第7話 土佐の国

 同じ頃、土佐の国では、長宗我部元親が戦支度を始めていた。三好康長との戦いが目の前に迫っていた。四国は、足利幕府の管領であった細川家が永く治めた地域が多く、細川家の重臣であった三好家が力を持つようになると細川家に変わり、三好家が治めるようになっていた。土佐も、管領の細川惣家である細川京兆家が代々守護を勤めていた。元親の「元」の字も、管領・細川晴元から細川京兆家の通字である元を受けて元親と名乗る。守護である細川京兆家は、守護代を同族の細川家に任せていたが、応仁の乱や細川家の内紛などで守護代が土佐から離れてしまった。


 そのため、守護代がいない珍しい地域となり、国人と呼ばれる勢力がそれぞれに地域を支配していた。長宗我部家も、それらの国人の一つだった。国人領主である長宗我部に細川京兆家の通字を与えたことから、長宗我部家が重要とされていたのがわかる。


 元親は、一領具足と呼ばれる半農半兵の家臣を抱え、周りの国人との戦いに勝ち、土佐一国を制することができた。他国でも、農民を戦の時に臨時に徴収し兵隊として用いるのが常であったのだが、一領具足は、常に戦いに出れるように鎧を着て、槍を準備した上で畑仕事をしていた。農民であっても、戦に積極的に参加することで、長宗我部家との繋がりが強くなっていた。

「やっと、ここまで来たのか」

 元親が長年の苦労を噛みしめるように、独り呟いた。元親の祖父・兼序の代には、同じ土佐国人の本山氏に岡豊城を攻められ、討たれてしまう。その際、元親の父・国親は逃げ出すことができた。国親は、土佐一条家の二代目・一条房家によって保護され、房家の取りなしによって、岡豊城に戻ることができた。


 土佐一条家も、守護細川家と同じく大きな勢力を持っていた。元々、五摂家の一条家が応仁の乱の混乱を避けて、所領のあった土佐の土地に移ってきて土着したことを発祥とする。この頃は、守護と言えども、寺社が持つ寺社領、京都の中央貴族が持つ荘園などは守護の管轄外であり、勝手にはできなかった。しかし、力のない貴族や寺社などの領地などは、その地域の守護から搾取される可能性も高く、守護請という形で、守護が代理で土地の管理や税の徴収を行い、手数料などを引いた分を土地の所有者に渡す契約をする者も多かった。

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