第15話 すれ違い
絶望だ。
何の希望もないような気がした。
いや、僕には最初から何もない。
――何もなかったんだ……
刺すような日差しの熱さに咎められているような、木々の葉が覆いかぶさり事実を隠そうとしているような、敗れている服から全て僕の感情までも見透かされるような気がした。
あらゆる世界がすべて僕を孤立させているような気がした。
少しでも僕のこと待っていてくれているだろうなんて、希望的観測をした。
それに沿わなかったからって僕は何も言わずに背を向けて飛び出してきてしまった。
なんて愚かなことをしてしまったのかと冷静になれば後悔が列をなす。
しかし僕は微塵にも冷静でなどいられなかった。
――酷い。帰ってきたのに、そんな扱い。ずっと会いたかったのは僕だけだったのか……
死ぬ可能性だってあった。
ご主人様もそれを承知だったからこそ、僕が出て行くのをかなり渋ったのだ。
いくら吸血鬼族が僕を守るとはいえ、そんなこと気休めにしかならないと解っていたはずだ。
普通の人間だったらもう二度と帰ってこられない可能性のほうが高かった。
――命からがら帰ってきたのに……
そう思う僕は勝手だろうか。
僕はもやもやした気持ちのままうずくまって泣いていた。
泣いたところで事態が好転するわけでもないことくらい、僕は理解しているのに。理論では片づけられない悲しみが僕を冷静ではいられなくする。
しばらく僕はそのまま動けないでいた。
「おい」
時間がどれほど過ぎたのだろうか。
その声が後方から聞こえた。
ふり返るまでもなく、ガーネットがそこにいるのは解った。その声がご主人様のものではないと解ると、物凄くがっかりした。
「………………なんで来たの。レインたちを見ていてって言ったじゃない」
「お前と離れすぎると私が苦しくなるということを忘れたのか」
僕がボソボソと文句を言うと、ガーネットは少し苛立ったような口調でそう答えた。確かにそうだった。
最近はずっと一緒にいたし、契約上僕の方が優位だから忘れてしまっていた。
一番の要因はご主人様のことで頭がいっぱいだったせいだ。
ここはガーネットと初めて座って話したあの場所だった。
ガーネットに涙を見せたくなかったけれど、でも僕は悲しみに押しつぶされそうな中、僕は涙を流すしかなかった。
「何を泣いている」
少し呆れが混じる声で、ガーネットは訪ねてくる。
「……なんでもないよ」
子供のように拗ねてそう言う僕の隣に、やれやれと言わんばかりにガーネットが座る。
ローブで顔を隠し気味ではあったけれど、彼の傷だらけの顔は美しく、金色の髪が風に揺れると赤い瞳が見え隠れする。
漠然と彼に視線を向けた後にそんなことを考えるが、実際頭の中はまだ混乱しており冷静とは言えない。
どうしたらいいのか解らない。
ご主人様のことを見失ったら、僕はもうどうしたらいいか解らない。
この先は?
これから僕はどうやって生きていけばいい?
