4 サトウキビの思い出 中

たしかに、女は少年と10階建てのビルの屋上から飛び降りた。しかし、落下している時の空気の流れを感じたのはほんの一瞬で、次に訪れていたのは足が地面に着く感覚であった。

 衝撃などはない。ほんとちょっとした段差を飛び降りた時のような、すたっと着地したような、軽いかんじであった。


 女が飛び降りた時にぎゅっとつぶった目をおそるおそる開けると、その飛び込んできた光景に目を丸くした。


 黄昏時のグラデーションがかかった空には電線などの余計なものは見当たらず、その下に広がるのは海からの心地よい風が吹く度にわさわさ、からからとささやく立派に育ったサトウキビの畑。その中の小道の先には、夕日を反射した海がきらきらと光っていた。


「ここは……」

「どう?ここであってた?」


 ふと、振り向くとあの少年がにっこりと笑って立っていた。


 あってるも何も、正真正銘、ここは女の故郷であった。今立っている小道は、昔よく友達とかけっこをした場所である。未だに舗装されず、むきだしの土の匂いがする。


「ってか、なんでこんなとこにいるの?私たち屋上から飛び降りたはずなのに?」


 どう考えても人間業ではないことをされたので、女は驚いた様子でまじまじと少年を見る。少年はただ笑うだけだった。


 二人はそのまま夕焼けに染まるサトウキビ畑の中を進んで行った。

 途中、サトウキビ畑の中から農民が顔を出していたのを見たが、こちらには気づいてなかったようであった。


 さとうきび畑を抜けて、またしばらく歩くととうとうアスファルトで舗装された道にぶつかった。その上に足を踏み入れると、むっとして空気が熱くなったのを感じた。日が沈んできたといえど、アスファルトの熱はまだ冷めそうになかった。

 さざ波の音と潮風を感じながら道沿いに歩いていくと、いくつかの商店が立ち並んでいるのを見つけた。時代遅れの古びた佇まいに、サビがこびりついた看板をぶらさげている。

 それは女に酷く懐かしさを思わせた。


「ああ……まだここあったんだ」


 女はその建物のうちの一つにふらふらと近ずいて行った。店の前には駄菓子という看板とともに、日に焼けて黄ばんだ氷という小さいのれんがあった。そして、店の柱にはいくつかの鉢植えから伸びた朝顔の蔓が巻き付いていて、花は既に萎んでいた。

 こののれんも昔はこんなに黄ばんでいなかったし、朝顔も昔はもっと大量にあって緑色のカーテンをつくっていた。


 女は萎んだ朝顔にふれた。まだ咲いていないつぼみの数は少なかった。


「ここ何?」


 少年は看板をみてから、女を見上げて尋ねた。


「ここは駄菓子屋。駄菓子を売ってるの。……てか、あんた駄菓子って食べたことある?」

「駄菓子?お菓子のこと?」


 お菓子は別の世界で何度か食べたことがあった。基本甘くて美味しいもので、どちらかといえば栄養をとるためと言うよりは味を楽しむものであったはずだ。

 少年がそう言うと、女は頷いた。


「まあ、お菓子でほぼ正解。けど普通のクッキーとかポテチとかじゃないわ。10円や20円で買えるくらい安くて味も安っぽいお菓子を駄菓子っていうの。子供のお小遣いでも簡単に買えるわよ」


