NASAの男・甘木秀彦
31-1
甘木秀彦は時計を見ながら焦る気持ちを必死に抑えていた。早くしろ。早くしてくれ。
残りあと5分。そのとき奈々子のスカートから下着が落ちた。
甘木秀彦は地面を蹴った。落ちたスカートを拾い、急いで装置と接続する。大丈夫だ。隕石との共鳴率も100%だ。
シンパシムを破壊しよう。これは残された最後の希望だ。
甘木秀彦は奈々子の下着に手をかけた。
そこで自分のミスに思い至る。
体中から血の気が失せていく。
希望が手からこぼれ落ちていく感覚。
「……なんということだ」
自分でも信じられない失敗をした。どうしてこんな初歩的な間違いを犯してしまったのだろう。時間がなかったからか。それとも焦っていたからか。どちらにせよ決してやってはいけないミスを犯してしまった。
「これじゃあシンパシムを破壊できない」
シンパシムという化合物は手で破壊できるものでないし、燃やして破壊できるものではない。反応する材料を加えて初めて破壊できるのだ。研究でその材料は判明していた。アボカドだ。アボカドに含まれる成分がシンパシムと反応してシンパシムを破壊させる。
これは休憩中の遊びで偶然発見されたものだ。
NASAの研究施設内にあるコンピューターにシンパシムの構造式を組み込み、仮想空間でその化合物がどのような物質と反応するかチェックしていた。その時に偶然食べていたアボカドを組み合わせてみたらどうだろうというちょっとした遊び心が、シンパシムを破壊しうる材料を探し出したのだ。
けれど、今自分はそのアボカドを所持してない。
なんということだ。シンパシムを破壊するという計画を立てた時になぜ用意しなかったんだ。
残り4分。
自分の失敗を悔やむ。けれど悔やんだところでアボカドが現れるわけではない。自分がこの計画を成功できなければ地球は崩壊し、愛する妻と娘だけでなく人類が滅びる。自分も死に、悲しむことすらできなくなってしまう。
近くにある木が偶然アボカドだという奇跡はないだろうかと視線を走らせてみるが、桜の木やけやきの木があるだけだった。
妻の優しい言葉も、娘の笑顔も世界から消滅してしまう。
残り3分。
目から涙が溢れてくる。いったいどうすれば。
その時、視界の中に緑色に輝くものが入った。
少し離れた校舎の脇に、砂にまみれて地面に潰れた緑色の物体。甘木秀彦はその物体に飛びついた。砂と共にそれを両手で優しく少し上げる。匂いを嗅ぐ。
間違いなくアボカドだ。
どうしてこんな場所にアボカドが存在するのだろう。誰かの弁当に入っていて、それが落ちてしまったのだろうか。いや理由なんて今はどうでもいい。とにかく今はアボカドがここにあることを感謝しよう。
甘木秀彦はアボカドを奈々子のパンツの上に持って行く。
残り1分。
甘木秀彦はゆっくりとアボカドを奈々子のパンツに垂らした。
繋いできた希望を奈々子のパンツに託す。
パンツはアボカドが触れるやいなや、赤い線を光らせた。そして次の瞬間パンツは溶けるように地面に広がり、地面に吸い込まれていった。
詰めていた息を吐き出す。
辺りを見回してみる。
変化は感じられない。
本当に世界は救われたのだろうか。
とその時、自分の携帯に着信を知らせる音が鳴った。手に取って耳にあてる。
携帯の向こう側で誰かがすすり泣く声が聞こえた。
「……ぐすっ」NASAの同僚の涙声だ。男なのに携帯越しでも分かるほど泣いている。「甘木さん」同僚の男は泣きじゃくるように歓びの声を上げた。「隕石が消滅しました!」
奇跡が起こったんです。
同僚の男は大声でそう言った。
奇跡、か。
甘木秀彦は通話を切り、自分の手元を見る。シンパシムを破壊したとたん、その化合物と密接に繋がっていた下着も同時に消滅した。今はもうこの世界のどこにも娘のパンツはない。
そもそも自分が娘のプレゼントに下着を選ばなかったら。
隕石の衝突前に家族に会おうとしなかったら。
アボカドが見つからなかったら。
確かに奇跡なのかもしれない。沢山の偶然が重なり合って奇跡が生まれ、いまこうして先ほどまではあり得なかった未来を手にしている。
甘木秀彦は大きく息を吸った。
空気の味を楽しみながら肺を膨らませる。
清々しい気分だ。
地球滅亡は回避されたのだ。
青い空。
けたたましい蝉の鳴き声。
今は何もかもが愛おしい。
空につくられる赤い線を見ながら甘木秀彦は考えた。
シンパシムは消滅したから隕石も綺麗になくなったはずだ。それなのに、どうして小さな隕石が残っているように大気圏で燃えているのだろう。疑問が浮かんだが、まあいいかとそれほど深く考えなかった。なにせ今日は奇跡が起こった日だ。嬉しいことは何でも起こる気がする。
奈々子とゆっくり会話したかったが、その楽しみは家に帰ったあとにとっておこう。
焦る必要なんてない。なにせ時間は沢山あるのだ。
甘木秀彦は機材と資料を持ち車に乗り込む。
妻に会いたい。
家へと急ぐ。携帯を取り出して自宅にかけた。
「はい」
妻の優しく包み込むような声が聞こえた。それだけで胸に迫るものがあった。
「解決したよ」甘木秀彦は簡潔に伝えた。
「あら、じゃあ今日はお祝いね」
「そうだな」
「行きたかったお店があるのよ。ちょっと高級なとこで」
「おいおい。予算は大丈夫なのか?」
くすくすと妻が悪戯っぽい笑みをこぼす。
「大丈夫よ。ある人のへそくりが手に入ったから」
そこで甘木秀彦は己の失敗に気がついた。思わず声を出して笑ってしまう。
「そうかそうか。それなら大丈夫だな」何もかもが嬉しかった。
「そうね。奈々子ももちろん連れて行くでしょ?」
「そうだな」甘木秀彦は先ほどの光景を思い出した。「それと、奈々子のボーイフレンドも誘おう」
妻の驚いた気配がする。さっき起こったばっかりのことだ。さすがの妻もまだ知らないだろう。
「あらあら、それは楽しみね」
「ああ。待っててくれすぐに帰る」
そう言って甘木秀彦は車のスピードを上げた。
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