第22話 今のを聞いたか?
アユタヤに再び来れたのは、トキと別れてから二年以上も後のことだった。
半年ほど前からトキと連絡が取れなくなっていた携帯は、アユタヤに着いてもやはり繋がらない。
ヨシは今一度手首を顔に近づけ、
「どうだ?」
携帯は登録されている声紋を瞬時に感知識別した。
「すみません、何度もかけ直しているんですが」
代理人のケータイ・マネージャーが品の良い、しかもセクシーな声で言ってくる。プライベートなエージェントアプリだ。
以前そんな人工知能の女性に恋をした男の話を聞いたことが有る。完璧に勘違いなんだが、ヨシもこのマネージャーと話をしていると、いつの間にか感情移入をしてしまう。
「いいよ、君のせいじゃない」
「もうしばらく続けてみましょうか?」
「いや、もうやめていい、有り難う」
ヨシはトキの身体だけ他の子たちよりも成長のスピードが異常に速いと、アンから聞いて気になっていた。理由は分からない、マテアムの中にはたまにそういった個体が生まれることがあるし、巷で問題になっているコピーだったのかもしれない。末期のトキは当局の施設に収容されていたという。しかし何の連絡もなく、その姿がついに消えた。
「アユタヤ・イースターン航空からお知らせします」
「ん?」
「十五時三十分発バルンテープ行きA三四二五便は、機材点検の遅れから……」
「何だ、遅れるのか」
ヨシは携帯でアンを呼び出した。
「アン」
「ヨシ、いつ来たの?」
その明るい声の後ろには、アンの好きなニュービートがガンガン響いている。
「いや、まだ日本の空港なんだよ、遅れてるんだ、でも今夜中には行けるから」
「空港なの、じゃあ今から迎えに行くね」
「そうじゃない、アユタヤに着くのは」
「分かった、すぐ行くから」
「まて、だからそうじゃないって」
切れた。
結局飛行機は四十分ほど出発が遅れ、海に突き出た空港を離陸した。
旋回する機の窓からは、洋上に何隻かの貨物船が見えている。あのオンボロ龍城丸はついに解体されることになり、船長と機関長は他の船に移った。ヨシは東南アジアを主な取引先とする小さな貿易会社に縁がありそこで働くことになった。
空港からホテルに着くと、すぐアンに連絡をする。
現れた彼女はピンクのTシャツにショートパンツ、素足にスニーカーを履いている。ヨシの背中に両手を回し、頬を押し付けてきた。
「寂しかったわ」
心なしか貫禄のついてきたアンの身体、張り出した二つの膨らみが、やわらかくヨシの胸に当たる。
「いつまでいられるの?」
「時間は十分有るさ、少し歩こう」
今ではダンサーたちのリーダー格となっている彼女は気軽に店を抜け出す。アンの首筋からは軽く良い匂いがしてくる。
二人はナナの通りを歩き出した。
「ヨシ、あなたが今度来る時はもう会えないかもしれないわね」
「ん、なぜだ?」
露天通りに面したオープンバーで椅子に腰を下ろし、二人は夕刻の雑踏を眺めていた。テーブルには小さなリキュールグラスが置かれ、透明な液体で満たされている。アンはグラスを手に、のどを上に伸ばして一気に飲み干すと、ライムの小片をかじった。
しばらくうつむいていたアンが口を開く。
「もう世代交代なの」
「世代交代?」
「そう、私のような年齢になってもステージに立っている子はあまりいないわ」
アンには似合わない気弱そうな顔で言った。
仕方のないこととはいえ、残酷な現実を目の当たりにする。間近で見る彼女の顔は、メイクで誤魔化してはいるが目尻や口元に小じわが目立つ。ヨシとアンの間にいつの間にかずれが生じ始めていた。
まれな事だがストレートなマテアムに発生する寿命の異常性は知っていた。トキにどんな事情があったのか分からない。だがヨシの記憶にはまだ、大きな黒い瞳で笑いかけてくるあの若いトキの姿が、そっくりそのまま残っている。
「ねえヨシ、聞いてる?」
「ん?」
いつの間にかアンがヨシの顔をのぞき込んでいた。
「今のナナには私よりずっと若い子がいるんだから、遠慮しなくっていいのよ」
「あ、いや、そんなことは……」
「****~*、****~**」
目の前を、小銭入れの箱を首に掛け、マイクを握った盲目の男が大音量で歌い通り過ぎて行こうとしている。
「ト……」
「****~**、*~****~**」
それは短くかすかな、
だが、
ヨシの神経を揺り動かすのに十分な言葉だった。
「アン!」
テーブルの上に置かれたアンの腕をつかむ。
リキュールグラスが倒れた。
「今のを聞いたか?」
「何を?」
共通DNAを持つ者の通称名でさえ厳格に管理されているというのなら、このアユタヤでトキと名乗る子は一人しかいないはずだ!
「今トキが呼ばれていたのを聞いただろう!」
「ヨシ、何を言っているの、トキは……」
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