第27話 別々の世界




【5年前 ノエル】


 僕はセージの話を聞いていて、僕自身の知ってる母さんと随分違う印象を受けた。

 僕の知っている母さんはもっと落ち着いていて、大人っぽい女性だったはずだ。そんなふうに無鉄砲で子供のような姿は想像ができない。


「母さん、全然違う感じがする……本当にそんなだったの?」

「ほっほっほ、そうだな。ルナが無鉄砲なのは変わらなかったが、ノエルを産んで、母としての自覚が芽生えたからだろうな」

「僕を産んでから……?」

「あぁ、そうだ。女は弱いが母は強いもんだ」


 自分の非力な手と、まだ発展途上の自分の三枚の翼を見て弱い自分を感じた。

 両親を守れた程の力が僕には潜在的に備わっているとセージに言われたけれど、でも僕はそんなの実感できなかった。

 確かに魔術の使い方を教わらなくても知っていた。呼吸をする方法を生まれながらに知っているように。


「僕もお母さんになったら強くなるかな?」


 そう言うと、セージは難しい顔をして僕を覗き込んだ。膝の上の僕は覗き込んできたセージの顔を見つめる。


「どうしたの? セージ」

「お前を簡単に男にくれてやるわけにはいかない。悪い虫がついたら困る」

「それ、父さんも言ってたけど悪い虫ってなに? 虫さん悪くないよ?」

「ほっほっほっほっほ、確かに虫さんは悪くないな。悪い虫というのは悪い男のことだ。可愛い娘を悪い男に渡したくないのが父親の心情なんだ」


 そう言われて、父さんのことを思い出す。

 父さんのときと全く同じ返事をした僕は恥ずかしくなった。


 ――悪い虫ってそういう意味だったのか……


 しかし、悪い男がつくというのはいったいどういうことなのだろうか?

