第34話 赤色の憂い




【ガーネット 現在】


 ノエルから、やけにいい香りがする。

 あのスズランという花畑から私たちは吸血鬼の墓所へ向かっていた。その道中に吸血鬼の住む場所を経由することになる。


「落ち着いたか?」

「うん。ありがとう。なんだか肩の荷が下りたような気がして……変な感じ」

「…………以前私がお前に、何故力を使わないのかと迫ったことがあったな」

「……そうだね」

「お前の過去の出来事など考えもしなかった。無神経だったな……すまない」

「気にしてないよ。普通、そう思うよ」


 ノエルは特段気にしている様子もなかった。

 私がバツの悪そうに言っていることも大したことがないような口ぶりは、それはそれでしゃくであった。


 ――これでは、私ばかりが気にしている様ではないか……


 数年ぶりに帰ってきた私の町は、大して変わりはなかった。変わらないその様子に私は少しばかり安堵する。

 四角く大きな白い家が連続的に建ち並び、床には煉瓦が神経質なほど正確に埋め込まれ整地されている。

 街灯に青い炎が灯り、心許なく町を照らしていた。

 ノエルは私の育った町を見て「ここがガーネットの育った町なの?」と目を輝かせている。

 その姿を見て「なにがそんなに面白いのか」と思っていたが、先ほどまで号泣していた姿から比較すると、まだ笑っていてくれた方がいいとも思う。

 泣いているノエルの姿は、見ていてどうしたらいいか解らない。

 私は励ます方法を知らない。

 励ましても、励まさなくとも、ノエルの精神状態は悪化していっているように思う。


 ――狂気に沈んだら……本当にセージが危惧していた破壊者になってしまうのだろうか……


 しかし、三賢者に頼むと申し付けられるより前から、もう私は覚悟を決めていた。

 セージがノエルが危険であったら殺そうとしていたという想いと同じ。

 もし今のノエルでは無く、残虐無慈悲な魔女であったなら、私はあらゆる手段を駆使して自害していただろう。


 ――そうならないよう、注意を払わなければならないな……


 町は静まり返っていた。

 普段なら何人も外に出て商売をしている者もいるはず。


「早く行こうか」

「あぁ」


 誰も外に出ていない理由は簡単だ。

 ノエルという魔女を町の者たちは忌避しているからだ。魔王が協力するとは言ったが、吸血鬼族全体がそう思っているわけがない。

 まして私が従属するかのように傍にいることによって、ノエルは「吸血鬼を従えている魔女」という不適切な肩書がある訳だ。


 ――説明する価値もない……


 私はそう考えているが、ノエルはけしてそうは言わないだろう。

 リゾンに対してあれだけ説得を試みたのだ。各々おのおのに対して頭を下げて回りかねない。

 そう考えていると家の一つの扉が開き、女が1人出てくる。真っすぐ私たちに向かって近寄ってきた。

 私の目の前に対峙したその女は、私たちの行く手を阻むかのように立ちふさがる。


「何の用だ」


 私は目の前にいる吸血鬼族の女――――エルベラに向かってそういった。

 吸血鬼族であれば、誰でも彼女を知っているはずだ。

 吸血鬼族一の美しい容姿をしている。豊満な胸は腕を組むとその上に乗るほどに大きく、最低限胸と性器を隠す程度の面積しかない服を纏っている。

 身体にしっかりと密着したその服は、エルベラの身体の女性らしい曲線を強調しており、より一層官能的に映る。

 ノエルは呆然とエルベラを見ていた。

 見比べてしまうと、ノエルはあまり女性的な体つきをしていない。

 胸がないわけではないが身体の輪郭線が出るような服を着ているわけではなく、魔女の城に行ってからずっと罪名持ちの魔女が着ていた法衣をずっと着ている。

 背中の部分は翼の隙間分は破けてしまっているが本人は気にしている様子もない。

 華奢な身体とボサボサになっている赤い髪。

 それでも、その長い髪の隙間から見える私と同じ赤い瞳は淀みなく輝いている。


「死んだと思っていたけど、生きていたのね」

「そんな話をする為に呼び止めたのか?」


 エルベラは私に近づき顔に触れてきた。冷たい手の感覚が伝わってくる。


「あなた、いい男になったわ。私の伴侶ツガイにさせてあげる」


 エルベラの申し出に私は戸惑った。

 ノエルはエルベラが何を言っているのか良く解っていないようであったが、場の空気を感じ取ったのか私の顔を一瞬見てから「お邪魔みたいだね。先に言ってるよ」と言って、道も解らないであろうその先を一人で小走りで行こうとする。


