3 サトウキビの思い出 上

 人気がなく薄暗い階段に、カンカンとヒールが床を叩く音が響く。


 息を切らしながら、そのうるさく音を立てるローヒールの靴を履いている女がいた。仕事終わりなのか、よれたスーツ姿である。

 女は階段の終わりにあった扉をもたれるようにして押し開けた。運良く鍵がかかってなかったため女は、10階建てのビルの屋上に立った。


 ビルの周りには温かみのないグレーの仕切りが立てられていて、立ち入り禁止と書いてある看板もあった。つまり女は今れっきとした不法侵入中であるのだ。


 しかし、そんなことはどうだっていい。


 女はふらふらと端の方へと歩いていき、そこにあった腰の少し上あたりほどの高さの柵を平然と乗り越えた。

 柵を背景に、疲れきった目で見渡すのはいくつも連なった晴天の元に広がる無機的な都会のビル郡であった。それを見ても、まったくなにも思わなかった。自分でもびっくりするほどなにも湧いてこなかった。







 そうだ、死んでしまおう。



 どこか旅行へ行こうと。まさにそんな感じで思い立ったのは今日だった。

 与えられた仕事を、ずさんにこなすわけではないが完璧にもできない。周りを驚かせられるだけの才能も、発想もない。

 ただずっと同じように課せられる、同じような仕事を繰り返すだけの毎日。いつの間にか自分に対する期待や自信すらもなくしてしまった。


 そんな自分になんの役目が残されている?なにも生み出せないこれを残す世界の意味とはなんだろうか。


 女は視線を、周りの風景から足元へと移した。灰色に舗装されたコンクリートの硬い地面が見える。

 あと一歩踏み出してしまえば、落ちで自分はお陀仏となる。下はコンクリートだ。痛いだけでは済まない。うってつけだ。

 しかし、いざ下を見てみると風景が遠くなり、目眩がして足がすくんでしまう。


 何をのたのたしているんだと、思考を振り払うように女が首を降った。死にに来たんだからいまさら考えたってあとで続きを考えることはできない。もうとっとと、思考を切ってしまえば良い。


「うわぁー高いなぁ」


 突如横から、子供じみた声が聞こえてきた。

 ぎょっとして女がそちらを見ると、さっきまでなかったはずの人影が現れていた。それは、柵から乗り出す勢いで下を見ていた。


「おねーさん、何してるの?風景見てる?」


 不意にそう尋ねられた。

 女は驚いてその人物をまじまじと見た。


 格好はシャツに黒の短めのネクタイを締めていて、下はショートパンツだった。

 口調はかなり子供らしいものだったが、見た目では子供とはすこし言いづらかった。それに性別もいまいち掴めない。声も、見た目もどちらともとれる中性的なものであった。


「え、えーと……」


 女は言葉に詰まりながら、突如現れた少年(女はこの人物を少年だろうかと、とりあえず判断した)に話しかけた。


「あ、あなたこそこんな所で何してるのよ。ここは子供が来ていい場所じゃないのよ?」

「知ってる。ここ立ち入り禁止なんでしょ?おねーさんもそうじゃん」


 少年はくすくすと無邪気に笑った。

 女はぐっと顔を顰めた。たしかに自分も少年のことをとやかく言える立場ではなかった。

 少年は女のことをとやかく言う代わりに、自分がここに来た経緯を話し始めた。


「僕はね、まぁなんというかなぁ……ずっとUnknownroomあそこにいてもすごい退屈だし、どっかいいとこないかなーって、適当に選んだ場所がこの世界だったってとこかな」