 その具体的な意味が分からなくとも、セージに馬鹿にされていることだけは解った。


「もう、セージ! 笑わないでよ!」

「ほっほっほ、その威勢の良さなら悪い虫はつかなそうだな」


 むくれている僕の頭をセージは撫でてくれた。軽くあしらわれ、子ども扱いされて僕はセージの膝の上で暴れる。


「すまない。そう暴れるなノエル」

「僕は子供じゃない!」

「あぁ、そうだな。だからいつか好きな男の人ができたら、私に報告しなさい。ろくでもない男だったら私が叩き直してやろう」


 僕にはどうにも解らないことがあった。

 その『好き』という感情がよく解らないということだ。

 だから僕にはイヴリーンが人間にそこまで熱心だった気持ちが解らなかった。やっぱりどう考えても不合理なことばかりで僕には理解できなかった。


「好きってどういうこと? 僕がセージのこと好きなのと違うの?」

「あぁ、そうだな……それとは違う。もっと……こう……正気を失うような狂気と紛うようなものというか……」

「えっ……それって、いいことなの?」

「ほっほっほ、ノエルにはまだ早いな」

「子ども扱いしないでよ!」


 また僕がセージの上でひとしきり暴れた後に、セージは話の続きを話し始めた。




 ◆◆◆




【セージの回想】


 私は瞬時に沢山のことが脳裏に駆け巡った。


 魔女が異界にいるとなれば、八つ裂きにされてしまうということ。

 タージェンに見られてしまったということ。

 異界の扉を早く閉めなければならなかったということ。

 ルナに私が人間ではないということがばれてしまったということ。

 両者になんと説明したらいいか解らないこと。


「お、おい……セージ……どういうことだ……」

「あぁ、これはその……」


 タージェンはルナが魔女だということは解っているはずだ。当然、魔女が魔族にした仕打ちもよく知っている。

 そして、成長に連れて魔女への怨恨を周りから吸収して募らせていた。


「魔女……!」


 素早く近場にあった木材を乱暴に掴み、タージェンは腰を低く落として構えた。すかさずルナに向かって飛びかかった。


「タージェン! よせ!」


 私がそう言ったときにはもう既に遅かった。その木片はルナの頭に直撃した――――かと思われたが、その木片は一瞬で灰になり、2人の間を舞った。

 魔術式を構築するのも見えないほどの速さで、一瞬何が起きたのか解らなかったほどだ。


「なっ……」

「あ、争う気はありません! お、お……落ち着いてくださ――――」


 タージェンはルナの話を聞こうとしなかった。タージェンとルナは別々の言語で話していたが、タージェンはむこうの世界の言葉は解ったはずだ。

 全く聞く気がないタージェンはルナの首に手をかけようとした。

 しかし、ルナはタージェンの手を空中に浮いている無数の水で軌道をそらし逃れる。

 目にも留まらない速度でタージェンの手は水に弾かれ、ルナに到達できない。


「よせと言っているだろう!」


 私は実験用に部屋に置いていた植物を成長させ、タージェンの身体に巻き付けて動きを封じた。それだけでは力の強い彼は植物を破壊してしまうだろう。

 だから炭素を多く含むその植物の炭素の結合を強固で安定したものにし、硬化させた。

 植物はその硬化した美しい結晶だけを残し、タージェンの身体をしっかりと固定している。

 不格好なオブジェのように固定された彼は抜けだそうともがくが、それはあたわない。


「馬鹿者。私がよせと言ったらよせ」


 私は足早にルナの後ろの魔術式を解除し、扉を閉めた。

 ふり返って2人を見ると、これを説明するには物凄く時間がかかることを察する。


 ――さて、何から話すべきか……


 ルナはタージェンを拘束している物質を興味深そうに見ている。

 緊張感のない魔女だ。しかし、あの一瞬でわかったが、相当な魔術の潜在的な素質がなければあれは成しえない。

 魔女の女王候補というからにはやはり実力のある魔女だ。あれだけ人間相手に傷だらけになってるのがまるで嘘のようだった。


「これ、ダイヤモンドですよね? ダイヤモンドもそうですけど、私はこっちの翼の方が気になります」


 翼をばたつかせている彼は穏やかではない。

 そんな様子は他所に、ルナはタージェンの翼に興味津々の様子で手を顎に当てながら観察している。


「ルナ、何から話していいか解らないが……私たちは昔、イヴリーンからあちらの世界から隔離された魔族なんだ」

「まぞく……魔族って……ことは、じゃあここは異界ですか?」

「あぁ、そうだ。そこまで解っているなら、他のことも解るか?」

「えーと……詳しいことは知らないです。異界なんておとぎ話か何かかと思っていましたし……でも、さっきから魔族の言葉で話しているので、なんとなくは」

「なに? 魔族の言葉が解るのか?」

「ええ……そのおとぎ話のような本に載っていた程度の言葉しかわかりませんが……」


 驚いた。向こうの世界でも魔族の言葉が残っていて、それを知っている魔女がいるなんて思いもしなかった。

 率直に言って嬉しかった。

 私たちが向こうの世界を忘れていなかったように、向こうの世界も私たちを忘れていなかった。


「では……むこうの言葉で話そう」


 私はタージェンを見つめながら、まだ暴れそうな様子だったのでそのまま話を聞かせることにした。


「イヴリーンの伝説はおとぎ話ではない。実話だ。私はあちらの世界にいた頃から生きている。翼人という魔族だ」


 自身の翼を羽ばたかせるとその翼のはばたきをルナは目を輝かせてみていた。私にとっては珍しくもない翼をそんな風に羨望の眼差しで見つめられるとなんだか歯がゆい気持ちになる。


「いいなー! 私、ずっと空を飛んでみたいって思ってたんです」


 無邪気にそう言ってはしゃぐルナを見て、タージェンは毒気を抜かれたような顔をしている。

 敵意がなくなった様子を見て、私はタージェンの身体を拘束しているダイヤモンドを砕いて自由を与えた。


「……この荒くれ者の六枚の翼がある者はタージェンと言う。こっちの魔女はルナだ。それで……タージェン、単刀直入に言うが私はずっとあちらの世界に戻る方法を研究していた。最近、私がよくいなくなるのはあちらの世界に行っているからだ。そこでルナと出逢った。魔女にも色々いるが……ルナは私たちの敵ではない」