「おい、待て!」

「少し先で待ってるから」


 私の話を聞く気もなく、ノエルは遠くに行ってしまった。

 自然と眉間にしわが寄る。

「少しは私の話を聞いたらどうなのだ」と言ったところで、聞くようなものであったらこんなに苦労するわけがない。

 そう思うと、自然とため息が漏れる。


「魔女と契約したって聞いたけど、あの冴えない子がそうなの? 確かに強い魔力は感じるけれど……オンナとしては全然ね」

「お前には関係ない」

「そうね。関係ないわ。私はあなたと伴侶ツガイになることが目的よ。ほら……邪魔なのもいなくなったし、私の家にいらっしゃい」


 エルベラは身体を私に密着させ、私の身体にも手を触れてくる。冷たいのにやけに熱っぽい手つきで私の古傷をなぞる。

 どうやらエルベラは発情しているらしい。息遣いが粗くなっているし、もうしか考えられなくなっているようだった。


「気安く触るな」


 私はエルベラを突き飛ばした。

 突き飛ばされた衝撃でその豊満な胸がわざとらしく揺れる。

 それをオンナの武器にしている様子で、自分の胸を艶めかしく触る仕草をしながら私の方を舐めるような目つきで見つめていた。


「どうして?」


 伴侶ツガイになることに抵抗はないはずだった。

 強い個体を作るために、より強い血を求めるのは当然のこと。彼女が私と生殖行為をすることを求めるのはおかしなことではない。

 エルベラはその妖艶さだけが取り柄ではなく、強い吸血鬼族の戦士だ。なにも断る理由などない。

 それでも私の胸に一つひっかかりがあり、その申し出を受け入れられそうにもない。


「お前は私のことがなのか?」


 気づいたら、私はそう聞いていた。


「好き? 何を言っているの?」

「…………そうか」


 当然の反応に、私は妙に納得せざるを得なかった。


「私にはお前に応えることはできない」

「なんですって……!?」


 私はあのときのノエルの言葉を思い出していた。


 ――大事な……僕の半身だ。手を出さないでくれ。僕の家族だ


 私のことを大事だと言った声、私のことを半身だと、家族だと言ってくれた言葉や想いが、今までに感じた事のない暖かい感情を私に抱かせた。

 私の為に心を乱してくれる存在など今までいなかった。

 魔族はそれが当然だ。

 それに何の違和感もなかったはずなのに……。


「私は、あの魔女を守らなければならない。私はあいつに一生を捧げた」


 無論、離れられない呪縛がある。

 だが気が付けば、私はアレから離れたくないと感じていることに気づいた。

 あんなおかしな魔女は初めて見た。

 私のことを無償で、自らの危険を顧みず受け入れた。

 私を身を呈して守ってくれる者など、弟以外にはいなかった。

 私はこちらにいたときには自分は十分強いと思っていたが、ノエルはそれ以上に強い。しかし、まだ見た目に相応の精神的な未熟さがある。

 自分がリゾンに痛めつけられていたときも、契約した私の身の方を案じて心を痛めてくれるような、優しい心の持ち主だ。


「あれは私が守ってやらないといけない。お前のような発情した獣族のように品性のないオンナに興味はない」


 そう吐き捨てるように言うと、エルベラは顔を真っ赤にして怒り始めた。

 怒り始めるのも無理はない言い方をしたが、こんなことで怒りに感情を染め上げ、敵意をむき出しにするところはノエルと全く違う。


