におい

蛙鳴未明

におい

「ただいま」


 ドアを開けた瞬間、熱気と異臭に顔をしかめた。パタパタと母さんがやってくる。


「おかえり。随分久しぶりねぇ」


「ただいま。ねえ母さん、変な臭いしない?」


 しかめっ面で聞くと母さんはきょとんとした顔で首を傾げ、鼻を鳴らす。


「そうかしら。別に変な臭いはしてないと思うんだけど……」


「本当に?」


「ええ。あんた、一人暮らししてる間におかしくなっちゃったんじゃないの?」


 駄目だ耐えられない。鼻を押さえて思い切り咳き込むと、母さんは怪しむようにこっちを見てきた。


「あんた、まさかクスリ――」


「やってないよ!いいよじゃあもうおかしくなったで!とにかく窓開けて窓。鼻が曲がりそうだ!」


 母さんは慌ててパタパタと窓を開けに行った。間もなくガラガラと音がして、そよ風が僕の鼻を撫でる。だいぶマシになった。廊下にあがり、戻ってきた母さんに聞く。


「父さんは?」


「出張伸びちゃったのよ。残念だなあ残念だなあって言ってたわよ」


「ふーん」


 リビングに入ると、心なしか異臭が強くなった気がした。


「……ねえ、やっぱり変な臭いしない?」


「しないわよ。ほらほらそんなの良いから座って座って!あんたが帰ってくるっていうからごちそう作ったのよ」


 母さんは僕の荷物をふんだくると、僕をテーブルまで押していって半ば強引に椅子に座らせた。


「すぐあっためるからね〜」


 そう言って小走りにキッチンへ。見ると大きな寸胴がコンロに乗っかっていた。


「そんな鍋あったっけ」


「具溢れちゃいそうだったから慌てて買ってきたのよ」


「……相変わらずだね」


 どうでもいい会話をしながら鼻をひくつかせる。


「なんか臭い強くなってない?」


「まだ言ってるの?あなたの鼻がおかしいだけよ」


 本当にそうか?幻聴とか幻視は聞いたことあるけど、幻嗅なんて聞いたことがない。だんだん強くなっていく幻嗅なんていよいよ無い。


「母さん、鍋の中身腐ってない?」


「腐ってないわよこれが普通よ」


「じゃあ……冷蔵庫の中身とか……」


 ひょいと冷蔵庫の方に目をやって即座に後悔した。扉の隙間から何か得体の知れない液体が漏れだして小さな水溜まりを作っており、そこに黄色い斑点のある黒い虫が山ほど群がっている。咄嗟に目を逸らし叫ぶ。


「母さん!冷蔵庫からなんか漏れてる!」


 一瞬遅れて母さんの悲鳴。バシッビシッと音がなり、カサカサカサと気色の悪い音がそれに続く。


「やった?」


 冷蔵庫を開ける音。


「あーあもったいない」


 遅れてきた激臭に思わず咳き込む。


「なんで冷蔵庫の中身腐ってんだよ!」


「ブレーカー落ちちゃったのかしら……」


「なんで落ちたままなんだよ!」


「だってお父さんじゃないと分からないから……」


「聞けばいいだろ電話でもなんでも!」


 あああ鼻が曲がりそうだ。イライラしながらコンロに目をやる。


「母さん鍋!」


 間一髪、母さんの手がスイッチに届いた。山のように盛りあがっていた泡が勢いを無くしてしぼんでいった。


「なんで見てないんだよ……」


 なんだか疲れた。大きく溜息を吐く。


「なあにぃ?そのため息。これ食べて元気出しなさい」


 湯気を立てる皿がコトリと置かれる。


「シチュー?」


「煮込み」


「煮込みもシチューも同じだよ」


 一口。……臭いのせいで味も何も分かりやしない。コリコリと肉らしきものを噛む。ほんのりと、懐かしい味がしたような気がした。


「母さんこれ何の肉?」


「やあね。あんた小さい頃よく食べてたじゃない。」


 言いながら母さんは戸棚に手を伸ばしタッパーを取る。いや結局何の肉だよ、と皿に目を落とした。肉やら何やら浮かんでいる中に、一本黒い筋。すくい上げてみると髪の毛だった。母さん髪の毛――と言いかけてはたと気付く。母さんはこんな太い髪だったか?僕の髪の毛のように、もっと細い、サラサラとしたものだったはずだ。異臭が強くなったような気がした。ゆるりと顔を上げ、何かを咀嚼する母さんの背を見る。


「……ねえ母さん、変な臭いしない?」


「……変な臭い?」


 振り返った母さん。その三日月形に曲がった口から、腐りかかった手がイカゲソのように垂れ下がっていた。母さんの手が手を掴み、思い切り引っ張って指を一本食いちぎる。美味しそうにくちゃくちゃ音を立て、母さんは恍惚の笑みを浮かべた。


「――良い匂いじゃない」

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