「あぁ……そう……みたいだな」


 私は少し落ち着いた様子の2人に、両方の世界の話をし始めた。

 2人は互いに信じられないような顔をして、私に対して質問攻めにしてきたのは言うまでもない。

 まだ話の途中であったが、ルナが途中で随分と具合が悪そうになったことを私は見逃さなかった。呼吸が乱れ、息苦しそうに胸を押さえている。


「ルナ、こちらの環境は魔女には身体に毒だ。長くはいられないだろう。無理せず戻るといい」

「やっぱり……ですかね。肌もビリビリして……」


 自分の肌をさすりながら、ルナは苦笑いをしてみせる。身体からは冷や汗が噴き出ているし、顔色もいつもの桜色の血色のいい皮膚が白くなってしまっている。


「そうだろう……空間移動をした負荷もあったしな。タージェン、ルナを向こうの世界に送ってやってくれ」


 突然指名されて驚いたタージェンはルナと私の方を交互に見て動揺する。


「わ、私がか?」

「あぁ、向こうの世界を少し見てくるといい。ルナはあまり無理するな。タージェンは向こうの世界の言葉で話してやれ。解るだろう」


 2人を追い立てるように異界の扉を開き、追い払うように背中を押して扉に押しこむ。

 両者の性格からして、殺し合いになるようなことはないだろう。悪くてもタージェンがルナに対して敵意を向けるだろうが、ルナを守るという行為は必要なさそうだ。

 タージェンは複雑そうな表情をしていたが、別段嫌がるそぶりは見せなかった。任されたことに責任を持つ性格であるし、ルナが悪いものかそうでないかくらいは判断できる。


「ルナ、異界の扉のことは他の魔女には絶対に言ってはいけない。また争いになってしまうから。扉は長く開けてはおかない。2人とも解っているな」

「もちろんです。でも、もし私が女王になったら…………」


 念押しをする私に向かって、ルナは胸に手を当てながら苦しそうに

 それでも笑顔で


「一緒に暮らせる世界にしていきたいですね」


 そう言って、異界との扉をくぐって姿を消した。


 後姿を見送ると私は、呆然とその状態のまま立ちすくしていた。

 そのルナの言葉のあまりの重さに似つかわしくない、とてつもなく広大な夢物語だと解っていながらもルナならできるような予感がした。


 そこからしばらく、ルナと私とタージェンは世界に秘密で世界を行き来していた。

 少しずつタージェンもルナも打ち解けていった。

 言葉の壁は2人には全く無いようだった。

 両者とも驚くほどに相手の言葉を理解し、学習し、使い分けていた。しいて言うなら、タージェンの方が少し多く勉強が必要だった程度だ。

 タージェンも向こうの世界を好むようになり、3人で向こうの世界を歩くこともあり、向こうの世界の様子を知ることができた。

 言葉も魔族の言葉を使うことが減り、向こうの世界の言葉で会話することが殆どになった。

 異界にはない美しい世界をタージェンは知って、まるで夢を見ているようだと話していた。

 ルナは人間と魔女の争いから徐々に身を引いて、我々と過ごす時間が増えていったことは気づいていたが、2人が恋仲になっていたことまでは私は気づかなかった。




 ◆◆◆




【5年前 セージ】


 私が最後まで話し終わると、ノエルは聞いていたが私の膝の上で眠そうにしていた。

 眠そうにしているノエルを抱きかかえると、ベッドまで運ぶ。

 横に寝かせて毛布をかけてやると、私の手を弱々しく握ったまま眠りについたようだ。

 その様子を見て微笑ましい気持ちになった私は、暫くノエルの隣に座ってそのまま暫く手を握られたまま見つめていた。

 手から伝わる柔らかで暖かな感触は生まれた当時のなつかしさを感じる。

 生まれて数日後のノエルの手は小さく、柔らかく、生命の脈動を感じ、感動を覚えた。

 そしてそれは今も私の目の前で存在している。


「一時はどうなるかと思ったが、お前が良い子に育ってくれてよかった」


 本当に私は安堵して、ゆっくりとノエルが起きないように手を放す。

 ノエルは眠りの中、幸せな旅をしていた。




 ◆◆◆




【現在】


 うっすらと目を開くと、部屋に灯る蝋燭の光ですら僕には眩しく、何度も瞬きをして目を光に慣らす。

 隣に何か硬い暖かい感触があり、顔を向けると白いものがいることが解り、そしてその白くて硬いものはレインだという事が解った。

 眠っているレインを起こさないように僕は身体を起こした。

 背中が痺れるような感覚があり、身体の節々が上手く動かせずに痛む。

 どうやらずっと同じ体勢のまま眠っていたらしい。それもこれだけの違和感を感じるということは、かなり長い間だということも理解する。


 ――ここは、ご主人様の家……ご主人様のベッド……


 疲れ切っていた僕は気絶する前のことをよく覚えていない。

 ゲルダに龍を傷つけられて、それからのことはぼんやりと断片的に覚えている程度で、ほとんど思い出せない。

 これが夢なのではないかとすら思えてくるが、身体の重さが現実をつきつける。

 それはそうとご主人様はどこにいるのだろうと不安にかられ、僕は立ち上がったがやけに足元がふらつく。


「――――ですが……――――なん……――――」


 声が聞こえてきた方へふらふらと歩き近づいていくと、誰の声か判別がついてきた。


「なんだって……?」

「ですから……人間の身体として……は解決……した――――」


 話しているのは、シャーロットと……ご主人様だろうか。

 ご主人様の声を聞いた僕は一安心する。

 元気そうな声が聞こえて緊張がとけた。

 何の話をしているか解らないが、足取りもおぼつかなければ、頭にもよく言葉が入ってこない。僕は今出せる精一杯の力で扉を開けた。


 ――ご主人様……無事でよかった……シャーロットもいるし、これでお身体が……――――


 そうやっとのことで報われた気持ちになり、その気持ちを言葉に出そうとした刹那、ご主人様の顔が目に入った。

 優しい表情ではなく、焦っているような、それでいて、怒っているような。

 魔女相手だから険しい表情をしているのかと思ったが、その疑問はすぐさま払しょくされる。強風に晒されたか弱い花が一気に根こそぎ散るような、そんな感覚だった。


「俺の身体が良くならないってどういうことだよ!?」


 ――え……?