 ――吸血鬼族ともあろうものが、こんな低級の獣族のような有様では……


「ふざけないで!! 私の申し出を断るなんて、正気じゃないわ! あんな魔女の奴隷に成り下がって恥ずかしいと思わないの!?」


 私は“正気じゃない”か。

 いつも私がノエルに言っていた言葉を、私が言われる日がくるとはな。


「恥ずかしいのはお前の方だ。その節操のない、だらしのない身体で私の前に現れるな」


 エルベラは魔術を展開した。

 私を殺すつもりだろう。

 魔術が発動する前に、すぐさまエルベラの腹部に右の拳を叩き込むと、嗚咽しながら吹き飛んでいき壁に背中を打ち付けた。


「がはっ……」

「身の程を知れ」


 私は腹部を抑えながら、うずくまって動けなくなっているエルベラに背を向けてノエルの元へと歩いた。

 そう遠くへ行ってはないはずだ。

 エルベラは私を追いかけてこなかった。

 正確に言うならば、追いかけてくることができなかったと言った方が正しいだろう。

 私はその道中、今までの色々なことを思い出していた。


 いつ頃からだろうか、私はノエルと仕方なく共にいるわけではなくなっていた。

 初めは解らなかった。

 私を助けた事、他の魔族をこちらに返したこと、人間に混じって生活していること、力を使おうとしないこと、私を服従させないこと、人間の男に入れ込んでいること、やけに他者に優しくすること…………

 きりがないほどの疑問があったが、どうにも煮え切らない答えばかりでまったく理解できなかった。


 せっかく生かされた命だ。

 魔女に復讐してやろうということしか考えていなかった。

 考えの甘いとしか思えないノエルは、ただの肩書だけではなく強大な魔力や魔術の才能があることを知ることになる。

 これならば私にふざけた実験をした魔女どもを皆殺しにできると期待したものだ。

 復讐したい私の気持ちを理解しつつも、ノエル本人は積極的に魔女を殺すことはなかった。激情に駆られたときや、正当防衛の範囲内での殺しはしていたが、殺しが楽しくてやっている様子は一度たりともなかった。

 特に魔女の街では魔女も強く、魔術の才のない私はノエルに頼りきりになってしまった。

 情けない気持ちに支配されたが、あれほどの強い魔女たちを何人も相手にして、尚且つ街一つを吹き飛ばせるほどの魔力を見たら、自分とは次元の違うところに生きている者だと思わずにいられなかった。


 ――ガーネットは……僕のこと殺したい? 契約をしていなかったら殺してる?


 自分の気持ちの変動に、ノエルの質問でうすうすは気づかされた。

 大した日も重ねていないがノエルに対しては他の魔女に抱くような憎しみの感情を抱かないことくらいは分かっていた。

 魔女に殺されかけていたのに、魔女に命を救われたことに自分の中ではどうしようもないわだかまりがあったが、ノエルは他の魔女と違うのだと理解することでそれは解消した。


 誰かと話し合うなんて方法はとってこなかった私にとっては、話がいつまで経ってもまとまらないことや、ただ普通に話すということですら初めてのことだった。

 もどかしさもありながら、暴力や暴言でねじ伏せ押し通すのとは違う解決方法があるのだと知った。

 自分の誇りよりも、今の僅かな幸せを守ろうとするなんて考えたこともなかった。


 ――……ねぇ、“好き”ってどういうことか解った?