魔女の寿命でこれから先、ガーネットと二人で何をしたらいいのだろう。
先の見えない不安に押しつぶされそうになり、恐怖感でより一層震えが止まらない。
「……なぜあの裏切った魔女を殺さなかった?」
僕の様子を他所に、ガーネットは僕に疑問をぶつけてくる。
無視をするのは簡単だったが、僕はやっとの思いでその質問に答えた。
「…………別に、殺す必要がなかったから」
「なぜ人間や馬に薬草を与えた? なぜあの龍の世話を焼く? どうしてお前はあれほどの力がありながら、それを使おうとしない?」
質問攻めにしてくる彼の質問に答えるのは全く気乗りしなかったが、黙って泣いていても状況が好転するわけもないことくらいは僕は解っていたので、それに答えようとした。
本当はこんな力、ほしくなかったのに。
結局この堂々巡りだ。
どんな答えをしたらガーネットは納得してくれるのだろうか。
「僕は、虐げられる気持ちを知っている……無意味に略奪され、蹂躙される苦しみを知ってる……」
ぽつりぽつりと話始める。
「だからなんだ? 強い者が略奪するのは当然のことだろう?」
「――――なら、僕はガーネットから何もかもを奪いつくしてもいいの?」
涙で濡れた目で、僕はガーネットの方を見た。
ガーネットは「私に勝てるとでも思っているのか?」とは、言わなかった。
あれほどの魔術を見て、力の差が解らない程、彼はバカではない。
「僕なら、いくらでも略奪できる。呼吸をするように全てを破壊できる……でも……」
僕は木々のざわめきに耳を澄ませた。
土の香りを感じた。
生暖かい空気を吸い込んだ。
「……僕は、ガーネットから略奪するより、ガーネットとこうして話して解り合いたい。力がすべてなんかじゃない。それじゃ、いつまでも一人ぼっちだ。僕がほしいものは、力を誇示しても手に入らない」
そう言うと、ガーネットは神妙な表情をしていた。
「あの男のことか? ……お前とあれは住む世界が違う。変に情を移すのは愚かだろう。力を誇示しなくても、お前がほしいものは手に入らない」
「…………」
「お前はもう縋るものがないから、あの男に依存しているだけだ」
「違う……そんなことは……」
「では、あれではなければならない理由を言ってみろ」
「それは……――」
僕は、口を
言えなかった。
その質問に対して明確に答えられなかった。
何故と問われると答えられない。具体的な理由なんて解らない。
なんと答えたからいいか解らずに黙ってしまう。
「なんだよ、俺のどこが好きなのか言えないのか?」
その声が聞こえた時、僕は身体を震わせた。
声のした方を向くと当然ご主人様がいた。
どうして僕の居場所が解ったんだろう。
それよりも、どこから聞かれていたのかという焦りで混乱していた。
――――僕が魔女だってこと……聞いていた?
どうしよう、早く何か言わなければ。
そう思うほど僕は口から何の言葉も出てこない。
「ご主人様……」
「やっと帰ってきたと思ったら、なんだよその態度」
不機嫌な様子でご主人様が僕のほうに近づいてくる。
僕は慌てて立ち上がる。
僕の隣にいるガーネットとご主人様は、互いに目を合わせると睨み合いになった。
「ずいぶんとその吸血鬼と仲睦まじいな? 俺からその魔族に乗り換えたってわけか? 本当に節操がないな、お前は」
「違います!」
僕は必死にご主人様を説得しようとした。
その僕の声の豹変を感じ取ったガーネットは立ち上がり、僕らに背を向ける。
「ちっ……好きにしろ」
そういって赤い眼の吸血鬼は山の木々の中に消えていった。
ガーネットの言っていたことが頭にちらつく。
相容れない存在なのだから……情を映すのは愚かだということも……解っている。
「ごめんなさいご主人様……その……お取り込み中に……」
「お前が謝るのはそこじゃねぇだろ」
「…………」
「なんだ? なんで謝るのか解らないのか?」
こういうとき、いつも困ってしまう。
僕は何が悪かったのか解らなくて。でもご主人様は怒っている。
僕は目を泳がせた。視界に入ってくるのは草木の緑と、ご主人様の服、白い肌、眩しい光。この場所で唯一右往左往としているのは僕だけだ。
「……ごめんなさい。解りません」
ご主人様が乱暴に僕の長い髪を引っ張って引き寄せた。
痛みで僕の顔は少し歪む。
「お前、そのボロボロの服はなんだよ。あの男に身体を許したのか?」
僕の着ている服は、左側の部分が大きく破れて僕の白い肌と、翼を隠している部分の模様が露わになっている。
「そんなわけないじゃないですか!」
こんな格好でそう言っても、何の説得力もないことは解っていた。
ご主人様は僕を突き飛ばす。もちろんそのまま僕は後ろにあった木に背中を打ち付ける。
あまりにも無慈悲な痛みで僕の感情を塞き止めていたものが壊れた。
こんなに頑張ったのに……――――と僕は思った。
少しくらいねぎらってくれてもいいのに、と。
ずっと自分を保って、ひた隠しに隠していたものがドロドロとあふれ出す。
