松成敬輔

21-1

 奈々子の父親はパンツの臭いを嗅いだあとどこかに走って行ってしまった。

 見間違いだろうか。本人に見えたが、敬輔が知っている奈々子の父親はいつも穏やかで優しくて大人な雰囲気の人だった。あんなに髪も服も乱して、目を血走らせるような人ではなかった気がするが。

 六時間目の授業をどうしようかと思っていたら、男子トイレに向かうクラスメイトが自習になったと教えてくれた。

 それじゃあ教室に戻る理由もないかと敬輔と雄大は廊下をぷらぷらと歩いていた。

 当然二人ともパンツは履いてない。そしてそのことに気づく人はいない。

 誰かに隠れてイタズラを仕掛けるような、周りにいる生徒を騙して陰で秘密裏に計画を遂行するかのような、そんな風に楽しい感情がわき上がってきた。

「やっぱりすーすーするな」敬輔は笑った。

「そうだな。けど、夏だし涼しくていいだろ」

「かもね。けど、やっぱりなんか落ち着かないね」

「さすがにそのパンツは履けないだろ」

「そう? 意外にいけるんじゃない?」

「じゃあ敬輔履いてみてくれよ」

「あー、うん。さすがに無理だな。変態だろ」

 当然だ。濡れた下着の上からズボンを履いたら水分がズボンに浸透していって、おもらししたかのようになってしまう。さすがにその状態で授業を受けたら騒ぎになるだろう。

 笑っていたら、ふと視界の中で背筋が凍り付くような形相をしている少女が目に入った。

 上戸美姫だ。

 足をとめて、鬼の形相でこちらを睨み付けてくる。先ほどのプールサイドの時よりも何倍も怒りの感情が増幅しているようだった。

 身体が強ばる。敬輔は肘で雄大をつついた。

「雄大、もしかして今の会話聞かれたんじゃない?」雄大に耳打ちする。

「その可能性もあるかもな」

 雄大も美姫の存在に気づいたのか、しまったという顔をしている。

 もしかしたら、今の会話を聞かれていて、責められるのかもしれない。

 確かにプールの授業にクラスメイトがパンツで水の中に入っていたとしたら不快だろう。水の中でおしっこをするのと同じようにマナーのない行為だからだ。

 もしくはプールの授業で最後に言われた奈々子のことだろうか。どちらにしても楽しい会話ではないだろう。

 敬輔は少し構えながら上戸の様子を窺う。隣にいる雄大も同じようなことを考えているのか難しそうな顔をしている。

「どういうこと?」上戸が苛立つように言った。

「なにが?」

 上戸が何に対して怒っているのか分からないので、そうとしか言えなかった。

「パ、パンツのことよ」

 身体の奥底が震えた。

 やっぱり気づかれたんだ。

 プールサイドで会話をしていた時だろうか。それとも今の会話でだろうか。どっちにしろ敬輔と雄大がトランクスを履いていたことに気づけるタイミングは何度もあった。

 パンツを履いてないことを廊下で話していたことを後悔する。

 けれど、このまま認めるわけにはいかない。教師などに告げ口されたら確実に厳しい指導や罰が待っている。それは避けたかった。

「は、はあ? なに言ってんだよ」平静を装ってとぼけようとしたら、少し声が上ずってしまった。

 雄大も白々しく嘘を被せる。

「パンツだなんて突然言われても僕たちにはなにがなんだかさっぱりわからないな」

 さすが雄大。上戸美姫のこの高圧的な態度に惚れただけあって、声に動揺は見られない。

「正直にいま話せば、そこまで大事にはしないけど」上戸は雄大の物言いにも怯まなかった。脅しだ。けれど何の意味がある脅迫なのだろう。ここで敬輔たちから自白を取って何がしたいのだろう。

「だから、意味がわかんないんだって」

 敬輔が知らぬ存ぜぬの態度をとっていたら、突然限界を越えたように上戸は怒鳴った。

「ふざけないでよ!」

 前触れもなく発せられた大声に驚いた。

 上戸美姫はそれ以上は何も訊かずにどこかに行ってしまった。

「あー、ビビった」敬輔は上戸の姿が見えなくなると胸を撫で下ろした。

「パンツでプールに入ったってだけで、あそこまで怒ることはないよな」雄大は少し呆れたような顔をしていた。

「ほんとだよ。けど、大丈夫かな? 上戸誰かにチクったりしないよね?」

「平気だよ。証拠もなにもないし。だいたいプールの授業もう終わってるんだから、あそこまで目くじら立てなくてもいいよな」

「そうだよね」

 上戸に対しての不平不満を漏らしながらとぼとぼと廊下を歩いた。

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