 ぎぃ……


 扉が開ききると、古い木は軋んでわずかに悲鳴をあげた。

 悲鳴をあげる僕の気持ちと同調するように、消えるようにその軋む音も消えていく。

 理解できずにたちすくす僕をその部屋の全員が見ていた。

 僕がご主人様を見るよりも、他の全員がずっと驚いたような表情をしていることに僕は気づかなかった。


「ノエル、大丈夫か!?」


 真っ先に僕の方へ近づいてきたクロエにも目もくれず、シャーロットの方へ僕は歩く。一歩を踏み出しているはずなのに、永遠にそこへはたどり着けないような奈落を感じた。

 ふらつく足元が浮いているような感覚から、まるで床に沈んでいくほど重く感じた。床が抜けてそのまま地中の中におぼれて行ってしまいそう。

 僕がふらつくと、近くにいたクロエよりもガーネットが僕をすかさず支えてくれた。


「……まだ寝ていろ」


 ガーネットの声も僕には届かないまま、僕はようやくご主人様とシャーロットの前にたどり着く。


「ノエル……」


 シャーロットはうろたえた様子で僕の名前を呼んだ。

 僕は心臓が不整脈をおこして止まりそうになるほど激しく脈打っているのを感じる。


「シャーロット、ご主人様の治療をして……」


 白い魔女は僕から目を逸らして視線を床に落とした。

 何故返事をしないのかと僕はシャーロットの肩を右手で掴む。


「どうしたの? 治せるでしょう? さっきの話はどういうこと?」


 片手で掴んでいたが、僕は両手でシャーロットの肩を掴んだ。

 シャーロットは僕の様子に恐怖を感じたのか、顔が引きつっていたが、僕にはシャーロットの顔がどうとかその姿がどうとか、そういったことは認識できない状態になっていた。


「ノエル、落ち着け……」

「答えてよ……シャーロット!!」


 僕は自分の翼を隠している魔術式が解け、3枚の片翼が露わになる。

 魔術式が暴走するように展開され、僕の意志とは関係なく冷気で空気が凍てつき始め、別の魔術式で空気は焼けるように熱気を帯びて、そしてまた違う魔術式で大気中の空気が分裂反応すらしはじめた。


