甘木奈々子

20-1

 六時間目の授業が始まるかと思ったら、情報処理の教師が教室に入ってきて自習を告げた。

「原因がわからないんだが、学校のパソコンの調子が悪い。なので今日は全員教室にて自習」

 エアコンの調子が悪かったり、パソコンが上手く動かなかったり、夏の暑さにやられて機械類が故障しているのだろうか。

 自分の席に座りながら奈々子は周りを見る。

 もうすぐ六時間目の授業が始まるというのに美姫はまだ戻ってこない。自習だから焦る必要はないのだが、それでもすぐに着替えてくると言った美姫がまだ戻ってこないのはおかしい。何かあったんだろうか。

 それに松成敬輔と君津雄大も戻ってきてない。

 プールの授業が終わった後にそのままどこかに行ってしまったのだろうか。

 ああ。なんだかすっきりしない。

 その時、教室の後ろの扉が開いた。

 自習だからとざわざわしていたクラスメイトの視線が集まる。

「お父さん」見ると父が息を切らせて立っていた。奈々子は慌てて駆け寄る。

 どうしたのだろう。なんだか目が血走ってるようだが。

 この父をあまりみんなに見られたくなかったので、後ろ手で扉を閉めて廊下に出た。

「どうしたの?」

 父は苦しそうに浅い呼吸を繰り返している。

「大丈夫?」

 奈々子が手を伸ばすと、父も手を伸ばして奈々子の手の中に布状のものを渡した。

「これ、返すぞ」

 そう言われて奈々子は受け取ったものを開いた。それは下着だった。しかも見覚えがあるものだった。

「これって美姫のパンツじゃん! お父さん盗んだの!?」

 間違いない。美姫の家に泊まりに行った時にお気に入りだと言ってた下着だ。

 可愛らしいクマさんのパンツを履いている女子高生なんて美姫以外にいるはずがない。

 どういうことなんだろう。返すということは父は自分の意志で一度は盗んだということだろうか。

 もしそうだとするならがっかりだ。そんな父だとは思わなかった。

 それとも会っていなかった二年間の間に父は変わってしまったんだろうか。

「違う。違うんだ」父の呼吸が整っていく。「これには理由があるんだ」

「理由? 女子高生の下着を盗む正当な理由があるなら聞いてもいいけど」

 奈々子は不信感丸出しで訊いた。

「これはな。これは地球の、世界の危機なんだ」

 父は大真面目にまっすぐ奈々子を見た。その瞳には一点の曇りもなかった。

 父は頭がおかしくなっちゃったんだろうか。こんなに意味不明のことをまるで真実かのように真剣に言っている。

 アメリカの生活はここまでストレスが大きいものだったのだ。文化も食事も言語も違う。

 あんなに真面目で努力家だった父がここまで変わってしまうとは。

 アメリカは怖い。ストレスはもっと怖い。

 髪の毛が残ってるのがせめてもの救いか。

「お父さん。ちょっと休んだほうがいいよ」

「ほんと! ほんとなんだ!」

 父がすがりついてきた。

「お母さんに電話して迎えにきてもらおうか? ちょっと心配になってきちゃうよ」

「奈々子! これは、真剣だ」

「言い訳するなら、もうちょっとまともなのにしなよ」

「違う! 言い訳じゃない! だから、奈々子、お前の下着を渡してくれ!」

 頭の中が真っ白になった。

 奈々子は反射的に父の頬を叩いた。叩いた後に自分の右手の痛みで冷静さを取り戻すが、それでも父が吐いた言葉を信じられなかった。

 自分の娘の下着を盗もうとするなんて。そんなことは言葉にしちゃだめだよ。

 父は叩かれたことを受け止められないのか呆然としている。

 初めて父を叩いてしまった。

 想像以上に精神的にくるものがあった。

 でも、これで父も目が覚めたはずだ。

 チャイムが鳴る。

 とにかく今は美姫だ。きっと美姫が教室に戻ってこれないのは履くべき下着が見つからないからだ。

 自習なんてしている場合じゃない。

「じゃあお父さん。わたし行くからね。お母さんに電話して迎えに来てもらったほうがいいよ」

 奈々子はそう言い残して美姫を探しにいった。

 早くこの下着を返さなきゃ。

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