第4話


         ※


 気づいた時には、俺は自室の前にいた。エレベーターや廊下を経てきたはずだが、記憶がない。誰ともぶつからなかったのは僥倖だ。

 掌をドア横のパネルに当てると、短い電子音と共にドアがスライドして自室へ通じる。足を踏み入れ、ドアが閉じ、天井の照明が点くのを感じる。そして俺は、


「畜生!」


 大声で叫びながら、拳を壁に叩きつけた。もちろん、壁を壊す意図があったわけではない。純粋に自分の中の暴力性を抑えきれなかっただけだ。


「はあ、はあ、はあ、はあ……」


 俺はその場で膝をつきかけて、何とか立ち上がった。今ここで姿勢を崩したら、薬を飲めなくなる。

 

 薬。これがなければ、俺は一日と自分を保つことはできない。俺は体重を上半身にかけ、前方のデスクに向かった。半ば倒れ込むように、つんのめりながら両手をつく。


「薬……」


 今度は棚を引き開け、薬の袋とミネラルウォーターを取り出した。


「はあっ!」


 一際大きく息をつき、袋に目を通す。『デパケン』『アルプラゾラム』『アキネトン』――精神安定剤の類だ。慌ててパッケージから錠剤を取り出し、ペットボトルの蓋を開ける。危うく零しそうになりながら、何とか三錠の薬を飲み込んだ。


「ふう……」


 手の甲で顎を拭う。今度こそ脱力した俺は、ふらふらと脇のベッドに倒れ込んだ。あとは薬が効いてくるのを、つまりは脳内に巡り出すのを待つだけだ。

 ベッドにうつ伏せになったまま、今度こそ俺は床に膝を着いた。


「くっ……」


 涙があふれてくる。悔しさや悲しさとは違う、感情の昂りによるものだ。

 どうしてこんなに心が揺さぶられたのか。原因は単純だ。司令官に自分の生い立ちについて指摘されたから。

 だが、それは表層的なものに過ぎない。問題は、その『生い立ちの内容』だ。だが、それは今考え出すべきことではない。せっかくの薬の効果が薄れるような気になる。


 俺はまた一つ、大きなため息をついて突っ伏した。

 その後の記憶が飛んでいるところからすると、薬の副作用で眠ってしまったらしい。


         ※


《……警部補、鬼原警部補? いらっしゃいますか? もしもし?》

「ん……」


 俺はゆっくりと瞼を開けた。


《小林、小林正人です。夕飯の時間ですが、ご一緒にいかがですか? 自分もいろいろと、鬼原警部補にご教授賜りたいことがありまして》

「……」

《お休みですか? ああ、失礼しました。それではまた後日》


 プツッ、とインターフォンの切れる音。

 また後日、か。

 小林は、明日や明後日がまだまだあるものと信じて生きている。だからこそ結婚し、家庭を築いたのだろう。


 それに比べて、俺はどうだ。いや、結婚できる年齢ではないとか、そういう意味ではない。

 俺も時々、自分が明日以降も生きていることを前提として、『後日』という言葉を使っている。

 だが、俺たちの仕事はそんな甘ったるいものだろうか? 


 堪えは否だ。

 今日はたまたま、魔女による被害は出なかった。少なくとも、警察関係者には。

 しかし、俺は危なかった。魔女の障壁に弾丸が阻まれたあの時、俺の後方からSATが突入して来なければ、正直どうなっていたか分からない。

 

 あの時、ちらりと見えた魔女の瞳を思い出す。顔の造りは陰になって分からなかったが、瞳はあの障壁と同様、エメラルド色に輝いていた。そこに決然とした意志が込められていたように見えたのは、気のせいではあるまい。


 決然とした意志。邪魔者は断固排除するという意志だ。

 小林に対する嫉妬心と、魔女に対する恐怖心。それらに胸が捻じり潰されるような感覚に陥る。

 それでも、俺はこの場を退くわけにはいかなかった。退く気もなかった。微塵も。


 魔女は必ず、俺たちが仕留める。それが俺の過去の清算であり、単なるエゴに過ぎないとしても。


         ※


 翌日。


「ふあ~あ……」


 俺は電車を降り、鞄を肩に掛けながら、軽い傾斜のある坂道を登っていた。

 アスファルトで舗装され、左右には商店が並び、同年代の生徒たちが俺を追い抜いていく。昨日の戦場が異次元空間だったように思えるほど、長閑で平和な光景だ。


 今の俺の服装はと言えば、半袖の白いシャツに、地元高校の黒い学生ズボンを穿いている。ネクタイはなし。ただし、シャツの襟元に、所属する学校の校章を象ったバッジを付けている。ベルトは入学式に着用したものからずっと変えていない。