「ノエル駄目です! 魔術式を収めてください!」


 シャーロットがそう言われた後、隣にいたご主人様が苦しみだして咳き込み始めた。いつもよりも激しく咳き込み、倒れこむように膝をついた。

 咳を押さえるように口元を当てている手に、滴るほど血液が付着しているのが僕の目に入ると展開されていた魔術式が解け、再びその空気は正常に戻る。

 空気は正常に戻っても、ご主人様は尚も苦しみ続ける。


「ノエル、大事な話があります。聞く覚悟は……ありますか?」

「どういうこと……」


 シャーロットは言いづらそうにしているが、椅子を引いて僕を座らせようと促す。でも僕はご主人様から離れられない。


「シャーロット治して……」

「……それについて今からお話します……ガーネット、彼を寝室にお願いできますか」

「あぁ……」


 ガーネットはぐったりしているご主人様を担ぎ上げ、レインがまだ眠っている彼のベッドへと運んでいった。

 僕はついていこうとしたけれど、クロエに腕を取られて阻まれる。


「放して……」

「駄目だ。話を先に聞け。あの男に深く関わることなんだぜ。お前が知りたがっていることを話そうとしてる」


 そう言われて、僕はクロエの手を払い、ご主人様の方に気が散りながらもシャーロットの前に座る。


「…………いいですか。単刀直入に言いますけど、暴走しないように平常心を保ってくださいね……」


 良い話ではないというのはどう考えても解る。

 僕は聞きたくない気持ちで手が震えだした。

 それに、魔術を暴走させてしまった後から身体がまた物凄く重く感じる。


「うん……身体が怠くて……魔術がうまく使えない……」

「片翼で魔術を使うのは危険です。以前説明した通り、命を縮める結果になってしまいますよ」

「……ごめん、よく覚えてないんだ。ゲルダと対峙してたところまでは覚えてるんだけど……」


 そう言うと、戻ってきたガーネットは不安そうに僕の方を見つめていた。


「マジか? お前あのときヤバかっ――――」

「黙っていろ」


 クロエがそう言っている途中でガーネットが遮った。2人は睨み合いになるが、不思議と言い争いを始めない。殺し合いが始まってもおかしくなさそうなのに。


「……ノエル、あなたの主の身体の病気は治りました」

「え……」


 てっきり物凄く悪いことを言われると思っていた僕は拍子抜けしてシャーロットの顔を見た。

 なんだよ、脅かすなよとホッとした僕は身体に入っていた力が抜ける。


「じゃあ、さっきのはなんだったの? 驚かせな――――」

「……でも、彼は魔力中毒を起こしているのです」


 聞きなれない言葉に、僕は呆然とする。


「……? なにそれ……?」


 シャーロットが言いづらそうにこちらを見つめる。


「簡単に言うと……ノエル、あなたの強すぎる魔力に対して、彼の肉体と精神が耐えられていないということです」

「なに…………? どういうこと…………? で……でも、僕はご主人様に魔術を使ったことは――――」

「使わなくても、あなたから常に魔力は出続けています。それも並の魔女の数倍、数十倍の濃度の魔力が出ていて……それは、あなた自身は抑えることはできません……簡潔に言うと……」


 シャーロットは泳がせていた目を、僕にしっかりと向けてその言葉を言い放った。


「あなたが彼のそばにいると、彼はあなたの魔力に耐えられず、死ぬ……あるいは正気を失うでしょう」


 時間が、止まったような気がした。

 シャーロットが言っている意味が、解らなかった。いや、解らないわけじゃない。解りたくなかった。信じたくなかった。


 そんなことあり得ない。

 そんなわけない。

 そんなこと、あるはずないんだ。

 そんなわけないそんなわけないそんなわけない。


 ぐるぐると理解と不可解と否定が混じってうずまいていく。


「シャ……シャーロット……冗談だよね……? 僕の……こと……か……からかって……」


 僕は鼓動が早まった。

 自分の鼓動がうるさい。嫌な汗をじっとりと感じた。

 僕は定まらない目でご主人様の部屋の方を見た。今も尚、咳き込んでいる様子が扉越しに聞こえてくる。


「……もうかなり重症の魔力中毒です……実験施設や街で以前、同じ症状の人を見たことがあります……人間だけが発症する奇病は度々報告がありましたが、最近魔力中毒は解明され――――」