 あの時、ほんの少しは理解していた。

 ノエルと一緒に居ても不快感はなく、どこか心配で気にかけてしまう自分がいた。

 あの小さな町で魔女と対峙しているときに、あんなときですら人間の男を気にする気持ちは理解に苦しんだ。

 それでも探してきてほしいという願いを受けて私は人間を探しに行った。

 あの時のあの男は、他の女の匂いをいくつもさせていたが、ノエルを心配している様子に偽りはなかった。



 ――過去―――――――――――――――



「あいつは!? あいつはどこにいるんだ!?」

「私についてこい」

「ぐずぐずするな! さっさと案内しろ!」

「おい! あいつの元へ行くな。安全な場所に――――」

「もういい、てめぇなんか!」



 ――現在―――――――――――――――――



 偉そうな人間だった。

 大した力もないくせにやけに態度が大きい。それを見て私は苛立った。

 人間と2人で閉じ込められていたときに、そう気持ちのわだかまりは強くなって行った。

 強い絆で結ばれているノエルとあの男の関係は私には理解できなかった。だが、この男からノエルを奪い取ってやろうという気持ちがほんの少し芽生えた。

 それは、その男への嫌悪感からきた感情なのか、あるいは別の起源のものなのかは分からない。

 その最中、ノエルは魔女と何か取引をした。

 無事では済まないと直感的に解ったが、それでもこのお人よしの魔女を信じてみようと考えた。

 魔女の街へ向かう中、半ばあきらめていた弟の話をノエルが話した。こともあろうか魔女どもは弟とノエルを交配させようなどと下衆なことを考えていたのだ。

 そのとき薄々気づいた。

 私は弟のことでも怒っていたが、ノエルを弟にとられたような気がして怒りを感じたのだと。


 今は私と契約しているのに――――


 と考えなかったと言えば、嘘になる。

 結果として交配していないと聞いた私はホッとした。

 弟が「兄弟を助けて」と言っていたことを、ノエルが覚えていたときは驚いた。弟が生きている可能性の話も、私は嬉しく感じた。

 弟の言っていたことを気にかけていたから私を助けたのだろうかと考えると、なんとも言えない気持ちになった。

 ずっと神経をすり減らし、安息のときなど一時もなかった私にとっては、ノエルを信じ、安息が得られた瞬間だった。


 私はなかなか感謝の意を示せなかったが、それでも弟の件も、自分の件もあり、やっとの思いで「感謝している」と言ったが、どうにも気恥ずかしく礼を言うのは苦手であった。

 そんな私の不器用で乱暴な感謝の言葉でも、ノエルは微笑んで受け入れてくれた。


 ――しっかりしろ。ノエル


 初めて名前を呼んでやったとき、ノエルは心なしか嬉しそうにしていた。

 そのときに初めてノエルのことを「綺麗な顔をしている」と感じた。

 そしてそれと同時に、ノエルが想う主とやらに今まで感じていた敵意とは、また別の敵意を感じた。

 その敵意から、私はその主とやらの知らないノエルを知っている私は優越感すら感じたのだ。

 この人間とノエルの間に、具体的な何かは存在しない。私との契約と違って何もない。

 だからノエルの気が変わればこの人間を見捨てるだろうと考えていた。


 弱い人間などよりも、強い者を選ぶ。

 それが自然の摂理だ。


 そう思っていた。まだ私は人間や魔女の感情を理解しきっていなかった。

 だからこそ、白い治癒魔術を使う魔女との取引内容を聞いたときに「力で抑え込め」と言った。それができるほどの実力があるのに、なぜそうしないのかと。

 ノエルはぼんやりとしているところがあり、何を考えているか解らないが重要な部分はきちんと考えている様だった。

 魔女に命を代償に取引をしていたと知ったときは、さすがにそういう作戦なのかと思いたかったが、何を考えているか解らないノエルは本当に命を差し出して人間を救おうとしているようにも見えた。


 ――無差別に殺したりはしないよ。僕を怒らせない限りはね


 その言葉は、恐ろしく感じた。

 ノエルの主に魔女が手を出そうとしたら、今まで見たことがないほど怒っていた。


 ――ふざけるとこうなるってこと


 生首を持ち上げて、血まみれで言っているノエルは確かに怒っていた。

 これが本性なのかと思ったが、しかしノエルはやはり殺すという行為は話し合いの後にするような奴であった。

 それにお人よしなのは相変わらずだ。

 その不安定な両面性は、一見安定しているようで不安定であった。それは見捨てられるのではないかという恐怖心からくる、子供じみたものだ。

 精神的な未熟さがその不安定感を生み出していることに私は気づく。


 今なら解るが、自分にとって大切な者も、大切でない者も助けようと思うのはセージを助けられなかった後悔からくるものだったのだろう。

 私は「どちらか選べ」と言ったが、困った表情をしていた。

 しかし、私が間違ったことを言っていたとは思えない。自分を二度も裏切った魔女を助けようなどと言う発想は正気の沙汰ではない。

 ノエルを正気ではないと何度も言ってきたが、結果は頭で解っていても、弟の腐乱死体が動いているのを見た時は話しかけずにいられなかった。

 あの時の私こそ正気ではなかった。

 冷静になって考えれば、ノエルの血液を飲みすぎていた。自分自身、心臓が今まで以上に強く脈打ち、全身の血液が沸騰するかのような感覚に陥った。

 気持ちがいいとすら感じたが、私はもっと血がほしくなっていたし、殺しの衝動に駆られていた。

 その私の正気を繋ぎ留めたのは、ノエルの言葉だ。


 ――話がしたい。行かせて


 殺す以外の選択をいつも選ぼうとするノエルに、私は毒気を抜かれた。

 逃げる道中、アホの裏切り者の魔女を助けるというノエルの作戦は無謀であったが、全員で行くのはどう考えても無理であった。

 人間や、戦闘のできない魔女、気絶している魔女を抱えて戦えない。

 助けに行くなと何度も言ったが、ノエルは私のいうことは聞かずに行ってしまった。


 行かせるべきではなかった。


 案の定戦いになり、命を落としかけた。

 私が向かう道中に戦っているノエルの怪我が酷く、私は足止めを食いながらもやっとの思いでノエルが元々拘束されていた部屋にたどり着く頃には、城はもう半壊している状態であった。

