第7話 ヴェネツィア商人の娘ラウラ
安兵衛は少し歩調を変えてみて、合わせる相手の動きに確信した。
明らかにこの者は後を付けて来ている。
家並みが無くなり、林に入って来たところで安兵衛は歩みを止める。振り返ると、その者も足を止めた。
「その方、何ゆえに私の後を付ける?」
「…………」
返事が無い。
足元まであるマントを羽織り、頭をフードですっぽり覆っているから、顔は見えない。相手はそのまま動かずじっとしている。このまま対峙し合っていても、埒が明かない。
安兵衛は刀の鯉口を切る。何時でも素早く動けるように全身の力を抜いて、その者に近づいて行く。この間合い、相手の身体はマントに覆われている。抜刀は得手でない安兵衛だが、この者が武器を取り出す前に切り捨てる事は可能だろう。
だが、ここでそのマントの主が声を出した。
「ヤスべ様で御座いますね」
「ん!」
その声……
さらにフードを外して顔を見せると、やはり髪を伸ばした女子ではないか。暗がりにも整った顔立ちに見える。女は言葉を続けた。
「ヤスべ様に助けて頂きたく、ここまで付けて参りました。失礼をお許し下さい」
殺意は全く感じられない。その言葉の様子からすると、何かよほどの事情が有りそうだ。だがここでいつまでも立ち話は出来ない。
「では私の館はすぐそこです。一緒に行きましょう」
「有難う御座います」
女はそう言って付いて来るのだった。
館に入ると、女は安兵衛とミネリマーフの前でマントを脱ぐ。
ハレムの女たちをもしのぐ、色鮮やかな衣装が現れる。部屋の灯りの前で、その顔を一目見た安兵衛は、思わず見とれてしまいそうになる自分を戒めた。
「突然押しかけて申し訳ありません。父はヴェネツィアの商人で、私はラウラアレクシアと申します」
「私はミネリマーフ、ヤスべの妻です。ラウラさん、どうぞお座り下さい」
ミネリマーフが声を掛け、椅子を勧めた。
ラウラの話は、モスリムの海賊に積み荷を奪われた上、船に乗り組んでいた弟を人質に取られ、身代金を要求されていると言うのだ。
バルバリアと呼ばれる、北アフリカの港を基地として活動する海賊の被害である。オスマンは取り締まりにあまり熱心ではなかった。ヨーロッパ諸国との話し合いも僅かにあったのだが、放任していたと言っていいだろう。
何しろ海賊が捕らえたキリスト教徒は、奴隷としてイスラム教国に売り飛ばされる仕組みになっていたのだから。
「管轄の行政官には訴えてみたのですか?」
「もう訴えてから半年も経つのに何も変わりません」
安兵衛の問い掛けにラウラは顔を曇らせて答えると、さらに付け加えた。
「キリスト教徒の訴えなど、聞く気がないんでしょう」
「身代金の額は大きいんですか?」
「払えない額ではありませんが、払ったとたんに弟は殺されてしまうか、奴隷に売られてしまいそうで……」
「…………」
「お願いですヤスべ様。もう貴方様だけが頼りです」
ラウラは泣き崩れてしまった。
「しかし、それは今すぐ解決できる問題ではありません。今日の所は話を承っておくだけにしましょう」
もう時間も遅いので、客間に泊って頂くという事にした。
だが、安兵衛とミネリマーフは二人だけになると、互いに黙り込んでしまった。
これは面倒な事になった、というのが安兵衛の偽らざる気持ちだった。
彼女はほぼ敵国の商人の娘なのだ。ほぼと言うのは、今は未だ戦争をしていないと言うだけの事である。もしもこの事が誰かの口からムラト四世の耳に入ったら、安兵衛の首が飛ぶやもしれない。
スルタンの側近が敵国の者と密会をしていたと。
ぐずぐずしてはいられない。安兵衛が決意を話すとミネリマーフも同じ意見だった。
スルタンに対して秘密を持つという事は、ムラト四世の信頼を裏切る事になる。いかにラウラと言う娘の切なる願いとはいえ、スルタンの許可を得ず行動することは出来ない。
この事は明日ムラト四世に話して、指示を仰ごう。話し方次第では、ラウラの窮地を救う事が出来るかもしれない。
「殿、佐助様が参られました」
「お通ししなさい」
「はっ」
大阪城の洋室は既に二間も出来ている。秀矩のお気に入りで、常に使われているのだ。その部屋で二人は椅子に腰掛けて向かい合った。
「佐助さん、お久しぶりですね」
「はい、秀矩様がお忙しそうで、なかなかお会い出来ませんでした」
「申し訳ありません」
秀矩が頭を下げた。
「そんな事なさらないで下さい。お殿様なんですから」
この大阪城にあって、佐助の立ち位置は特殊だった。
まず、秀矩の事情を知っている六人の一人で、しかもあの方との関係を考えると、先の将軍の御台所様でもあるのだ。しかしその秘密は固く守られている。
大奥にも属さず、時の将軍秀矩様とも対等に話せる女性だった。だから大奥の女たちも佐助様と言い、別格の女性として接していた。
「ところでイングランドへ若者を留学させるとの事、お聞きしております」
「はい、日本は人材を育てなくてはなりませんから」
「ではお聞きしたいのですが」
「…………」
「女性は何故入っていないのですか?」
「あっ」
確かに言われてみればその通りだった。人口の半分は女性なのだから、男子だけを学ばせると言うのは、文字通り片手落ちだ。
「それはその通りですね。すぐに手配をして、女性を全国から募集致します。留学の件も選考を見直しましょう」
佐助は大阪城の外に住まいを設けていた。豊臣家からは十分な生活資金が支給されていて、幾人かの下男下女も居るのだが、慎ましい生活を好んだ。
「では、留学の候補選考には佐助さんも立ち会って頂けますか?」
「分かりました。私でよろしければ、お手伝いさせて下さい」
日本の社会に必要な女性達を、この目でしっかり確認したい。きっとあの方も未来から見ていらっしゃるに違いない。そんな思いに佐助は、そっと胸の内で声にしてみるのだった。
「殿……」
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