 頭に、何も入ってこない。自分だけ、時間軸に取り残されているような感覚だ。


「俺も見た事あるぜ。街はずれにいた廃人の奴隷も魔力中毒の果てだったろ」

「ええ……彼らは手の施しようのない人々でした……」


 街のはずれにいた人々は、皆廃人となっていた。

 精神が錯乱し、狂気に蝕まれていた。疫病に侵されていたように見えたのは、あれは魔力中毒によるものだったのだろうか……――――


「僕が……これ以上傍にいたら…………死んじゃうの……?」


 聞きたくないのに、僕は聞かずにはいられなかった。


 だって、いままでだってずっとそばにいた。

 一緒にいた。

 そんなはずない。

 何かの間違いだ……――――――――


 けして僕は理解力がない訳ではないし、どちらかと言えば子供のころから物分かりのいい方だったはずだ。

 どうして自分がこんなにも今の状況を理解できないのか、理解ができない。


「……徐々に状態は悪化し、最終的に昏睡状態になり、そのまま息を引き取るでしょう」


 きがつけば、涙が溢れてきていた。

 涙が頬を伝ってぽたりぽたりと落ちていく感覚だけが鮮明だった。


 ――そんな……そんなこと……僕はただ、傍にいたかっただけなのに……


 ただそばに置いてほしかっただけなのに。

 僕の居場所になってほしかっただけなのに。

 彼が幸せならそれでいいって思っていたのに、いつの間にか僕はこんなに我儘になってしまった。欲張りになってしまった。

 強欲の罪に対する罰なのだろうか。

 人間が定める罪というものは、けして許されてはならない事柄なのだろうか。


「そんな……そんなこと…………じゃあ、ある程度の距離を保って……とかは?」


 代替案を彼女に提案するが、シャーロットは首を横に振る。


「……それがあなたに可能なのですか? 仮に一日に一回、数十分程度の接触でも症状は悪化していくでしょう。他でもないあなたの魔力だからこそ」


 そう言われた僕は尚更現実を受け入れられなかった。

 ずっとご主人様の傍にいて、ずっとこんな力なんていらないって思っていた。

 破壊する力なんて何の役にも立たない。

 魔女の力も、翼人の翼もいらないから、普通の人間になりたいと僕はずっと思っていたのに。


「ご主人様……ッ……」


 僕はひたすらに涙が溢れてきた。僕の肩をクロエが触れようとしたが、ガーネットがそれを阻む。僕の隣にいたガーネットの腕を掴んで強く握った。

 強く握ったと言っても、僕の肉体の力なんて大したことはない。

 その精一杯の力でガーネットに縋るようにしがみつくと、彼は困った様子だったがそのまま手を振り払う事なくただ僕が落ち着くまで待っていてくれた。

 彼を失う恐怖も辛さも何もかも受け入れられなかった。




 ◆◆◆




 どれほど僕は泣いていたのだろう。

 もう何もかもがどうでもよくなっていた。

 彼がいない世界なんて、ないのと同じ。お願いだからもう奪わないで。

 これ以上奪われたら壊れてしまう。


 ――違う


 違う違う違う。


 ――僕がこの世を壊してしまう


 ガーネットもシャーロットも、クロエさえも泣いている僕に何も言ってこなかった。

 僕は、どうするべきか解っていた。

 解っていても、それを実行するのはあまりにも残酷だった。


「……ご主人様……うぅ……うっ……」


 何度目か解らない呼び声に、返事があった。


「…………何泣いてんだ。バーカ」


 ご主人様の声が聞こえた。

 僕が泣きながらご主人様の方を見ると、彼はこっちを見ていた。

 口の周りの血を乱暴に腕で拭うと、口の周りの血が霞む。


「お前はどこにもいかないだろ? 俺もお前を手放す気はねぇ」


 いつも通りのご主人様だった。

 それを見て僕はもっと涙が止まらなくなり、下を向いて泣いていた。

 これが最後に交わす言葉になると思うと、喉元で言葉がつかえて何も言えなかった。


「そいつ嘘ついてんだ。俺のこと治してなんかいねぇ……ゴホッ……ゴホッ……」


 シャーロットは目を背けた。僕も泣いていて言葉が出せない。

 もしそうならどれだけいいだろうか。


「……いつまでそんな吸血鬼にしがみついてんだ。俺以外を触るなって言っただろ」


 ご主人様は僕に近づいてきて抱きしめてくれた。ガーネットを掴んでいた手を放し、ご主人様の服をギュッと強く握った。

 いつものご主人様の匂いがした。僕は息が詰まって頭が痛くなってくる。


「つーかお前、俺に包み隠さずに言えよな。お前が……魔女だって俺は気にしてねぇよ。魔女でも人間でも、お前はお前だろ?」


『魔女だって気にしない』という言葉が突き刺さった。

 深く突き刺さって胸が痛く苦しくなる。

 ずっと魔女だって解ったらそばに置いてくれなくなるんじゃないかって思ってた。身体が治ったら僕のこと要らなくなっちゃうんじゃないかって思ってた。

 その不安を払しょくすると同時に、この不条理が殺意を露わにして深く僕を突き刺す。

 僕が魔女じゃなかったら傍にいられたのに。


 ――僕が魔女だから傍にいられないのに……


「町の連中がお前のこと……怖がっても、俺がお前を守ってやる」


 それ以上言わないでください。

 それ以上は余計に辛くなってしまうだけだから。


 言葉に出してそう言いたいのに、苦しくて言葉が詰まって言えない。言いたいことが雪崩のように急き立てるのに、その言葉は不規則でうまく表現できない。

 激しく感情ばかりが打ち付けるばかりで、それがどれほど苦しいか、文字通り言葉にすることは出来ない。


「……ご主人様……」


 やっとの思いで僕は口を開けた。やはり声が震えてうまく話せない。


「なんだ?」

「……僕は……ご主人様なしでは……生きて……いけません」


 そうとぎれとぎれに言うと、ご主人様は安堵したような様子で軽く息を吐き出した。


「なんだよ今更、解っている」

「僕は……あなたが……あなたが…………大好きです……」

「……あぁ、解ってる」

「っ……うぅ……ッ……ご主人様…………一緒にいられて幸せでした」


 ご主人様の顔は見られない。しかし、不穏な空気を彼が感じ取ったのは解った。


「“でした”ってなんだよ……おい。これからもお前は……俺の……」

「僕のこと、あのとき……助けてくれて……あ……ありがとうございました……」


 少し、ご主人様の声が焦り始める。

 僕ら以外の三人はただ黙って僕の言葉を聞いていた。

 その意味は誰もが解っただろう。


「おい何言ってんだよ。お前まさか自分が魔女だから……俺にバレたからって俺が態度変えると思ってんのか? だったら……――」


 僕は首を左右に激しく振った。

 怖かった。それでも受容れてくれたことが嬉しかった。


 僕が魔女でもいって

 穢れた血でも……いいって――――


「ご主人様……僕は……僕は少しでも……あなたの心の中にいられましたか?」


 声を振り絞って、懸命に僕はそう口から言葉を紡ぐ。

 本当はこんなこと言いたくない。

「一緒にいたい」「離れたくない」と素直に自分の気持ちを言うのなら、まだ素直に言えそうな気がするが、僕の口から必死に紡がれる言葉は僕の気持ちとは逆の言葉だ。


「なんだよ、お前……さっきから。ふざけているのか? お前……まさか死ぬんじゃないんだろ? なぁ……? ずっと昏睡状態で心配したんだぞ……お前が……もう目覚めないかもしれないって……」