 そうしていると、ふと店の扉がガラリと開いた。


 中から出てきたのは女と同じくらいの若さの女であった。ただ、髪の手入れはそんなにされてなく、化粧もしていない。服装もかなりラフな格好にエプロンをしている。


 出てきた女はまじまじと二人を眺めた。とくに女の方を見ていた。その目がだんだんと見開かれていき、とうとうその女が口を開いた。


「やっぱあんた……優子じゃん!どうしたの急に!?なんかあった?」


 優子と、自分の名前を呼ばれてはっとした。

 このわさわさとした髪はくせっ毛である。そして旧友にそれに該当する者が一人だけいた。


「え?もしかして海奈…?」


 優子がそう言うと、海奈は嬉しそうに頷いた。そして、海奈はぱっとした笑顔で話し始めた。


「そうそう!海奈だよ!いやー、何年ぶりかなぁ…最後に会ったのいつだった?」

「そうねぇ、ちょうどおばあちゃんのお葬式以来じゃない?それから私帰ってなかったから……。」

「じゃあもう5年くらい?いやね、歳を感じるわ。私たちもう29よ?」


 海奈はまた砕けたように笑うが、優子はまだあっけに取られていた。

 海奈はふと、端っこのほうで様子を見ていた少年の方を見た。海奈はじっと少年を見つめた。


「見ない子だねぇ………優子この子は?」


 優子は尋ねられて、しばし言葉につまった。そもそも名前すら聞いてなかった。


「え、えーと親戚の子。父方のね」

「へぇ、お父さんのほうの」

「うん、向こうでは結構付き合いあるから……」


 父の出身はここではないので、なんとか親戚と言ってごまかせた。海奈はそれに納得したようで、母を呼びに行くと言って裏に引っ込んで行った。

 ちょうど少年と二人になったタイミングを見て、優子は少年に小声で話した。


「ねぇ、あんた名前は?」

「名前?えーと、適当に「ナイ」って呼んでよ」

「ナイ……なんかこの辺りじゃ馴染みないわね。ナイって」


 優子がそう漏らすと、少年は手を頭の後ろに組んでこう言った。


「だって名前が「無い」から、ナイなんだもん」

「無い?……あんたほんとうになんなの?幽霊?」


 優子が怪訝な顔つきで言うと、ナイは違うよぉ、とまた笑った。

 そのタイミングで、海奈が戻ってきた。となりには杖をついた白髪の老婆がいた。

 シワが増えた顔でも優子は人目でわかった。


「ああ、おばさん。久しぶり」

「あらー、本当に優子ちゃんなのね?見ないうちにすっかり大人になったねぇ」


 この駄菓子屋の店主でもあり、海奈の母でもあるおばさんは、しわくちゃの手で優子の手を優しく掴んだ。しわしわでも健康的な手であった。そして、このふわっと笑う笑い方も昔と変わらずであった。


「おばさんは今はどうしてるの?」

「今はもうほら、こんなふうに膝を悪くしてしまってからこういう立ち仕事が出来なくなってしまったからね。海奈が表番をして私が裏で会計とかしているのよ」


 4人は海奈が持ってきた丸椅子に腰掛けた。それとともに麦茶とサトウキビがでてきた。海奈がナイと優子にそれをわたした。


「これがサトウキビ?」


 優子は頷いた。

 すると海奈が自分の分のサトウキビを手にした。サトウキビの白いところに歯をたてると、そうするとサトウキビの緑色の皮が少しだけ剥がれた。海奈はその皮を歯で噛むと、そのままぺりぺりと全面の皮を剥いでいった。


「こうやって皮を剥いたら、白いところをかじるんだよ。そうすると甘い汁が出てくるからね」


 ナイは海奈の真似をしてサトウキビの皮を剥いだ。思ったよりも簡単に向けた。そして、その白いところをかじった。


「ほんとだ、甘い!なんかリンゴみたいな味するね」


 ナイが嬉しそうにサトウキビをかじっているのを見ながら、優子も同じようにサトウキビをかじった。あのほのかな甘みが口の中に広がる。実にどのくらいぶりだろうか。不意に子供の頃の記憶が頭に浮かんで優子は懐かしさのあまり、鼻の奥がきーんと傷んだ。


 それからしばらく四人はサトウキビをかじりながら話していた。


「ところで優子。なんで突然戻ってきたの?連絡くらいすれば良かったのに」


 海奈が話題をふった。優子はどきりとした。まさか今から死のうとしていた所に、ナイが現れて半ば無理やり連れてこられたなんて誰が信じるだろうか。

 優子はもどもどとしながらも、なるべく自然な答えを出した。


「え、縁は無くなっちゃったけどなんかね……ほんと急に帰りたくなっちゃって…」

「ふうん、急にか。気持ちはわかるけど、なんか優子らしくないわね。思い立って行動するのって」

「ま、まあ……けど海奈はどうしてここにいるの?昔は絶対都会に出る!って言ってたのに」


 海奈は優子よりも遥かに大きな目標を持ってこの島を飛び出していったのだった。彼女はデザイナーになりたくて大学も大きな都市のところを選び、最後に会った時もその地の企業に務めていたはずであった。