 大理石は砕けたのではなくドロドロに溶けていた。

 黒い何かが付着したところから嗅いだことのない異臭がし、煙が立ち上っていた。

 ノエルがそれを操っていると私は直感的に解った。

 しかしそのノエルの目はどこを見ているのか解らなかった。虚無を見つめ、ただひたすらに一定の行動を繰り返す。

 ノエルは乱暴に女王の動かない身体に向かって何度も何度も何かを振り下ろしていた。

 それは怒りでも、なんでもない虚無の目だ。


「ノエル……」


 私がそう呼ぶとノエルは瞳孔の開いている目で私を見た。

 背筋がゾクリと凍り付き、私はそれ以上の言葉が出てこなかった。

 瞳孔が開いているのを見たのは一瞬だった。ノエルは何度か瞬きすると自分が何をしていたか私に聞いてきた。


 安堵した。

 得体のしれない化け物ではない、私の知っているノエルだったと思った。


 だが、その後、ノエルはいつまでもぼーっとしていた。

 話しかけても聞いているのかどうかも解らない。


「しっかりしろ!」


 肩を掴みノエルを前後に揺らしたが、それでもどこを見ているとも言えない目をしていた。

 何をされたのか後に知ったが、精神が壊れてしまったのかと思った。そうでなくて良かったと心の底から感じている。

 だが、片翼で魔術を何度も何度も使うと寿命を縮めることになると白い魔女に言われたときも、大して興味もない様子で「そう」と言っていたのがやけに脳裏に焼き付いている。

 何を言ってもろくに返事をしないノエルに不安しかなかった。

 実際にその不安は的中し、ノエルは倒れた。

 倒れたまま、しばらく目を覚まさなかった。

 試しに眠っているノエルの手首から血液を飲んで回復させようと試みたが、それをしてもノエルは目を覚ます素振りはなかった。


 男の魔女に人間、私。その組み合わせはあまりに混沌としすぎていて、全く統率が取れない状態で当然争いが始まった。

 白い龍に叱咤されて、ノエルにとっては人間の主以外は全員を平等に助けたのだということを考えた。

 それに、私たちが喧嘩すると実際にノエルは困ってしまっていた。

 白い龍と私が言い合いをしているとき、困っていたことを白い龍は知っていたのだ。

 話し合いを続け、ノエルがどういう状態なのか、男の魔女がどうしてノエルに執着するのか知った。

 話をしていて解ったが、ノエルの主とやらはノエルがどんな存在なのかは全く知らない様だった。


 そしてノエルの悲願である、主とやらの治療が行われた。しかし、治療が済んだ段階でどうやら主とやらはノエルの魔力の中毒症状だということが解り、そしてその事実をノエルは知ってしまった。