 死ぬのは僕じゃない。


 僕だったらどんなに良かったかと考えると、心臓が止まりそうになるほど締め付けられて、不整脈を起こして本当に死んでしまうかもしれないと感じた。

 僕が話を進められず、泣いているとガーネットが沈黙を破った。


「死ぬのはお前だ。人間」


 僕は耐えられずにしがみついていた手を放し、立ち上がってご主人様に腕をまわし、抱きしめた。


 ――あぁ……これが最後の抱擁になるのかな……


 もう二度とこの暖かさも匂いも感じられないのかな。

 もう二度と、声も聞けないし言葉も交わすこともできないのかな……――――――

 感情なんて不完全なもの、もはや捨ててしまいたいとすら願う。


「……は? 言っている意味が分からねぇ。おい、説明しろ」


 僕は止まらない涙でご主人様の髪を濡らしながら、声にならない声で言った。


「このまま僕が傍にいたら……あなたは死んでしまう」


 僕はご主人様を離した。

 そして彼に唇を重ねる。柔らかい感触がした。

 少し冷たい彼の唇は、震えている様だった。


 最期のくちづけだ。


「お別れですね……ご主人様」

「お前……待てよ……そんなの……!」


 僕はご主人様から離れた。ガーネットを涙で濡れた目で見ると、腕を組んで寄りかかっていた椅子から身体を起こした。

 僕の赤い長い髪が重く揺れる。ご主人様が僕を掴もうとした手を、ガーネットがご主人様の腕を掴んで阻止する。


「引き際をわきまええろ。見苦しいぞ」

「ふざけるな! 放せ!」

「ハッキリ言わないと解らないのか? お前は――――」


 その先の言葉は、聞きたくなかった。


「ノエルに捨てられたんだ」


 僕は溢れる涙で前が見えなかったが、こうする他に一体どんな選択肢を僕が選べたというのだろう。

 クロエはニヤッと笑って満足げにしている。

 シャーロットも心なしか涙ぐんでいるようだった。

 ガーネットはご主人様が僕に掴みかからないように止めていてくれた。


「放せよ……! お前は俺のもんだろ!? 一生俺のものだって誓ったはずだ! お前は約束を違えるのか!?」


 やめてください、それ以上言わないで……お願い……――――


 他のどんな酷い言葉で罵倒されるよりも、耳を塞ぎたくなるような言葉で罵倒されて苦しさに溺れてしまいそうになる。


「ノエル……ここを離れてどこへ行くのですか?」

「……シャーロット……本当にありがとう。頼みがあるんだ。ついてきてくれるか?」


 つらそうな目をした彼女は、苦笑いを無理やり作った。


「ええ……行く場所も、縛られる理由もないですから……アビゲイルも助けていただきましたし……」


 僕はご主人様の部屋へ入って、丸くなって眠っているレインを起こした。

 その部屋の匂いや、自分がいつも眠っていたベッドの横はやけに懐かしく感じた。

 もう二度と、ここには来ないのだと思うと胸が詰まる。


「……ノエル? ノエル! 起きたんだね!」


 レインは僕を見ると、喜んで僕の腕に抱かれるよう胸に飛び込んできた。

 僕に頬ずりをしてくるが、相変わらずレインの鱗は鋭くて痛い。バタバタと喜んでいるレインをしっかりと抱き留め、その汚れている包帯をゆっくりとほどいた。

 怪我は完全には治っていないけれど、もう包帯をとっても問題ない程度にはなったようだ。包帯をすべてほどくと、レインの美しい白くて硬い鱗が見えた。


「どうしたの? ……泣いているの?」

「レイン……お願いがあるんだ」

「なーに? ぼく、ノエルの為なら何でもするよ!」


 僕はその無邪気なレインの声を聞いたら、少し笑顔になることができた。


「彼の……ご主人様の傍にいてくれないかな」

「えー!? あの怒りんぼの人間のそばに!!?」


 僕がレインと話している間にも、ご主人様の声はずっと聞こえていた。必死に僕に対して行くなと言っている。


「彼を……僕の代わりに守ってほしいんだ。レインにしか頼めない。悪い魔女がきたら……彼を魔女から守って欲しい」

「なんで? ノエルが傍にいたらいいのに……ぼくはノエルといたい。ぼくをおいていかないで……」


 僕は再びレインを抱きしめた。

 小さい身体から小刻みな震えが伝わってくる。