 少年はそう話した。女はところどころ話の意味がわからなかったが、大体のことは理解出来た。


「つまり……暇つぶしってとこかしら」

「そうそう。そしたらおねーさんがいたんだよ」


 少年はにっと歯を見せて笑った。本当に子供と話しているみたいだった。見た目がだいぶ大人びているだけかもしれない。


「それで、おねーさんはこんなところに何をしに来たの?」


 今度は少年が尋ねた。純粋な目をこちらに向けている。こんな出会ったばかりの子供に理由を答える気分ではなかったが、答えないのはフェアではない。


 女は少年とは極力目を合わせずに口を開いた。


「私は………死にに来た。ここから飛び降りて死ぬつもりなのよ」

「死ぬ?」


 少年は首を傾げて、女の方を見ていた。


「死ぬ…って、永遠に全てを失うことだよね?」

「難しい言い方するのね、見た目子供っぽいくせに」

「僕そんなに子供に見える?これでもたぶんこの世界の基準で考えたら結構歳だよ」


 少年は、そう言うとひょいと柵を乗り越えた。女はぎょっとして少年に向かって声を荒らげてしまった。


「ちょっ……!危ないわよ!」

「だいじょーぶ。落ちないから」


 少年は女と同じ場所にたって、都会の風景を見渡した。晴天の青色だった空は、少しずつ暖色に色づき始めていた。


「けどさぁ、なんで死のうと思ったの?」


 配慮とかそういったものはないのだろうか。少年は、まっすぐ狙いを見据えた的に向かってボールを投げつけるかのようにそれを問いかけた。


「なんで、って…………あんたねぇ……」

「だってぇ…」


 女は少年を睨みつけるようにちらりと見るが、少年に対してさほど効果はなかったようである。少年はこう続けた。


「生き物って普通は死にたいって思わないよ?「人間」以外は。なるべく生きていられるようにするじゃん。猫とか、バッタとか。飢餓状態なら共食いだってするでしょ?そこまでしてでも生きようとするんだ。どの世界でも一緒だよ。だから、死にたくなるのってなんか理由があるのかなーって」


 女はしばらくなにも言えなかった。人間だけが死のうとするのは確かである。まさかこんな少年がこんなことを考えているとは思ってなかった。


 そして、この少年は女が死のうとすることを止めるわけでもなく、ただ理由を尋ねているのだった。

 なんの濁りもない瞳がじっと女を見つめている。

女はため息をついた。少年の言うことに妙に納得してしまっていた。



「………人間には「役目」ってのがあると私は思っているのよ」

「役目?」

「そう。それを成し遂げるために人間は生きている。それを一人一人が成し遂げることによって世界を動かしているのよ。……でもね」


 女は一息おいて、こう続けた。


「その役目を上手く果たせないと世界は行き詰まってしまう。車が故障して動かなくなるみたいに世界だって、どこかで停止してしまう箇所が出てくるのよ。それが自分で目に見えない場所ってのも有り得るわ。車が壊れるとその原因を探して修理するでしょ?部品を変えたりするでしょ?それと一緒よ。私は世界にとっての壊れてしまった「部品」。とっとと交換しないといけないのよ。もっと使える「部品」にね」


 女は話終えるとヒュッと息を吸った。ここまでほぼ一息で話していたことに気づいた。久しぶりに本心をぶちまけたような気がして、少しだけ心が軽くなったように思えた。

 ただ、相手がこんな見ず知らずの少年だとは思ってなかったが。


「ふぅん……要は人間は役割がないと生きていけないのか」

「そうよ。あなたにも役割はあるはずよ」


 少年は空を少しだけ見上げてうーんと唸った。


「あるのかなぁ、僕に役割」


 そう少年は呟く。


「少なくとも何かしらはあるわよ。まだ気づいてないだけで」

「けど何からどうやって僕が生まれたかも知らないし、あの場所は僕がいなくてもいいし、なんならあそこはあってもなくてもいい場所だしなぁ。……あ、そもそも僕は「人間」でもなんでもないか」

「あっ、そう……って、は…?」


 今まで風景だけの視界で少年の話を聞いていたが、女は驚いて少年の方を振り向いた。女は眉間にシワをよせ、思わず1歩後ずさり少年と距離を取った。


 少年はこてんと首を傾げる。


「あ、あんた人間じゃないって……」

「まー、僕も僕自身のことはよく分かんないんだけどねぇ……ところで」


 少年は女をまっすぐ見据えてこう言った。


「その役割……ってのは、誰かからそれを貰わないといけないの?」


 女の眉間のシワがさらに濃くなった。


「なにそれ、どういうこと?」

「うーん。もっとわかりやすく言うと…その役割って自分で作れないの?」


 少年はただ女の答えを待っている。女はよくわからないといったように少年を見ている。

 役割を自分で作る?


「そ、そんなこと………できんの?」

「わかんないから聞いてるんだけどねぇ」


 女が眉毛を八の字に曲げて尋ねた。


「まず、自分のための役割ってなによ」

「うーん、多分人によって違うとは思うよ?……たとえば、ゲームの発売があるからそのためにお金稼ぐとかいう感じかな?」

「…そんなの役割って言えるのかしら」

「だーかーらー!例えだって!抽象的なもの突然出されてもわかんないでしょ?」


 少年はぷくっと頬を軽く膨らませた。その口から難しいことがぽんぽんと飛び出すわりには、動作は本当に子供らしかった。


「その役割って、おねーさんは世界のためにって言ってるけどさ、それが自分のためのものでも良くない?って僕は思った。車っていいエンジン使ってるのは良く走れるでしょ?それと同じで、おねーさん達が世界を回している部品に変わりはないけど、その部品がよくなれば世界ももっと楽しいものになるような気がしない?気持ちが良いってのは大事なことだよ。頭が冴えて、物事がすっごくはっきり見えるようになる。そこにまた別の新しい発見も見えてくるかもしれないから、またよりいい発見ができて、結果的に大きく世界を動かすことが出来るかもしれないよ。

