第18話
※
「あんまり人がいないね。晴れてるのに」
「ま、休日でもねえからな」
俺たちの眼前には、犬の散歩をする初老の男性や、海岸の光景をスケッチする青年がいて、客のいないアイスクリームの売店なども見受けられる。そしてその向こうには、護岸工事された波打ち際があり、それから先には広大な海が広がっている。
灯台のある岬まで、自転車でざっと十五分。炎天下といっても過言ではない陽気だが、風があったのが幸いだった。海風はやはり清々しい。
俺は緩やかな坂を登り、灯台のそばに自転車を止めた。ちょうどベンチが空いていたので、取り敢えず夏奈と並んで腰を下ろすことにする。
すると、何かに気づいたように夏奈が口を開けた。
「どうしたんだ?」
「ちょっと待って」
俺が首を傾げていると、夏奈は鞄からペンケースを取り出した。その中から取り上げたのは、ただの定規である。
夏奈はそれを眼前に翳し、じっと遠くへ睨みを利かせた。そして呟く。
「ああ、やっぱりだ」
「何が?」
「ほら、海岸線って、緩やかに曲がってるって言うでしょ? 本当かな、と思って」
「小学生かお前は!」
そんなこと、今更確かめたかったのか。俺は軽く夏奈の頭に手刀を下ろそうとした。が、その直前、夏奈の周囲を取り巻くように、ふっと光の輪ができた。その輪は周囲に向かってさっと広がり、すぐに消え去った。
「おっ、おい!」
何故ここで魔法を行使したんだ? 人目もあるのに?
「馬鹿! 何やって――」
『何やってるんだ』という俺の言葉を相殺したのは、夏奈の微かな呟きだった。
「この距離まで気配を消して近づいてくるなんて、流石私の妹ね、冬美」
はっとして振り返る。するとそこには、シャツに薄手のスラックスを穿いた金髪の青年が一人。こちらを見上げ、さもつまらなそうに口元を歪めている。
その瞳は、エメラルド色だった。
「ッ! あいつ!」
鞄から拳銃を取り出す暇はない。俺は咄嗟にポケットからペーパーナイフを取り出した。
「止めてくれ、涼真。今日は話をしに来たんだ。姉ちゃんが一緒だと都合がいいと思っていたんだが、こうもあっさり機会が訪れるとはな」
低いバリトンボイスは、しかしこの言葉の間に音程も音質も大きく変容した。同時に、青年の姿も光に包まれ、一瞬ふわり、と浮き上がる。そこに現れたのは、言うまでもなく雨宮冬美だ。
「おい夏奈、どうなってるんだ?」
冬美を睨みながら声をかけると、夏奈は言った。
「大丈夫、結界を張ったから。外から私たちの気配は察知できないし、こちら側にも入って来られない」
結界って、さっきの光の輪がそれか。
「そ、そうか……。って違う! どうして冬美が襲ってきたんだ⁉ それにどうしてそんな呑気に構えてんだよ!」
すると夏奈は、ベンチの上で勢いよく伸びをした。それから俺に一瞥をくれ、視線を坂の下にいる冬美に投げかける。それからすっと肩を竦めた。
「だって、戦うつもりはないみたいじゃない? お話するくらい、自然なことでしょ? 私たちは姉妹なんだし。年がら年中、喧嘩してばっかりもいられないよ。でも――」
「でも?」
すると夏奈は、すっと息を吸ってこう言った。
「冬美、涼真に話があるって、何事なの? それに、どうして私がいると好都合なわけ?」
「十二年前、先端科学研究所支部の爆破テロについて」
抜き身のナイフのような、冬美の鋭利な言葉。
夏奈はぴくり、と全身を震わせ、一歩後ずさった。
「鬼原博士と彼の奥さん、それに三人の部下を爆殺したのは姉ちゃんでしょ?」
無言の夏奈。
俺は二人の間で視線を行き来させた。
「お、お前らは一体、何を言ってるんだ?」
「あたしが言った通りだよ、涼真。ま、姉ちゃんがこんなミスをするなんて、珍しいこともあるもんだよね」
今度は冬美が肩を竦めてみせた。姉妹だからか、同一人物の仕草に見えてしまう。
しかしこの時、二人の表情はまるっきり異なっていた。
どこか余裕があり、シニカルな笑みを浮かべる冬美。
微かに口元を震わせ、瞬きすらも忘れてしまった夏奈。
「嘘だ……。そんなの、嘘っぱちだ!」
軽い目眩を覚えながらも、俺は声を張り上げた。
「夏奈はそんな残酷なことはしない!」
「だからミスったんだってば。さっき言ったじゃん」
ため息をつきながら、自分の眉間を指で突く冬美。
「何なら証拠でも見せようか、涼真?」
と、問われたものの、残念ながら俺に決定権はなかった。全身が柔らかい何かに包まれていくような感覚と共に、俺の意識は強制的に冬美に支配された。
※
何かの気配を察知して、その記憶の主は顔を上げた。どうやらここは、現代日本のどこからしい。テレビや冷蔵庫といった家電があるし、ラジオから流れてくるのも日本語だ。
ふと、カレンダーが目に入る。十二年前の、十二月。俺にとっては忘れようもない、忌まわしい月だ。
「お帰り、姉ちゃん」
と、記憶の主が言った。この声は――冬美か?