 なので優子は大層驚いていたのだった。どうしてここにいるのかと。


「えー…?私はなんというか、その…」


 海奈はそのくせっ毛の頭をポリポリとかいたりしながらもじもじしている。なんなのだろうかと海奈が口を開くよりも先に、おばさんが口を開いた。


「私がちょうどこの店を閉めるって話をしたすぐ後に戻ってきたのよ、この子」


 優子は直ぐにおばさんの方を振り返った。おばさんは嬉しそうに、その柔らかい笑みをしたまま話しを続けた。


「膝の調子が悪くなってきてね、そろそろ店を切り盛りするのも大変になってきたし、ちょうど売上も伸び悩んでいたしね店を閉めようって決めたの。それを海奈に話したら、この子ったら猛反対してね……お母さんが無理なら私が継ぐ!って。びっくりしたわ、まさかそんなこと思っていたなんて……」


 おばさんの話に海奈は「ちょっとおかあさん……」と、あわてて恥ずかしそうにしていた。


「まさか会社辞めちゃったの?」

「うん、会社に不満はなかったけどねやっぱりなんか違った、自分のやりたいこととね。デザイナーと言っても自分が関われるのはほんのちょっとで、あとは普通に書類作ったりとか企画案出したりとか。そんなのつまんないじゃん?そんなこと思いながら過ごしてた時にお母さんがお店閉めるって。私はそれがすっごい嫌だったの」


 優子は海奈の気持ちがよくわかった。そして同時に気付かされた。彼女も自分と同じような境遇であったのだ。


「けどお母さんほら、杖付きながら頑張って仕事してたしこれ以上続けるのも大変ってのはわかってたから……私が次ぐことにしたの。私が大好きなお店、絶対に無くさないって決めたから」


 そう言い、海奈はにこっと笑った。


 優子にはそれが酷く眩しく見えた。今からこの先を明るくてらして、自分が進みたい道を明確に示しているようであった。唐突な決断で、いままでやってきたことを全てほっぽり出しても、学んできたことを無駄にしてもそれを悔やまずに前を向いていた。


「ほんと思い切ったね……海奈らしいというか」

「そうね、ほんと。けど好きとか、やってみたいとかいう感情だけで来ちゃったけど昔より断然楽しいよ。それにね……」


 海奈は立ち上がり、奥の方へと何かを取りに向かった。しばらくすると1枚のチラシと写真を持ってきた。

 それははこの島で近々行われるお祭りに関してのチラシであった。そして写真はこの島の中心部の商店街の写真であった。


 しかし、商店街は優子が知っているものと異なっていた。店の外装などは新しくなり、何よりその壁にカラフルな魚やイルカ、珊瑚がポップに描かれていて商店街が一枚の絵のようになっていた。


「今ね、私島の観光協会にも参加してるの。それでちょうど商店街の改装の話があってね、それをどうせならもっと人がワクワクするようなものにして見たいって思って提案したんだ」


 写真を一緒に見ていたナイも綺麗だなと呟いた。二人がチラシと写真を一通り見終わると、海奈は話し始めた。


「島のSNSもこの際に作って載せたんだ。それがすっごく話題になってね!地方のテレビ局も来たし、なによりお客さんも増えたんだよ」


 海奈は嬉しさを隠しきれずに、興奮したようであった。嬉しいことがあるとこんな風に熱弁しているような口調になるのも彼女らしい。


「へぇ、面白そうね…。時間あったら行ってみようかな」

「行って見てきてよ。あと写真も出来たら撮って欲しいなぁ」

「写真?」

「うん、優子写真好きだったでしょ?だからいいのが撮れたら見せて欲しい」


 そう海奈が言うと、おばさんも頷いた。


 優子は高校時代写真部にも入っていたし、学生の時もちょくちょく自前のカメラを持って写真を撮りに出かけたこともあるくらいだった。


 しかし、今は全くだ。

 とくに風景や物をみても切り取りたいと思う事が少なくなって、SNSの更新も止まっていた。

 はたして、今の自分に昔のように切り取りたいと思うことが出来るだろうか。ぐるぐると灰色の不安定なモヤが心の中で渦巻いた。


「撮れるかな……いい写真」


 優子がそうぽろりと口にした。


「撮れるよ。写真大好きな優子だもん」


 海奈は優子の肩を軽く叩きながら笑った。その笑顔が見ていて心地よかった。


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