてくる。
シャーロットはいたたまれないようで顔を逸らし、クロエもアナベルもその姿を黙って見ていた。
「好きになってくれてありがとう。僕もね……ガーネットのこと大好きだよ」
シャーロットに目配せし、僕はクロエとアナベルと共に中に入るように言った。
僕が背を向けた後ろで、ガーネットが大声で魔術壁を叩きながら僕の名前を呼んでいるのが聞こえる。
「おい……いいのか?」
珍しくクロエがガーネットの肩を持つようなことを言った。
「……いいの」
「ほんとあんた、めんどくさい性格してる」
アナベルは呆れるように肩をすくめた。
――……それでも、自我を保って生きていてこそだ……
やはり、僕はこれ以上契約によって同化が進行したら自我を保っていられる自信がない。
目の前に広がっている肉を踏むと、ぐにゃりという感触が靴の上からでも伝わってきた。
踏んだ脚に腕の形をした肉が波のように集まって、必死に僕を掴もうと襲ってくる。
その肉を風の刃で切断すると真っ赤な血液が溢れ出た。肉片になったソレはバラバラとその辺に散らばり橋の下へ落ちていった。
それと同時に城の中から叫び声のようなものがわずかに聞こえてくる。
切り裂いた後、魔術壁の淵にまで広がっていた肉は城の中に吸い込まれるようにすごい速さで退いていった。
「いくよ」
僕はゲルダと刺し違える覚悟はできていた。
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