身体が少しでもよくなったらと思って命がけで町を出た。なのに結局このありさまだ。
「ご主人様は……僕のこと何も解ってくださらないのですね」
口に出した瞬間、また涙が溢れてきた。
そして、泣きながら彼のお顔を見た瞬間、僕は後悔した。
ご主人様は今までに見た事のないような表情で凍り付いていた。
驚いたように目を見開いて、凍てついて瞬きさえすることを忘れている様だった。
端的に言うのなら、傷ついているような表情でもあった。
そんな傷ついたような彼の顔を僕は見たくなかった。そんなお顔してほしくなかったのに、僕は感情を抑えることができずに口に出してしまった。
僕が瞬時に後悔して謝ろうとして口を開いたが、それよりも彼は早く僕に言い放った。
「解ってないのはお前だろ。もういい、好きにしろ。もうお前は俺の奴隷でも何でもない。勝手にしやがれ。顔も見たくない」
そうして僕は置き去りにされた。
誰もいない、静かな静かな森の中に。
◆◆◆
【ノエルが旅立った日の午後】
彼は相変わらず具合が悪そうにぐったりとベッドに入ってうなだれていた。
「ゴホッ……ゴホッゴホッ!」
激しく咳き込み、胸を押さえて苦しそうな表情をするが、彼の背中をさする手は差し伸べられない。
いつも咳き込むと慌てて彼にかけよって心配そうな表情をするノエルがいないと、家の中は随分静かなものだ。
――こんなに静かな家だったか……
彼がそう考えながら、重い身体を起こし、やっとの思いで水を飲もうとするが、ベッドの近くに置いてある入れ物にはもう水は入っていなかった。
いつもすぐに水の替えを持ってくるノエルがいないと細かな部分で何もかもが不便だ。
――退屈すぎて死にそうだ
魔女が支配していたときは、退屈なんて存在しなかった。
常に魔女に怯え、そして苦汁を舐めさせられ、服従させられ、弄ばれてきた。それを思い出すと彼は苛立ちを隠せない。
ノエルが吸血鬼の若者と繋がっていたことも、彼の中で酷い苛立ちに変わっていった。ノエルは自分だけに傅き、服従し、心を砕く筈(はず)なのにと考える度にイライラが抑えられなくなってしまう。
――なんだよ、俺に隠れて魔属なんかと。殺されたっておかしくねぇのに
彼は自分の知らないノエルが許せなかった。何もかも、包み隠すことなく、全て自分のものだと確信していた。
それでも、ノエルは出会う前のことは話したがらない。魔女に捕らえられていたくらいだから、相当酷い扱いを受けてきたのだろうと彼なりにそこは立ち入らないようにしていた。
――それに……町の外になんて……
コンコンコン。
扉を叩く音が聞こえて彼は勢いよく身体を起こした。
――諦めて帰ってきたのか?
期待を胸に扉を開けると、そこには恰幅のいい白衣を着た初老の男性が立っていた。町で医師をしているカルロス医師だ。
「やぁ、元気そうじゃないか」
「……ちっ……うぜぇんだよ」
「ノエルちゃんに君を診てくれと頼まれてるからな。大人しくしてくれよ」
カルロス医師は彼が許可をしていないのに家に入った。その手には薬や果物などが入った籠を持っている。
「ノエルちゃんは物凄く心配していたぞ。君のことも勿論心配だが、私はノエルちゃんの方がずっと心配だよ」
籠から中のものを取り出しながらカルロス医師は話続ける。
「町の外に出るなんて……魔女にでも見つかったら……」
「ごちゃごちゃうるせぇんだよ。さっさと帰りやがれ」
カルロス医師が口に出したことは、勿論彼も深く理解していた。不安と払拭しようと躍起になっているところに、油を注ぐように再度連想させるカルロス医師に彼は苛立った。
手際よくカルロス医師は聴診器や自分の手を使い彼を触診し、様子をうかがった。
初めはおとなしくしていた彼も、男の手で身体を触れられて気分を早々に害し、医師の手を振り払った。
「俺は男には興味ねぇんだよ。もういい。帰れ」
「悪態をつく元気はあるようだが、しかし身体は相変わらずのようだね」
「ふん……」
虚勢を張っても、医師にはお見通しだ。
見透かされて言い返す言葉も出なかった。
「俺はあとどのくらい生きられるんだ」
「……なぁ、そういう言い方はよさないか。ノエルちゃんは君の為に一生懸命仕事をして、家事をして、研究をして、あまつさえ命をかけて町の外に出て行ったんだ。生きる希望を持ちなさい」
「随分あいつを買い被っているようだな? てめぇの老いぼれたオンナよりもあいつのほうに興味が沸いたのか?」
カルロス医師は眉間にシワを寄せて彼を見た。
息を深く吐き出しながらカルロス医師は軽く首を横に振った。
「呆れるよ。とっかえひっかえ女を連れ込んで、ノエルちゃんを大切にしていないことなんて町の人間全員が知ってることだ。魔女の館から連れ帰られたあの子を気味悪がる人が大半だけど。それでもノエルちゃんは君の為に反論一つせずに尽くしているのに、まったく――――」
「うるせえ!!」
ガシャン!
