第5話おぞましい元担任教師
数時間前、ベッドの中での俺と麻美のワンファイト。あのとき麻美は俺のためにそれはそれは凄いことをしてくれた。ところが今、二人の距離はずいぶん離れている。
麻美が大きなため息をついた。俺の車の後部座席で、だ。ここに来るときは俺の隣の助手席にすわっていたのに。
ちっ、鉄之助はまだ来ない。
「さっき私、担任教師にセクハラされたって言ったじゃん。その担任教師が学校を去って少し経ったころ、私、夜、一人で塾から帰宅してたの。そしたら私の横に車が停まって……その車にあの担任教師が乗っていて」
麻美がしゃべり始めた。
暗い車内で不安そうな麻美の声が響く。俺はカーオーディオから流れる音楽を止めた。
「『今からキミの家へ行くところだった、キミやキミのご両親にちゃんと謝ろうと思って。よければ私の車に乗りなさい』、元担任教師はそう言った。私、うっかり彼の車に乗っちゃって。そしたら車は私の家には行かず……」
「元担任教師の車が停まった所は月ヶ丘小学校だった。ここよ、この場所」
俺は車の中から改めて周囲を見渡した。
「小学校校舎に入るとすでに鉄之助がいた。当時、月ヶ丘小学校校舎って不審者侵入を防ぐために最新の防犯システムを導入してて……元担任教師、そして私と鉄之助は完全に施錠された夜の小学校校舎に閉じ込められたの……元担任教師が職員室のパソコンでそういう設定にしちゃったのよ」
「私たちの悪夢の始まりよ」
麻美は、せき止められていた思いが一度決壊すると、次から次へと言葉が溢れ出るようで、時どき噛んだ。それでも話を続けた。
「私たちは廊下に並んで立たされた。水のたっぷり入ったバケツを両手に持たされてね。乗馬用の鞭を持った元担任教師は、『私はキミたちにちゃんと謝らないといけない』って……そしたら鉄之助が突然大声でカウントダウン始めて、私はすぐ機転を利かせてすべて理解した。鉄之助がゼロって叫んだと同時にバケツの水を担任教師にぶっかけて、私たちはバラバラに逃走した」
「元担任教師は私じゃなく鉄之助を追いかけた。そうして深夜の小学校校舎で元担任教師からの逃走劇が始まったのよ」
「元担任教師は『鉄之助、どこへ行った、私に謝罪させてくれ』って……『鉄之助、私は心から反省してるんだ、謝らせてくれ、私を男にしてくれ』っていう元担任教師の声が校舎中に響いたわ」
運転席で俺は大きくため息をついた。麻美は俺にタバコはないか訊いてきた。俺はタバコを持っていなかった。
「どうやって助かったの?」
「どうやったと思う?」
俺は何も答えず、麻美が再び話し始めるのを待った。
「……簡単な話。閉じ込められた校舎の中から110番したのよ、鉄之助のスマホで。別に妨害電波が出てたわけじゃなかったからすぐ繋がったわ」
「元担任教師は変質者だったけど、悪知恵が働くタイプじゃなかった。で、すぐパトカーが来た」
ひでぇ〜大人がいるもんだ。まぁ、自分から進んで小学校教師になるくらいだから、俺らよりよっぽど子供たちと親和性があるのかもしれない。それにしてもひでぇ〜。
「そんな大事件、ニュースで見なかったぞ」
「あとで知ったの、その元担任教師の親戚に地元の衆院議員がいたんだって」
「揉み消されたってことか」
「そういうこと」
麻美の答えに俺は言葉がなかった。世の中は予想以上にぶっ壊れているらしい。
「あれ以来、鉄之助は変わっちゃったわ……壊れたっていうか」
麻美が再び大きなため息をついた。そして俺たちはしばらく黙りこくってしまった。
車の後部座席のウィンドウを誰かが外からコツコツとノックしている。鉄之助だ。やっと鉄之助が来た。俺は運転席から後部座席のロックをオフにした。
麻美の話を聞いて、俺は気持ちが変わった。
俺は鉄之助に同情し始めていた。たとえ俗に言うトラウマだとしても酷すぎる。子供が子供らしく伸びのびと生活するために大人たちは最大限の支援をするべきだ。それだけ子供というのは無力で無垢な存在なのだ。
鉄之助は大人から虐待を受けたという点で完全に被害者なのであって、大人たちの庇護から完全にこぼれ落ちた存在なのだ。
かわいそうに。
車の中は徐々にエアコンが効いて温かくなってきていた。
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