第5話 スルタンの側近ヤスべ

 イェニチェリの男と対決した後、安兵衛は髷を切った。

 もう後戻りは出来ない。この地に骨を埋めようと覚悟を固めた時、ざんばら髪となった安兵衛はムラト四世に呼び出された。


「ヤスべ」

「はい」

「この者をそなたに授ける」


 そう言ってムラト四世は、横に控えている奴隷と思われる女性に、ヤスべの傍まで行くようにと指示した。

 東ヨーロツパから連れて来られたと見える女性だ。その目は大きく透き通ったエメラルド色をしていて、日本の女子とは容姿が全く違う。瑠璃色のドレスには様々に色鮮やかな刺繍が施され、控えめな仕草で立っている。安兵衛が戸惑うような美人だ。

 女は腰を落とし、頭を下げて安兵衛に会釈をしたが、どうしていいのか分からない。


「…………」

「なんだ、気に入らぬのか?」

「あ、いえ」


 オスマン帝国には雑多な言葉が溢れていた。公用語も無く、どの言語を強要するという考えもこの国には無かった。ましてや戦場で刀を振るうのに言葉は要らない。

 それでも少しづつ生活に必要な言葉を覚え始めている。

 しかしこの状況には、せっかく覚えた言葉が何も用をなさなかった。

 戸惑い、言葉が出てこない安兵衛にムラト四世は、


「ところでヤスべ、その髪はどうしたのだ?」

「はい、私はあなた様の帝国に骨を埋める覚悟を固めましたゆえ」

「…………」


 ムラト四世は満足げにヤスべを見て、さらに言葉を続けた。


「その方の身分はこれよりセイフィエ(武官階級)とする」


 セイフィエとはイェニチェリ最高司令官と同じ階級である。家屋敷の他、目の前に立つ女性以外にも召使を用意すると言う。

 さらにムラト四世は言葉を続けた。


「ヤスべはこれより常に私の傍に居ろ」

「…………」

「何か言い分があるのか?」

「いえ、有難く仰せに従います」


 安兵衛はすぐムラト四世の足元にひざまずき、そのガウンの裾にキスをしようとした。この地の者達がスルタンに感謝の意を表す時の習慣を、すでに学んでいたのだ。

 だがムラト四世はそんな安兵衛を制すると、自らの手を差し出した。ガウンの裾ではなく、私の手の甲にキスをしろと言うのだ。

 ムラト四世の信頼を得て、スルタンの側近ヤスべが誕生した瞬間だった。

 安兵衛と共に来た侍達も、正式にイェニチェリの一員に組み入れられた。



 安兵衛に与えられた館は、静かな庭に囲まれていた。日本の家屋とは余りにもかけ離れていたが、一番の違いは何と言っても傍に控える女性だった。


「名前は何と言うのですか?」

「ミネリマーフと申します、ご主人様」


 その白い肌の女性は控えめに答えると、膝を少し曲げるようにして頭を下げた。アジェミー(新参者)と呼ばれる、ハレムに入ったばかりの娘だった。


「貴女はもう奴隷ではない。ご主人様ではなく、私の事はヤスべと呼んで下さい」

「…………」


 安兵衛を見つめる女性に、私の祖国日本に奴隷という制度は無いのだと説明した。だが、どう説明しても頭を下げるばかりだ。

 剣に生きて来た安兵衛は女子の扱いには慣れていない。


「もう好きにしてくれ」と突き放すような態度をとってしまう。


 するとその安兵衛の様子を見た女性は、さらに謝って来るので困り果ててしまった。しかし月日が経つと、その関係も次第に深まって行く。ムラト四世同様、ミネリマーフの信頼も得たようだった。

 ある日の事、安兵衛の館に一人の男が訪ねて来た。


「ヤスべ様」と言って、小さな包みを差し出して来た。まだ話した事は無かったが、宮廷内で時折見かける人物だ。

 要件を聞くのだが、大した用も無いのか雑談をしただけで、包みを置いて帰って行った。開けると木箱に幾つかの宝石が入っている。安兵衛が腕組みをして見つめていると、ミネリマーフが傍に来た。


「ヤスべ様」


 今ではやっとご主人様とは言わなくなっている。


「ご注意下さい」

「なに!」


 あの者は信用がならないと言うのだ。


「…………」


 ただでさえ新参者の安兵衛が、ムラト四世の側近に取り立てられて、好ましく思っていない者も居るだろう。この先どんなトラブルに巻き込まれないとも限らない。用心するに越したことはない。


「さて、このような物をどうしたいいのか」


 だが、突然の来訪者は一人ではなかった。次々と大した用も無いのに訪れては、何かしら物を置いて行く者が後を絶たなかった。

 剣一筋に生きて来た安兵衛にとって、初めて経験する試練でもあった。







「旦那様、仁吉殿が参られました」

「お通ししなさい」


 太郎兵衛も仁吉に話が有ったので、周囲の者を遠ざけた。


「太郎兵衛様」

「仁吉殿、今日はどのような御用件でしょうか?」


 仁吉の用と言えば、武器弾薬の事、あるいは製鉄所の事に違いないと太郎兵衛は思った。だが、切り出したのは意外な話だった。


「実は寺子屋を造ってみようと考えております」

「寺子屋ですか?」

「はい」


 仁吉の発想を現代風に言えば、職業訓練所であった。


「私は今まで、あの方から聞かされた銃を造る事に夢中でした」

「…………」

「ですが今では、私と弟子だけでは、とてもこなしきれない規模になっております」


 仁吉が見習いに入った頃は、トンカチで殴られながら、技術を盗み覚えたものだと言う。だが今そんな事をしていたら、到底秀矩様の要求するような数はこなせないだろう。職人をもっと一気に増やす必要があると相談に来たのだった。


「なるほど、それで寺子屋ですか」

「はい」


 寺子屋と言うのはちょっと違う感じもするが、仁吉の言いたい事は分かる。

 確かに仁吉の言う通りだ。武器や弾丸を輸出するという事を考えると、それに対応できる技術者を一気に増やす必要が有る。

 二人ともあの方の傍に居て、職人の分業化という事は既に聞いた事がある。この時代の者とはどこか違う考え、感性を身に着け始めていたのだった。






 東南アジアでは傭兵として、現地の組織に雇われる日本人の侍が大勢いた。何しろ戦国の世を生き抜いて、戦慣れしている連中なのだ


 後で分かったのだがアンボイナ事件では、イギリス東インド会社に雇われていた日本人の傭兵がいる。オランダの衛兵らに対し、兵の数をしきりに尋ねていたと言う。

 これを不審に思ったオランダ当局が、拘束して拷問にかけた。するとイングランドが砦の占領を計画していると自白。

 直ちにイギリス東インド会社商館員ら数十名を捕らえた当局は、凄惨な拷問を加えて認めさせた。関わった日本人傭兵は、十名ほどだった。これが事件の真相らしい。

 

 ヨーロッパがアジアに進出させている東インド会社の影響は大きい。彼らは互いに軍隊を繰り出してまで、自分たちの権益を守ろうとしている。それだけアジア貿易は利益が大きいという訳だ。

 一方アジアの国々は、ヨーロッパ勢の言いなりになっている現状がある。

 北インドの都市ではそれまで商工業が発達していたのだが、イギリス東インド会社と関わってから、既製品を輸出する地位から原材料供給国となり、代わって既製品輸入国となってしまった。原材料を輸出するだけでは貧しくなるばかりだ。既製品を輸出する国にならなければならない。それが秀矩の考え方だった。

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