第6話 何者かが後を付けて来る。

 イギリスの産業革命は、まだ一世紀も二世紀も後の話だ。

 しかし秀矩に話しかけて来る太郎兵衛と仁吉の話を突き詰めていけば、それは日本の産業革命にも繋がるのではないか。もちろんそんな言葉はまだ無いが、秀矩は可能性の広がりに、胸が熱くなるのを感じていた。


 蘭学は、長崎から日本に入ったヨーロッパの学術・文化・技術の総称であった。オランダの書物を読み始めた当初は蛮学(南蛮学)と呼ばれ、蘭学に変わり、明治以降は洋学と名称が変わっていく。だが、そんな海外の新しい技術よりも、もっと肝心な事は、何かを決定する際の考え方ではないかと秀矩は思うのだ。

 あの方が残されたものは未来の情報だけではない。きっと今の時代の者が持っていない、新しい考え方を置いて行かれたのではないか、そう思い始めたのだった。


「造りましょう。学習処では太郎兵衛殿も仁吉殿も講師をなさって下さい」

「…………」

「それからパイン殿には、海外の講師を紹介してもらいます。いや、パイン殿自身にも教えを請いましょう」


 イングランドに若者を留学させる話は既に進んでいた。人選も済み、来年には交易船に乗る段取りになっている。

 大坂城下の学習処に関しては、日本中の大名に趣旨を説明して、協力するように要請してある。すでに全国から学習を希望する者が殺到していたので、留学させる者もその中から選ぶ事になった。







 安兵衛の館では、庭に落ち葉が舞い始めていた。コンスタンチノープルは秋の気配が冬に変わろうとしている。


「寒くはないですか?」

「いえ、あなたの側ですから、ちっとも」


 安兵衛と並んで散歩するミネリマーフは微笑む。いつまでも丁寧な言葉使いを変えない二人だった。二人の後には、今ではもう慣れてしまったが、特に指示しない限りミネリマーフの侍女が付き従っている。


「実は前からお聞きしようと思っていたのですが、貴女の祖国はモルダビア公国だったのですね」


 モルダビア公国は一六世紀に、北上してきたオスマン帝国の勢力と戦ったが、敗れ従属国になった。その戦の際捕らえられ、奴隷として帝国に運ばれて来た貴族の女性がいる。その後身ごもり生まれた娘が、ミネリマーフの母親だった。

 略奪された者と言っても、オスマン帝国ではハレムに入り、皇帝となる息子を生んで、皇后にまでなった例もある。奴隷でも容姿の良い貴族の娘などは、さらに高い教育としつけを施されて皇帝の側室に入る事が多かった。

 ミネリマーフの家系もその例にもれなかったのだ。


「私ももちろんですが、母も祖国の事は全く知らないんです」

「…………」

「今ではこの国が私の祖国のようなものです」


 ミネリマーフがヤスべの顔を見た。


「ヤスべ様のお国の事も話して頂けますか」

「そうですね……」


 安兵衛は話が苦手だった。特に女子とは。


「日本の女性は綺麗な方が多いと伺っております」

「いや、私には良く分かりません」

「え、何故ですか?」


 しきりに日本の女性の事を聞いてくるミネリマーフに、安兵衛はたじたじだった。その時、


「ヤスべ様」


 召使が宮殿から使いの者が来ていると言って来た。

 安兵衛は正直ほっとした。


「分かったすぐ行く」


 宮殿からの使者は、ムラト四世がお呼びだと言って来たのだった。





 宮廷に入ると、後宮宦官長が声を掛けて来た。


「これはヤスべ様、陛下がお待ちで御座います」

「分かりました。お願い致します」


 宦官長が先に立って歩いて行くのだが、途中で大宰相と出会い会釈をした。

 宮廷では、サドラザムとよばれる大宰相がいて、その下には次席大臣がいた。

 大宰相は能力と努力次第では、低い身分の者でもその地位にのぼりえた。ターバンを被り、長衣カフタンをまとって正装した宰相達は皆ひげを蓄えていた。ただし、スルタンの逆鱗にふれれば、突然の解職、さらには死を賜る危険性もあった。


 時折後ろを気に掛けながらしずしずと歩く宦官長。やがて奥まった部屋の前に着いた。


「ヤスべ様です。陛下にお取次ぎを」


 部屋の内外で、作法通りの所作をする者達が居て、


「通せ」


 中からムラト四世の声が響いて来た。

 安兵衛は部屋に入る。さらに奥まった場所にムラト四世は居た。

 手招きされ、傍に行くと、


「ヤスべ」

「はい」

「どうだ、ミネリマーフは気に入ったか?」

「はい、有難う御座います」


 ムラト四世は満足げな表情を浮かべると、もっと近くに来てこれを見ろと手を伸ばして来た。その手のひらには信じられないような大きさで、赤く輝く宝石が乗っていた。


「キリスト教徒どもが持っていた物だ」

「…………」


 スルタンは宝石のコレクターでもあるのだった。だが、ムラト四世はすぐ表情を変えた。


「ヤスべ!」

「はい」

「これより大臣達と会議がある。付いて参れ」

「はっ」


 あまり飾り気のない部屋に入ると、そこには既に数人の大臣達が並んで立っている。玉座に一番近い位置に立つのが大宰相だ。

 ムラト四世が玉座に座る。

 だが安兵衛が大臣達の末席に立とうとしたその時、


「ヤスべ」


 ムラト四世の指が玉座の横を指さした。

 戸惑う安兵衛に、大臣達の視線が集中する。

 スルタンの指示は明かに玉座の横に立てと言う意味だ。

 だがすぐには動けなかった安兵衛に、


「何をしておる、常に私の傍に居ろ言ったではないか!」

「はっ」


 その叱責はムラト四世の気遣いでもあった。

 大臣達にこの先余計な口出しをさせぬ為にも、こうして傍に来させたのだ。

 これで大臣達は何も言えなくなった。安兵衛の行為に口を挟む事は、ムラト四世に意見を言う事であるからだ。

 会議ではバクダードへの侵攻時期について議論され、後は酒場で喫煙が後を絶たないと言う報告がなされた。

 ムラト四世のタバコとコーヒー嫌いは徹底していた。


「酒場を見回り、喫煙をしている者は片っ端から捕えてしまえ。それから夜間の外出は禁止だ」


 イスラムの国は今でも酒たばこを禁止していて、夜の街と言うものも無いようだ。

 安兵衛はもともと酒は飲まないしタバコも吸わないので、よそ事のように聞いていた。コーヒーと言う物も、まだ飲んだ事が無い。

 会議が終わると安兵衛はムラト四世の供をして、最初の部屋に戻って来た。


「ヤスべ」

「はい」

「今日はもう良い。ミネリマーフの所に帰ってやれ」

「有難う御座います」


 宮廷から安兵衛の館までは、男の足なら何とか歩いて行ける距離だ。日が暮れる頃には着けるから、馬などを使う必要はない。

 だが、その道すがら、安兵衛は気配を感じた。何者かが後を付けて来る。

 盗人暴漢などを恐れる安兵衛ではないが、相手が誰で何が目的なのか気になった。

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