第4話 おーー、おまえ逆走じゃないか
熱帯モンスーン気候のアユタヤで、六月のバルンテープは夕方になるとスコールの洗礼を受ける。季節なんか有って無いようなところだ。夏季から雨季に入っているのに、まだ暑い。
この港には日本から着いたばかりだが、新米船員にも上陸できるチャンスが有る。シャワーを浴びる時間も惜しい。すぐジーパンとTシャツを着てタラップを伝い船から降りた。
「よし、行くぞ!」
新しいゲームを始める気分にアドレナリンが噴き出した。
巨大バケツをひっくり返したような雨の後で、道路に沿った木も草もじっとりと濡れたままだ。露出している皮膚がどろどろと溶けてしまいそうな、むっと粘つく熱気の中を歩いていく。
港となっている河口に停泊する船の周囲に、上流から流れ着いた水草がゴミのように寄せている。主要な大型施設からは離れた港湾の端で、近くにつなぎとめられたヨットが静かに揺れる。ロープが金属製のマストをたたく音だけ、軽くカツンカツンと聞こえてくる。
目の前にオレンジ色の街灯に照らされて、タクシーよりも運賃の安いトクチャーがいた。車体のサイドから配管のまとわりついたエンジンが丸見えになっている。操縦席に横座りするサンダル履きの男がヨシを見た。
白い歯を見せかじっていた、肉の塊らしいものを小さなケースにしまい込む男。布きれで手を拭きながらでかい声を出す。
「トクチャー!」
「ナ~ナ~、タオライ?」(ナ~ナ~、幾らだ?)
近づきながらナナまでの値段を聞く。この国には何度か来ているから、アユタヤ語の簡単な会話くらいならできる。
男はヨシと似たような体型だ。中肉中背で目玉のぎょろっとした浅黒い顔に、微妙な角度で灯りが当たっている。人の顔を上からライトで照らせば、何千光年かなたの惑星からやって来た訪問者だが、下からやれば地獄より湧き出た死者となる。幸い街灯は真上に有った。
「ソーンローイ」(二百)
生命体は即座に答えた。直線で十キロもない、せいぜい五十か六十ビートで行ける距離だ。
笑うと、
「ヌンローイ」(百)
立ち上がりながら男は言い値を下げる。あとは返事も聞かず、モトサイクルのような単座の操縦席に跨がり直しキィーに手を伸ばした。
急いで後部座席に乗ると、異音がして両サイドにまではみ出たメカが火を噴く。凄まじい爆発音が静かな港にとどろいた。サイレンサーなんて上等なものは付いていないようだ。
辺りの建物に耳障りな不調サウンドを反響させトクチャーを飛ばしていく。
左右の歩道には人影もなく、シャッターの下りた時代遅れな街並みが続いている。
ヨシは細く銀色に光る手すりを握りしめた。両手を広げてもまだ余る幅の広い座席に、見通しのきかない低い屋根。ドアも窓もない吹きっさらしでシートはつるつる、サイドガードは頼りない。
「おーー、おまえ逆走じゃないか」
急に始まったスラローム走行に日本語が出る。
反対車線にはみ出し加速したトクチャーがそのまま戻らず、うなりを上げて疾走していく。操縦席後ろのバーを両手でつかむと、おもわず爆音にも負けない声を出す。
「事故なんか起こすんじゃないぞ!」
座席も床もバイブレーター。手すりに巻き付けられた花輪が小刻みに震えながら寄ってくる。髪が車内に巻き込む風で逆立つ。前をのぞき込むと、ビーチサンダルでアクセルをぺったり踏みしめている。
すると唐突に、
「スイースイップレーングマァ」
「アライ?」(何?)
「ニークースイースイップレーングマァ!」
こいつは話すたびにいちいち振り返る。言われた言葉がよく分からない。
男は漢字で《無情》とプリントされたTシャツをねじり、
「ルーマイ? ルアットレオ」
アユタヤは日本びいきな者が多い国なのだが、珍妙な漢字をよく見かける。ところがこの無情は珍しくまともだった。浅く居心地の悪い後部シートの背もたれから離れて身を乗り出すと、男の肩越しにその操縦を監視し始めた。
肩を怒らせて前を凝視する男、
車線は斜線、
追い抜き割り込み進路妨害なんぞは当たり前、
無情の二文字がビリビリとはためいている。
アユタヤ語を話そうとするが、こうなると日本語しか出てこない。
「何を言ってるか分からんが前を見てろよ。もう後ろを向かなくっていいからな」
「ニーペンスイースイップレーングマァクワームレゥスーン」
「おーー、前前!」
と前方を指さす。
「**! ****!」
クラクションを鳴らす対向車に悪態をつき、まだ後ろを向こうとする。
「ニー、ペン、スペッシャル」
何か言いたいことがあるような顔をしている。
「スペッシャル」
「マイカウジャイ。ドゥー、ティーレーオ」(分かった、とにかく前を見ろ)
また対向車が!
片足を挙げ、
車内で身をかわそうとした、
そこでいきなり男のむちゃなクイックハンドル――
急激な揺り戻し!
「おーーーーーーーーっ!」
「スぺッ――」
「ハンドルから手を離すんじゃない」
「スペッシャル」
「人の話を聞いてるのか、前を向けって言ってるだろうが」
今度は男の顔面横で左手を突き出す。
「前を向け!!」
「ティー」
「――」
「ティー」
後ろを向いたり前を向いたり忙しいやつ。だが言っている言葉がやっと分かるようになってきた。
「ティーニー、これを見ろ」
「ん?」
男の足元にある黄色いレバー。
懲りずに振り返ると体をねじりその器具を指さす。
「ここに有る、こいつだ」
「それがどうした」
「こいつを引くとな」
男がレバーを握った。
「待て、引かんでいい、想像はつく」
今でさえつるつるのシートから飛び上がり、ずり落ちそうになっている。さらに、段差を強引に乗り越えたトクチャー。ふわっと浮き上がった腰が無慈悲に落下、尾てい骨が堅いシートを激しくヒットした!
「くそ、加減ってものを知らないのか」
トクチャーはカーブに突っ込んでいる。
ガーガガガガガガ――――――――――――――――
手足を突っ張り、
屋根のバーをつかんだ、
身体は斜め張り付け状態、
片足が空に浮いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます