第10話「細川の奴め!」
この年、出陣する前の大阪城では、おれの弟秀頼が自分も元服したんだから出陣したいと申し出ていた。だが、さすがにまだ早いとあきらめさせた。
おれ鶴松も同じ十一歳で戦場に出た。それを周囲の者から聞いていたんだろう。まあおれの特殊な事情など知らないのだから無理もない。
「兄上、私も元服したんだから出陣をーー」
「まだ言っているのか」
確かに秀頼は年の割に立派な体格をしている。あのじい様の子供とは思えないような……。
「お前はなかなか立派な身体つきをしておるがな、まだ早い」
そう言ったおれの前で、淀殿は微妙な顔をして見つめている。
「兄上も同じ年ごろにはもう活躍されたと、皆から何度も聞いております」
「うん、それはそうなんだがな、お前にはまだちょっと早い。もう少し待て」
「なぜですか?」
秀頼が食い下がって来た。
「それは、まあ、なんだ、その」
「私だって刀くらい扱えます」
「だからあ、戦場ではそれだけではないんだってばあ」
「…………」
く、くるしい……、これ以上なんて言ったら良いんだ。
初陣の例を調べてみました。
十一歳 吉川元春
十三歳 源頼朝
上杉謙信
十四歳 織田信長
十五歳 北条氏康
伊達政宗
十六歳 武田信玄
十七歳 徳川家康
二十歳 毛利元就
二十二歳 長宗我部元親
石田三成
島津義久
十一歳というと小学五年から六年生だから、いくら早熟の時代でも無理というもの。実際は後ろの方に居たというだけではないだろうか。それでも負け戦ともなれば命は無いのだから、覚悟は必要だったでしょう。
ちなみに今回の出陣でおれは十五歳、中学から高校生になる辺りだ。ぎりぎり刀を振るう実戦に参加出来る年齢だろう。
二俣城方面での戦闘があったちょうど三日後、ついに徳川全軍が渡河したという連絡が、才蔵配下の者よりもたらされた。浜松城から北北東に約二〇キロ、遠州平野の端で標高四〇メートルほどの小山に二俣城が築かれている。史実では家康の長男・信康の切腹で知られる城だ。
浜松城から二俣城に向かう道筋東側の天竜川までは三キロから五キロほど。何処までも平坦な地で、視界を遮るような障害物はあまり無い。南北なら日差しも関係なく、先に陣取りをするような意味のある場所など無いのだ。
「殿、全軍定位置に付きました」
「よし」
豊臣方は浜松城から離れ、北に向かって陣を敷いた。多分家康殿もわが軍と同じような陣形をとるだろう。
徳川・伊達同盟軍
島津忠恒 宇喜多秀家 加藤清正 真田幸村 黒田長政 長曾我部盛親
一六〇〇 二〇〇〇〇 六〇〇〇 一七一〇〇 七〇〇〇 八六〇〇
大谷吉継 福島正則 豊臣秀矩 細川忠興 小西行長
三六〇〇 七〇〇〇 六七九〇〇 五〇〇〇 六〇〇〇
三方ヶ原の戦いでは、二俣城の前から西に向かう武田軍の情報を知った家康は三十三歳。家臣の反対を押し切って、籠城策を三方ヶ原から祝田の坂を下る武田軍を背後から襲う策に変更した。織田からの援軍を加えた連合軍を率いて浜松城から追撃に出る。そして鶴翼の陣形をとり、武田信玄・魚鱗の陣形と戦闘し、惨敗してしまったということです。
大軍の武田勢に対してなぜそのような陣形をとったのか。それに対し数に勝る武田軍が魚鱗と、双方逆のような感じです。
いずれにせよ、その後の関ケ原では自信の表れか、それとも地形でそうなってしまったのか、鶴翼に近い陣形の西軍に対し、家康はオーソドックスな陣構えで臨んでいます。
家康が三方原で信玄と戦い惨敗したという話なんですが、敗因は諸説あってどれももっともらしく、本当のところは分かりません。
だけど、家康は戦うつもりなど無かったが、物見に出ていた部下が小競り合いを始めてしまい、彼らを城に戻そうとしている内に戦闘に巻き込まれてしまった、という説。
私はこれも案外ありそうな話ではという気がします。
ただ遠州浜松には「やらまいか」という言葉があります。やってやろうじゃないかといった意味です。遠州の方言だということですが、あれこれ考え悩むより、まず行動しようという進取の精神だという事のようです。
浜松城主だった家康にも、若い頃にはそんな気質があったんでしょうか。後の世に言われる「鳴くまで待とう時鳥」とはイメージが違います。
目の前を悠然と横切っている武田軍を前に、やってやろうじゃないかと家臣達の反対を押し切ってまで飛び出して行った。ちょっと軽いけど、忍の一字より絵になっていると思うのですが。
遠州の地で徳川軍と豊臣軍は対峙した。その戦闘はどちらが先に仕掛けたのか、それとも抜け駆けしよと突撃したのか、何の前触れもなく始まった。寝返った駿府や掛川の隊が、家康殿に戦意を見せようと一番に撃って出たのがどうやら真相のようだ。