大きな音を立てて机の上に置いてあった聴診器が床に弾き飛ばされる。
彼は異形のような険しい顔をしていてカルロス医師を睨みつけ、敵意を露わにした。
「俺とあいつの何が解るんだよ!? 解ったような口をきくな! さっさと出て行け! 二度と来るな!!」
感情に身を任せそう怒りを爆発させ荒れ狂う彼に、カルロス医師は恐怖よりも憐れみを感じていた。
「……君は……確かにもう長くないだろう。だが、だからこそ、残りの人生は後悔のないように生きなさい」
「聞こえなかったのか!? 失せろ!!」
追い出されるようにカルロス医師は彼の家を後にした。
医師が出て行ったあと、彼は頭を抱えてベッドに座り込んだ。
――君はもう長くないだろう
その言葉が重く彼にのしかかる。自身でも知っていたことだが、実際にそう他者に告げられると絶望的な気持ちになる。
「畜生……」
魔女から解放されて、やっとこれから人生が始まるっていうときにこんな状況で彼は酷い絶望感を感じていた。
夜の
彼は出て行ったノエルのことを考えていた。戻ってこないかもしれない。いくら魔族がついていたとしても、魔女の力は強大だ。
それにあの吸血鬼が敵に回って殺されるかもしれない。
何もかもが信じられない。
「本当は……俺に愛想が尽きて出て行ったんだ……俺なんか……」
彼は泣いていたノエルの顔を思い出した。
彼のことを一心に考え、どんなことでもしてくれる。一番に自分のことを考えていてくれているはずだ。
彼の不安を上から塗りつぶすように、いくつもの思い出が浮き上がっては光となって彼を包み込んだ。
その温かさに手を伸ばそうとすると、それはフッと蝋燭の火のように消えてしまった。
「……早く帰って来いよ……」
彼の消えそうな声は、彼女に届くことなく闇に呑まれた。
【1日後】
「ねぇ、大丈夫なの?」
「うるせえ、黙ってろ」
「ふふ、可愛い人」
ろくに会話もなく、女性がするりと自分の服を滑らかに脱いでいく。笑みを浮かべながらベッドに腰かける彼に近寄りその柔らかな唇を落とした。
彼も自身の指を彼女の肌に滑らせる。
「もう、がっつかないでよ」
「黙っていろ」
彼はノエルのことを考えていた。
目を閉じて身体に触れると、まるでノエルに触れているような気持になった。体型もノエルに似ている女を選んできた。
ノエルがいない不安を飲み込めない。日に日に強くなっていくばかりだ。仮の女に気持ちが逸れている内は、まだ幾分か落ち着いていられる。
彼は女の首を噛んだ。
「痛……っ」
彼は女の痛がる声がノエルの声でないことを嫌でも感じざるを得なかった。
目を開けて女を見ると、やはり女はノエルとは似ても似つかない女がそこにいる。
ノエルの白い肌とは違う日焼けしていて荒れている肌に、指通りの悪い黒い髪、純粋さのない笑み、積極的に彼に指を這わせるその卑しい態度。
全てがノエルと違った。
「…………」
「どうしたの? あたしは大丈夫。痛いのも……興奮するわ」
女が彼の下半身に触れようと指を服の中に入れようとしたとき、彼は女の手を振り払った。
「もういい、帰れ」
「は? なんでよ。これからでしょう?」
「ちっ……俺は帰れって言ってんだ。てめぇみたいなブス、相手にできるかよ」
「はぁ!?」
女は激昂し、自分の服を乱暴に掴んで家から出て行った。
「クズ野郎!」
そう吐き捨てて。
女が出て行った後、彼は自分の頭をため息をつきながら抱えた。
再び静寂が戻る。
誰もいない家はいつも不安になる。それでもノエルが帰ってくれば落ち着いていられる。
静寂の中ではいつも嫌なことを思い出す。