 今までも取り乱すことは頻繁にあったが、あのように取り乱すことは、もう後にも先にもないだろう。

 しかし、内心私は嬉しかったに違いない。

 邪魔な人間がいなくなったと、私はそう感じたのだ。


 私は羨ましくさえ感じた。

 その深い絆があることが。


 生きている理由など考えたことはなかったが、ノエルにそう問われた意味を私は少し理解した。

 大切な何かがあると、それが生きる意味となる。

 ただひたすらに、生きるために生きることに疑問が浮かんでしまった。

 主とやらがいなくなった後、やっと一息つけるのかと思った矢先にノエルは異界に行くなどと言いだした。



 ――過去―――――――――――――――――



「異界に行く。魔王に教えてもらいたいことがある」

「魔王が協力などするわけないだろう。大体何の教えを乞おうというのか?」

「仕方ないじゃない。世界をもう一つ作る術式が知りたいんだから」

「おまえ、ついに正気を完全に失ったのか!?」

「失ってないよ! イヴリーンが世界を作って魔族を隔離したように、魔女を別の世界を作って隔離するの!」

「正気ではないな。ありえない。お前の計画は滅茶苦茶だ」

「どこが?」

「馬鹿者! 異界など魔女と解れば八つ裂きにされるに決まっているだろう!!」

「それは僕とガーネットが力を合わせて――――」



 ――現在―――――――――――――――――



 どうにかなるとは思わなかったが、私たちは今異界で生きている。

 魔王も協力してくれた。

 私が無駄だと思っていたことの一つ一つが、結果としてノエルを助けることになった。


 魔術を使わないように生きてきたこと

 白い龍を助けたこと

 私を助けたこと

 他の魔族を助けたこと

 リゾンに抵抗しなかったこと


 何もかもが繋がっていた。

 強い力は少し使い道を過っただけで、いままでの全てが崩壊するほど忌避される。

 共に行動するうちにそれが解った。

 柔軟な水のように相手に合わせ、受け入れるその暖かさにすがりたくなる。傷つき、渇いた心を満たしてくれる。それは暴力で奪い取るのとは違う。

 何の見返りも求めずに、ただ側に置き、そして心配してくれる。

 ノエルが主と呼んでいる人間のことを考えていると、いつしか私は苛立ちが抑えられくなっていた。


 ノエルと白い魔女が2人で話していたのを遠くから聞いていたとき、男の魔女に話しかけられた。

「ノエルに惚れてるのか?」と聞かれ、私はすぐさま否定できなかった。「違う」と口にした時の違和感は例えようもないものだった。

「なら邪魔すんなよ。あいつは俺のものなんだから」そう、にやけた顔で言われたときに無性に腹が立った。

 ノエルがあの男の求愛を「考えておく」などと言ったことが、どれほど納得できなかったことか。


 そのときからか、私はノエルに尋ねられた“好き”とは何なのか、愛情とはなんなのかということなのか、解ってしまったのかもしれない。

 ノエルは私に嫌われていると思っていたようだが、その逆だ。

 全くの逆の感情に苛まれていたからこそ、私は「考えておく」などと言ったノエルに苛立ちを感じたのだ。

 だが『好きだ』などと言えよう筈もない。

 私は自分のその気持ちを認めるわけにはいかなかった。


 ノエルが一緒に風呂に入るなどと言い始めたときは、正直困ってしまった。本人は大したことないような素振りだったが、ノエルの透けるような白い肌をみたとき、私は気がどうにかなりそうだった。

 エルベラには偉そうなことを言ったが、私もあのときは理性を保てないのではないかと思った。

 私の理性を保たせたのは、ノエルが声を殺して泣き始めたからだ。

 何故泣いているのか、そのくらいは解る。


 ――あんな男のことなど、忘れてしまえばいいものを


 そう思いながらも、私はそう言えなかった。

 ノエルの震えている背中を見ると、左側には三枚の白い翼があるのが見えた。それと同時に右の翼があったであろう部分には大きな傷が残されていた。

 その大きな傷を見て、私は唐突に解ってしまった。


 ――ずっと独りで、孤独に耐えて生きてきたのか……


 セージが危惧した通り、魔族にも受け入れられず、魔女にも受け入れられず、人間にも受け入れられなかったノエルを唯一受け入れてくれたのがあの人間だったのだろう。

 セージはノエルを魔女として育てた。

 ノエルが自分のことを魔女だと言っているのがその証拠だ。何の意図があったのか、あるいは何の意図もなかったのかはわからないが、ノエルは自分がセージと違うものだと思いながら育ったに違いない。