 ずっと寂しい想いをさせてしまっていた。僕もレインを異界に返してあげたい。でも、彼を守る誰かがいないと駄目だ。

 魔女では駄目だ。

 しかし、龍族は魔術系統の魔族ではない。せいぜい炎の魔術を一瞬使うのが精いっぱいだったはずだ。


「レイン……正直、よく覚えていないんだが……赤い龍に君を頼むと言われたことだけは覚えているんだ」


 法衣のポケットから龍の鱗を取り出すと、レインに見せる。

 それをみてレインは動揺して僕の顔を何度も見た。

 その赤い鱗にはレインは見覚えがあるようだ。

 レインの瞳から雫が落ちるのを見て、僕は赤い龍も涙を流していたことを思い出した。

 残酷な光景も同時に蘇る。


「その赤い鱗の龍は……亡くなった。助けられなかった……」

「そんな……」


 赤い鱗をレインは抱き留めながら泣いていた。


「僕はこれから、こんな悲しいことがおきないように『あること』をしないといけない。それには……レインに協力してもらわないとできない。僕がそれをきちんと成し遂げるまで、彼の傍にはいられない。僕の大切な人なんだ……レインのように守ってくれる仲間がいないと……僕が彼から離れられない」


 僕も泣きながら、レインを抱擁する。


「…………解った……ぼく、頑張るよ。……また会えるよね? ぼくのこと忘れちゃったりしないよね……?」

「レインのこと、忘れたりなんかしないよ。約束だよ」

「うん! 約束!」

「……お願いね。必ず異界に帰すから……僕の羽を渡すからもしものときは僕を呼んで? 僕もその羽に合図をだしてレインを呼ぶから」


 そう言って僕は自分の翼から一つ羽を毟り取った。


「シャーロット、きて」


 現れたシャーロットに赤い鱗と僕の羽を渡した。


「これを使ってレインの首にかけられるように、首飾り状にしてほしい」

「解りました」


 赤い鱗が鎖のように変化し、僕の羽がふわふわとその鎖の円に連なってついている。

 それをレインの首にかけた。

 一度は解ってくれたレインだったが、やはり寂しいのか僕がレインを降ろすまで自分からは離れようとはしなかった。


「おい!! 俺の言うことが聞けないのか!!」

「大概にしろ。ノエルがお前を想ってのことだとどうして解らないんだ」

「ふざけんな! そんなこと頼んでねぇだろうが!!」

「……なんなのだ? 貴様の感情は全く理解できん。ノエルをこれ以上苦しめるな」

「苦しめて何が悪い!? 俺のものだ! 誰にも渡さねぇ!!」


 今も尚、僕に対してそう言い続けている。


「シャーロット……彼を眠らせてくれないかな……」

「……よいのですか?」

「……うん」


 人間が考えた偶像に、万物を創造したと言われる存在がいる。それは“神”と呼ばれ、人間の心を支えたという歴史が残されていたのを思い出す。

 神というものがいるなら、酷く残酷だ。

 こんな別れ方するくらいなら、どうして僕と彼を合せたのだろう。僕はあのまま死んでしまっていれば良かったかも知れないとすら思った。

 どうして与えてからまた奪うのか。これ以上、僕から何も奪わないでほしい。

 僕はそんなにも欲張りな願いなどしていないはずだ。


「勝手に俺から離れるなんてゆるさねぇ! だったら俺がお前を……――――」


 シャーロットが魔術式を彼にかけたら、彼は瞬きする間に眠ってしまった。

 そしてガーネットの腕にもたれるように倒れる。ガーネットはやれやれといった様子で再び彼をベッドへと運んだ。


「……ノエルはこれからどうするの?」

「僕は……」


 クロエとシャーロットを見つめた。


「魔女の殲滅せんめつ……」

「えっ!?」


 シャーロットが物凄く驚いた様子で僕を見た。クロエは聞いた瞬間にお腹をかかえて笑い出した。


「すげぇな。流石俺の女。やることがちがうぜ」

「――と、思ったこともあったけど」


 続けざまに話し出すとシャーロットはホッと胸をなでおろし、クロエは「なんだよ」と文句を言っていた。


「僕はこれから異界に行こうと思う」


 それを聞いた全員が唖然として僕の方を見つめていた。



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