 だから、まず世界のために動くんじゃなくて自分のためになるように動いた方がいいんじゃないかな。やりたいこととかつくって、その為になるようなことして生きるとかさ」


 空はすっかり黄色く黄金に焼けて、傾いた日がつくる自分たちの影は細長く伸びていた。女の方を振り向いた少年の髪がその光を反射して優しく光っていた。


「………たしかにあなたの考え方は理解できるわ。けど世の中ってのはそんなに簡単には行かないのよ。みんなやりたいことがある訳じゃない。私だって直ぐには見つかんないし…」


 女はぼんやりと、眼下に広がる思い入れもない街並みを見た。

 自分の自然溢れる故郷とは全く異なる光景であった。故郷を離れてどのくらいになるのだろうか。片親でそれも早い時に亡くなり、唯一の家族であり、慕い、故郷と自分を繋いでいてくれた祖母も一昨年亡くなってしまった。

 ふと、微かな昔の記憶が一瞬だけ目の前を流れてては消えていった。なんとも切なくなって胸がつっかえてきた。


「やりたいことって見つけるの難しい?」


 女は考え事をしていたがために、反応が遅れた。声に気づくと慌てて少年の方をむいて答えた。


「……………えっ?…ま、まあ大変な人にとってはは大変かもね…」

「ふうん。………じゃあ、やってみたいこととかは?」


 やってみたいこと。女はしばし黙り込んだ。

 昔は写真を撮りに出かけたり、ふらりと散歩に行ってみたりと、いろいろやっていたことや、やってみたいことはあったかもしれないが、今の生活に変わってからは休日は家でさほど関心が持てないながらワイドショーをずっと見てるし、趣味関連で何かしようとも、出かけようとも思うこともなくなってしまっていた。

 それなのに、新たにしてみたいことなどが思いつくわけがない。


「やってみたいことも………今はないわね。ダメだわ、私。本当に心が腐ってきたようね」


 そう言いかけたところで、女は先程の目の前を流れていった故郷の光景を思い出した。

 こんどはさっきよりもより鮮明にだ。しかし浮かんでくる感情は切なさもあったが、こんどは懐かしさも混ざっていた。

 そして、あの場所の空気を強く自分は欲していた。


「………行きたい場所はあるかも」

「え?どこに?」

「私のふるさとよ。縁が無くなっちゃったからしばらくずっと行ってなかったけど……なんか急に、ね」

「へぇ。じゃあそこに行ってみればいいんじゃない?」


 少年が提案するも、女は首を横に降った。


「けどすっごく遠いの。そんな思い立って行けるような場所ではないし、車とかで行ける場所じゃないからお金もかかるわ。それに今から私死ぬってのに……」


 この辺りでは感じることが出来ない草木の青々とした匂いや、澄み切っていて強くすっきりとした青色の空を自分が求めているのは嫌でもわかった。

 しかし、もうこんなところまで来てしまって引き返すのには遅すぎる。出来ればもっと早く、自分の中でその欲求が浮かんで欲しかった。

 下を見ると、灰色のコンクリートの地面が自分を誘っているような気がした。


 もう、少年の前でなんぞ関係なしに、身を投げ出してしまいたくなってしまった時、少年の声が聞こえてきた。


「………じゃあ、死ぬ前にちょっと行ってみる?」

「………え?」


 女が振り返る前に少年は女の手を優しく握っていた。


「そのおねーさんの故郷ってどんな場所?」

「え?何急に……」

「いいから。どこにあって、どんな場所?」


 女は訳が分からないと思い戸惑いながらも、ぽつぽつと話し始めた。


「えーと……ここからずっと南よ。この島国の最南端………だったような?離島……それが私の故郷。一年を通して暖かくて、海がとても綺麗な場所よ。」

「うんうん……この世界にも海が綺麗なところってあるんだ」


 少年がそう呟いた。

 さらに女は続ける。


「あとは………サトウキビ畑ね。今がちょうど最盛期くらいだったような気がするわ。その中でよくかくれんぼをしたものね」


 サトウキビ畑のかくれんぼは、あの辺りの子供たちの人気の遊びだった。やったあとは怒られたものだが、それでも楽しくて辞めることができなかった。その後におやつでかじっていたサトウキビも美味しかった。

 女がそう話している間、少年は話を聞きながら何かを考えているようだった。空を見ながら時折ぶつぶつと呟いたりしていた。

 そして、満足したように頷いた。


「………よし!多分ここかなぁ………。」

「?」

「おねーさんの故郷見つけたよ、多分だけどね。まあ違ったらまた飛べはいい事だし……じゃあ、行こっか!」

「え?」


 少年が女の手を引っ張った。


「えっ…!?ちょっと!?」


 少年は踏み込んで、勢いよく10階建てのビルの屋上から飛び降りた。当然女の体もそれに引っ張られる。


「わ、わぁああああああ!!?」


 すこし低めの女の声の悲鳴が辺りに響いたが、それはぷつりと突然途切れて消えていった。

 そして、二人の姿もそこから消えていて、最初から誰もいなかったかのようであった。




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