 何故警視庁の警部補相当官である俺が、こんな格好をしているのか。

 答えは簡単で、俺がこの近辺の教育機関に通う一人の公立高校生だからだ。学年は二年生。そろそろ一学期の期末テストの時期である。


 俺、鬼原涼真という人物が高校に在籍しているというのは、半分は事実で半分は偽装だ。しかしそれを言ったら、俺が警視庁の警部補相当官であることもまた事実と虚偽が半々である。

 いや、虚偽とは言わないだろうが、俺は『高校生としての日常』と、『刑事としての日常』を行ったり来たりしてる。これこそが事実だと言えるだろう。


 すると、見慣れたセーラー服が視界に入ってきた。パン屋の電柱の陰に隠れている(つもりになっている)。

 俺は何食わぬ顔でその電柱の横を通過しようとして、


「わっ!」

「……」


 仕方ないので立ち止まってやった。


「あ、あれ? 涼真くん、驚かないの?」

「一体何回おんなじ手を使うんだよ、雨宮……」


 俺は呆れて、腰に手を遣りかぶりを振った。

 雨宮夏奈。高校一年の頃から俺と同じクラスで、何かにつけて俺に絡んでくる。

 サイドテールにまとめた髪に、すっと整った目鼻立ち。身長は、女子にしてはやや高めで、運動神経は抜群である。座学の方はからっきしの様子だが、進路はどうする気なんだろうか。

 

 おっと、これを言い忘れるわけにはいかない。夏奈の瞳は、実に綺麗な色をしているのだ。藤色、宝石に喩えるならアメジスト色、だろうか。片親が外国人だと聞いた覚えはあるが、にしては瞳以外の顔のパーツが日本人らしい。それに、その両親とは、夏奈以外誰も会ったことがないという。


 などなど、俺が雨宮夏奈についての情報を再整理していると、彼女は俺の前に回り込んできた。上半身を折って、上目遣いに俺を見上げてくる。


「ねえねえ涼真くん、怪我はない?」

「ああ、お陰様で……って、え?」

「ふぅん、それはよかった」


 待てよ。どうして夏奈は、俺が負傷を伴う行動に出たことを知っているんだ?

 俺がそう尋ねようとすると、夏奈は先回りした。


「あっ、ほら! 昨日はじめじめしてたでしょ? 涼真くんがナメクジに足を滑らせて転んでないか、心配してたんだから!」

「アホか! ナメクジに謝れ!」


 俺は軽く、手刀を夏奈の頭頂部にくれてやる。


「あん、いたぁい……」

「おい、変な声出すなよ」


 けろりとした様子の夏奈。しかし、俺には見えてしまった。夏奈の鎖骨から胸元にかけての豊満なラインと、シャツの下に着込んだ下着が。


「ぶふっ!」

「あれ? どうしたの、涼真く……って鼻血! 鼻血が出てるよ! 救急車!」

「馬鹿、んなもん呼ぶな!」


 右手で鼻を摘まみつつ、左手を振り回して夏奈の手元を押さえようとする。すると、ぽよん、という張りのある柔らかな感触が俺の左手に走った。


「あ」

「え?」


 俺の左手は、見事に夏奈の胸を鷲掴みにしていた。

 それから校門を通過するまで、俺が夏奈に追い回されたのは言うまでもない。


         ※


「この、涼真くんの変態! このっ、このっ!」

「あーったく! ありゃ事故だっての! そういつまでもポカポカ殴るな、減るもんじゃなし……」

「うわっ、ヒドい暴言! 信じらんない! このこのこのこのっ!」


 などと珍妙な茶番を演じつつ、俺と夏奈は教室に至った。そして俺は、がっくりと肩を落とす。

 夏奈の殴打よりも俺の気を重くさせていたものがある。それは、夏奈の胸に触れてしまったという不変の事実だ。これが教室で、要らぬ噂の種になっていることは疑いようがない。


 ただでさえ、俺は周囲との接触を避けている。同年代の若者と俺の価値観は、決定的に違っているからだ。そんな俺の日頃の態度は、間違いなく排他的で、不寛容で、不愛想に見えていることだろう。

 早い話、いついじめの対象にされてもおかしくないということだ。


 まあ、この学校は進学校だから、いじめは無きに等しい。それに、子供のいじめなどたかがしれている。心配する必要がないと言えばないのだろう。

 だが、心理的にどんな目で見られるかを想像すると、がっくりと膝を折りたくもなる。繰り返したくはないが、何せ同級生の、それも異性の胸に手を触れたのだ。


「……」


 俺は自分の席に着き、両肘を立てて頭を抱えた。

 聴覚をシャットアウトする技量は、残念ながら俺にはない。だが、それが不幸中の幸いとなった。


「……ん?」


 皆が話している話題が違う? 何やら、爆発だとか銃撃だとかいう声が聞こえるぞ。

 気になる。非常に気になる。皆、何の話をしているんだ? まさか、昨日俺が携わった作戦について、か?

 俺がふと顔を上げると、一人の男子生徒が俺の机に歩み寄ってくるところだった。

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