そうか。俺は冬美の過去の記憶を見せられているのだ。
やがて、部屋の一角、座布団の上の空間が歪み、眩い光が発せられた。さっと眼前に手が翳される。
冬美が視線を戻すと、そこには夏奈がいた。今と変わらぬ姿だ。きっと冬美もそうなのだろう。違うのは服装くらいのものか。夏奈は厚い真っ白なダウンコートを羽織っている。
「お帰り」
冬美が繰り返す。しかし、夏奈は動かない。膝を曲げてぺたりと座布団に尻を着き、焦点の定まらない目つきをしている。
「どうしたの、姉ちゃん。姉ちゃん?」
のそのそと近づき、夏奈の肩を揺する冬美。しかし、夏奈は無反応だ。ただ、されるがままになっている。
流石に不審に思ったのか、冬美は夏奈を座布団ごとこちらに向かせ、軽く頬を叩いた。
すると、虚ろだった夏奈の目が一度閉じられ、水滴が――大粒の涙が零れ落ちた。
「私……ちゃった……」
無言で夏奈に詰め寄る冬美。囁くような夏奈の言葉に、自分の耳を澄ませる。
次の瞬間、冬美は夏奈にぎゅっと抱きすくめられていた。
「ちょ、姉ちゃん⁉」
「私、私……人を、殺しちゃった……!」
「えっ⁉」
ぎょっとしたのは冬美の方だ。
「そ、そんな! そんなこと起こるわけない! あたしたちは、飽くまで平和裏に、人を傷つけずに破壊工作を――」
「だから、間違っちゃったのよ‼」
冬美の手を振り払い、夏奈は立ち上がった。
聞けば、今回の標的となるスーパーコンピュータは、シェルター状の地下施設の深部にあり、地上から破壊魔法を仕掛けるのに狙いを外してしまったのだという。
「そ、それで誰が亡くなったの?」
しかし、それ以降夏奈がまともに口を利くことはなかった。再びへたり込み、泣きじゃくるばかり。
冬美が事件の詳細を知ったのは、翌日のニュースを観た時のことである。
※
俺はふっと、意識が自分のものに戻ってくるのを感じた。さっと夏奈の方に振り返るものの、彼女は異論を唱えようとはしない。今見せられた記憶は、捏造ではないということか。
だが、一つ疑問がある。
「な、なあ、冬美」
「ん?」
敵意の欠片もなく、軽く首を傾げる冬美。
「お前の言葉だけど、『人を傷つけずに破壊工作を』って言ってたよな?」
「ああ、それか」
冬美は腰に手を当て、やれやれとかぶりを振った。
「あたしには無理だって、思い知らされたよ。姉ちゃんほどの魔女は、今生きてる連中の中ではそうそういない。そんな姉ちゃんでさえ、ミスで人を殺めてしまうなら、あたしには『人を傷つけない』なんて到底無理だ。だからあの日以降、あたしは方針転換したわけ。『犠牲も止む無し』ってね」
もし俺が平常心だったら、ここは怒り狂うところだろう。両親を殺した夏奈に対しても、それをきっかけに殺傷行為を厭わなくなった冬美に対しても。
だが、俺にはそんな感情が湧いてこなかった。告げられた事実があまりに衝撃的だったからだ。
いや、しかしそれだけか? 妙に頭がぼんやりとするのだが……。
「冬美、もう止めて! 涼真を私たちの都合に巻き込まないで!」
すると急速に視界が狭まり、音はなくなり、俺の意識全体が闇へと落ちて行った。
最後に思ったのは、一体何が起こっているのか、という純粋な疑問だった。
※
意識の覚醒は一瞬だった。はっと息をついて、自分の上半身を持ち上げる。どうやら俺は、またベッドに横たえられていたらしい。
周囲を見渡そうとして、俺はむせ返った。肺や気管といった臓器が意識の覚醒に間に合わず、動作不良を起こしたらしい。
「あっ、気がついたの、涼真?」
「げほっ……あ……」
俺が胸を押さえながら目を上げると、そこにはお粥の入った器を手にした夏奈がいた。
「俺は、一体……」
「ごめんね、涼真」
夏奈は俺のそばに膝をつき、目線を合わせた。
「冬美の言葉で、涼真が発狂しそうだったから、一度強制的に意識を失くしてもらったの」
「冬美の、言葉……」
ああ、夏奈が誤って俺の両親を殺してしまったことか。
確かに一旦落ち着いてみなければ、とても認識しきれないほどの情報の『厚み』があった。
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