すぐ右翼を守備していた盛親隊が戦闘状態に入ったとの知らせを受ける。それなら敵二隊の兵力は合わせて九〇〇〇だろう。
「才蔵」
「はっ」
「行長に隊を分けさせ、三〇〇〇で盛親隊を支援するように伝令を出せ。それから忠興隊は戦場を大きく迂回して敵の背後を突くようにと伝えろ」
「分かりました!」
次は幸村と黒田長政の隊が、前進して来た伊達隊と戦闘に入るとの知らせが来る。
「伊達隊の兵力は?」
「一五〇〇〇から二〇〇〇〇ほどかと」
「左近」
「はっ」
「五〇〇〇を率いて幸村らの背後で待機し、苦戦が見えたら支援せよ」
「分かりました」
幸村と黒田長政の隊は伊達隊と激しい銃撃戦になったようだ。その後は、すさまじい乱戦に突入した。
さらに左翼を守る忠恒殿の隊が忠勝隊から攻撃を受けているとの情報だったが、忠恒隊の背後にいた吉継隊がすかさず援護に入ると、今度は左横から一豊隊が突撃して来た為、敵味方の区別がつかないほどの混戦状態だと。
「長政(浅野長政)」
「はっ」
「兵四〇〇〇を率いて左翼に回れ。状況を見て忠恒殿や吉継隊の援護に入るんだ」
「かしこまりました」
忠恒殿は負傷して後退し始めたが、代わりに長政隊が割って入ると、激闘の末一豊隊は崩れ去り戦線を離脱したという。
中央付近で清正隊の前に陣を構え、状況を見守っていた忠吉隊だが、清正隊に襲い掛かると撃退された。それを後方で見ていた秀忠が自身の隊全軍に清正隊攻撃を命じたようだ。
「嘉明は、一五〇〇〇を率いて清正隊を支援せよ」
「はっ」
「安治は六〇〇〇で後方に待機。状況を見て討って出ろ」
「分かりました!」
秀家隊は目の前の直政隊を銃撃、攻撃に移ると、数に劣る敵は徐々に後退しているようだ。
「才蔵」
「はっ」
「秀家に前に出過ぎるなと言え!」
「分かりました」
「それから横の清正隊が苦戦しているようなら、支援しろと伝えろ」
「はい」
さらに正則隊は正面の秀忠の軍に突入。また戦場を大きく迂回していた忠興隊は、勝手に目標を変更して徳川本陣に攻撃を加えようとしたようだが、行く手を阻まれ混戦になっているという。
「細川の奴め!」
だが戦線はどこも優劣がつけがたく、膠着状態が増えてきた。
「才蔵は戻ったか?」
「はっ、これに」
「今すぐ敵本隊の近くにまでもぐり込めるか?」
「必要なら私がまいります」
「ならば、豊臣方に寝返った隊が出たと噂を流して来い」
「それでしたら、お任せください」
才蔵は不敵に笑い、おれの前から姿を消した。
やがて徳川勢の中から豊臣側に寝返った者が出た、との情報が飛び交ったため徳川方の大名たちに動揺が走る。中には早くも離脱しようとするものまで現れる始末。家康はそれを鎮めようと手を尽くすも、なかなか収まらない状態だと才蔵は知らせて来た。
――よし、勝負だ――
「勝永、兵二〇〇〇〇を率いて徳川殿本陣を突け」
「はっ」
「幸長、一五〇〇〇を率いて、勝永の邪魔をする者どもを蹴散らせ!」
「はっ!」
「殿」
「才蔵は何処だ」
「殿!」
家臣が何度も声を掛けてくる。
「なんだ!」
「そんなに兵を出したら、殿を守る者が居なくなります」
「分かっておる。才蔵、安治に戻って来いと連絡せよ」
「分かりました」
だがこの時点で家康本陣突入のチャンスが来たと、そればかりに気を配っていたからなのだが、やはりおれの周囲が手薄になり始めているのを甘く考えていた。
豊臣本陣の守備が極端に薄くなっているのを見た伊達の別動隊が、急襲して来たのだった。
「殿!」
「佐助」
「早くお逃げ下さい」
だが、もう遅い。既に周囲は数千の伊達隊で埋め尽くされている。それに対して動ける味方の兵は五〇〇か一〇〇〇か。
「くそおっ!」
おれは始めて刀を抜いた。
佐助も刀を構え、おれの背後に居る。
後はもう夢中で重い刀を振り回していた。
敵雑兵の槍が迫って来る。
思わず目をつぶりそうになるが、佐助がその槍をすんでのところで逸らした。
おれの兜がゆがんで落ちそうになり前が見えない。ずるっと上げたのだが、いつの間にか周囲に味方が増えている。
だが後から後から限なく掛かって来る敵に、わずかな味方も次々と打ち取られ、
「ちくしょう!」
残された体力を振り絞って刀を振るうも、また次の槍が迫って来る。
次第に刀を持ち上げられなくなり、その後はもうどうなったのか分からない。
敵雑兵に槍で頭をぶん殴られ、ひっくり返って気絶した……
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