――お前なんていてもいなくてもいいのよ。お前の代わりいなんていくらでもいる。生かしてもらっていることに感謝しなさい
背中の燃えるような痛みを思い出す。屈辱を受け続けた日々。
「…………なにしてんだ、俺は……」
窓から差し込む月明かりをぼんやり見ると、青く部屋の中が照らされていた。
そこに花瓶に挿された花が月光を反射して白い花弁が眩しく光っている。何枚も折り重なっている花びらはまだ咲ききっていない。
確か、毒のある花だからと言ってけして触れさせなかったものだったと彼は記憶していた。
吸い寄せられるようにそれに近づいて、それを見つめた。幹の部分にはけして触れさせないようにという花の強い意思を感じる鋭い棘がいくつもついていた。
――これは、棘の部分に強い毒があるんです。危険なので触らないようにしてください
そんな物騒な花をなんで花瓶に挿しておくのかと彼は思ったが、花に興味のない彼にはどうでもいい話だった。
彼はそれを思い出しながら、その花に手を伸ばした。
もうどうでもいいと投げやりになっていた。
誰もいない。
もう、自分には何もない。
――このまま病に苦しみながら死ぬなら、いっそのこと……
花に触れる直前、その隣に置いてある大量の紙に視線を奪われた。その紙にはびっしりと文字が書いてある。神経質な字で紙の隅から隅まで化学式や、植物の絵、聞いたことのないような物質の名前が書かれている。
全てノエルが彼の為に研究した成果をまとめたものだ。どれを読んでも彼には理解できない難しいことばかりだ。
紙をめくっているとすっかり花のことは忘れていた。
「…………」
ベッドにその紙の山を持って行き、一つ一つに目を通し始めた。
――これはご主人様の身体に合わないようだ。ご主人様はこの系統の草には拒絶反応が出るらしい。咳止めには有効な成分が入ってるが、これでは使えない
――山にある薬草は粗方全て試した。あとはこれらから成分を抽出し、合成して使うほかない。ただ、合成するためには機材が必要だが……先生の研究室に適したものはあっただろうか
一枚一枚それをめくって行くと、彼はノエルの自分への為にどれほど努力しているかを強く感じ取った。
寒い季節も、暑い季節も、いつでも研究を続けている後姿を彼は見てきた。
それをまためくって行くと、紙の後ろに何か走り書きをしているのが目に留まる。
――どうしてご主人様の身体は良くならないのだろうか……彼は僕の全てなのに……
そう書かれている紙は他の紙とは異なり、少しよれていることに気づいた。まるで水をこぼして、それが乾いたかのように紙が波打っている。
それが何か、彼は解った。
解った瞬間、先ほどまでの自分の愚かさに背筋が凍り付く。
「泣き虫が……」
紙をその辺りに放り出し、彼は眠りにつくことにした。
先ほどまでの絶望的な気持ちはなくなったが、やはり不安はぬぐえなかった。
「帰ってこなかったら、浮気するからな……」
いつもなら「捨てないでください」と不安げな顔で、本気で捨てられるのを心配して目を潤ませながら懇願してくるが、そうしてくる彼女はここにいなかった。
その様子を見ると彼は何よりも満たされた気持ちになる。
演技ではなく、本気で捨てられることを恐れていることを彼は知っていた。
知っていていつもそう意地悪を言っている。
離れるわけがないと確信しているからこそ、そう言える。
その姿を思い出すと、彼はなかなか眠れなかった。
やけに静かで明るい夜だった。
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