 それに、自分の力については強い抑制がセージからあっただろう。

 自分の存在というものは、その強い力がなければセージは育ててくれなかったのかもという孤独や不安があったのではないだろうか。

 常に抑圧されている力は、見張られているだけだと感じる時もあっただろう。

 ノエルは片翼だからか私にも積極的に翼を見せることはなかった。混血ではあるが、自分を翼人だとはあまり思っていないようだ。


 その強い力を利用しようとしない者など、魔女にはいなかっただろう。

 女王はノエルの心を閉ざすほどに拷問的実験を試みていた。

 心を閉ざしたノエルを、ただの人間として扱ったのはあの主とやらが初めてだったのだ。

 どんな経緯があったのか、あの人間の男は頑なに話そうとしなかったが、魔女だということを知らなかったという点を鑑みれば、そう考えるのが妥当だ。


 ――とはいえ、それも納得いかない


 力がどうだということではないかもしれないが、ただの都合のいいオンナとして扱っていたようにしか私には見えない。

 それなのに、どうしてあんなにノエルはあの男に執着するのか。

 それをしつこく聞いたこともあったが『好きだから』の一点張りで詳しいことを言わなかった。

 なぜあの男でなければいけないのかと迫ったとき、ノエルは答えられなかった。

 理屈で説明できないということが“好き”ということだと、私は身をもって知ることになるとは知る由もなく。

 私が“好き”という気持ちを頑なに理解したくなかったのは、理由がある。

 私は以前のノエルの質問を思い出していた。

 好きとはどういうことなのか。


 ――好きっていうのはね……相手の事大事にしたいって思ったり、その人の一言一句で一喜一憂したり、ちょっとのことで心配になったり、その人が笑ってくれたら嬉しくなったり……その人のことを独占したいって思ったりとか……


 男の魔女にもリゾンにも、あの人間の男にも渡したくない。

 触れさせたくない。

 あれは私のものだ。

 あれは私だけの魔女だ。


 私はそのような自分の気持ちに戸惑いを隠せなかった。

“好き”という気持ちがこんなにも狂おしい気持ちなのだと自覚したとき、ノエルのあの男に対する想いが解ってしまう気がしたから。

 私はその気持ちを振り払った。

 戦いや生きる為には不要な感情だと頭では解っていた。


 解っていたはずなのに……――――


「ガーネット、ずいぶん遅かったじゃない」


 私が思考することに専念しすぎている間に、いつの間にやらノエルの座っている場所までたどり着いていた。

 そこは吸血鬼の墓所とは方向が少し違う。


「お前が先に行き過ぎていただけだ。こちらの方向ではないぞ」

「え。ごめん、こっちかなと思って」

「お前な……まだ異界で完全に安全だという保障もないのに……魔女の匂いをさせて一人で行くなど……本当に、賢いのか愚かなのか解らない女だ」

「だってさ……ガーネットに恋人がいるなんて知らなかったし」

「恋人? あの女のことか? 冗談ではない。お前の勘違いだ」

「でもすごく綺麗な吸血鬼だったから。僕と全然違うしさ」

「……まぁ、確かにお前はあれと比べるとあまり女らしくないが――――」

「気にしてるんだから、もう少し気を遣ってよね」

「そんなに気にすることでもないだろう」

「そういうの、気にするの!」


 ムキになって私にそう主張するノエルに対して、また口を滑らせてしまいそうだったので適当にあしらった。


 スズランという花についてノエルが話していたとき、


 ――可愛らしい見た目とは裏腹に、強い毒がある


 その言葉に対してそのときに思わず口にしてしまったが、ノエルには聞こえていなくて良かったと私は思っていた。

「お前に似ているな」と、口走ってしまった私は自分自身に驚いた。

 自分で言ったにも関わらず、混乱した。

 いや……私がノエルに対して好意を寄せていること自体、既にずっと混乱しているのかもしれない。


「こっちだ、方向音痴め」

「知らないところなんだから仕方ないでしょ」


 拗ねた様子で私の半歩後ろをついてきていた。


「あっ……っと……」


 ドサッ……


 ノエルが木の根に脚をとられ、転びそうになって私の腕にしがみつく。


「何をしているのだ……」


 私はノエルを両腕で抱きかかえた。

 柔らかく、生白い肌をしていて、スズランの香りがした。

 私の目とは少し違う、深みのある赤い色をしている瞳で私のことを見つめてくる。

 やけにうるさい私の心臓の音が、ノエルに伝わってしまうのではないかと不安になった。


「無理するな。まだ足元がおぼつかないのではないか?」

「自覚はないけど……ここのところ魔術を使いっぱなしだったし……そうかもね」

「体力を温存しておけ」

「あぁ……そう言えば、僕何も食べてないや……ガーネットも食事してないよね?」

「…………私はお前が眠っている間に食事しておいた」

「え……寝込みを襲っ――――」

「お前の血液ではない!」


 ノエルは無邪気に笑っていた。

 その笑顔が、どれほど貴重な笑顔なのかと考えると、私は胸の奥が熱くなる。

 雑談と言うには重い内容であったが、ふざけているほどの余裕があるノエルを見て安堵した。

 悶々と考え事をしながら、私たちは墓所へ向かう。


 ――諦めろ……


 そう自分に言い聞かせなければならなかった。

 いくら傍にいられても、私はノエルの心までは手に入れられない。


 ノエルの心はもう、ノエルの元にはないのだから。



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